6、第二の紅

 報せが届いたのは、夜が更け、町家の灯りがひとつ、またひとつと消えていった頃だった。

 陰陽寮の門前に駆け込んできた検非違使は、息も絶え絶えで、声を張ることもできず、ただ巻紙を差し出した。

 受け取った朔麻呂が広げると、墨で書かれた文字が震えるように滲んでいる。


 「紅い死体——ふたつ目」


 それだけが、荒く走り書きされていた。


 駆けつけた現場は、すでに人払いがなされ、薄闇の中に異様な静寂が満ちていた。

 死体が見つかったのは、役人の詰所の一室だった。外には灯籠がいくつも並べられていたが、光は弱く、闇のほうがなお濃く感じられる。

 足を踏み入れたとき、和登の鼻腔をすぐに刺したのは、あの甘い香りだった。紅花と蘇枋の底に、さらに異国の影を帯びた——あの香だ。

 そして中央に、またも紅く染まったひとりの死体が横たわっていた。


「……また、か」


 朔麻呂が呻く。扇を強く握りしめ、骨のきしむ音がかすかに響いた。

 死者はまだ若い役人で、身なりは端正だが、顔にはやはり苦痛の色がなかった。衣の胸元は濃い紅に濡れ、ただ静かに、まるで絵筆で塗られたように鮮やかに見える。


「顔の歪みなし。痕もなし……やはり、同じ術か」


 焔は淡々と告げ、床に膝をつく。

 指で衣の紅をすくうと、粘り気が前よりも強いのがわかった。

 焔の目が、わずかに細められる。


「……配合が、変わっている」

「変わっている?」


 和登が眉を寄せ、香の匂いに集中する。

 梅花香に似た甘さの奥に、たしかに違和のある影があった。前よりも土臭く、重い。

 嗅いだ瞬間、記憶の底に砂嵐のような感触が広がった。唐の港で、異国から渡来した香料を混ぜた袋を嗅いだときの、それに似ていた。


「……強くなってる」


 和登が呟く。


「香が、前より濃く、重く……身体に染みるのが早い」


 焔は無言で頷き、死体のそばに落ちていた紙片を拾い上げた。

 そこには、またも和歌が書かれていた。

 けれど——。


「……違う」


 焔が低く言った。


「前と似ているが、言葉がわずかに変えられている」


 和登と朔麻呂が覗き込む。

 そこに記されていたのは——


 なにしおはば 匂ふをしるべ おく露の

 跡も紅きは 誰が袖の夢


「“香ぞ”ではなく、“夢”……」


 和登が息を呑む。

 わずかな差。しかし、そのひと文字が、歌の意味をまるで変えていた。


「夢……袖の香が、夢に変わる」


 朔麻呂が低く唸る。


「つまり、どういうことだ」


 焔は紙をしばらく黙って眺めていたが、やがて口を開いた。


「前の歌では“袖の香”は媒介、対象を縛る符の意味を持っていた。だが“夢”と置き換えることで、術の向きが変わる」

「変わる?」

「これは——死者の魂を、夢に縛る歌だ」


 部屋の空気が、一瞬にして冷えた。

 和登の腕に鳥肌が立つ。

 香で殺すだけでなく、死者の魂までも、夢という形に閉じ込める。

 その呪いは、ただの殺意を超え、魂魄をも弄ぶものだった。


「唐の呪い方の一種に、“夢縛(ゆめしばり)”がある」


 焔の声は静かだが、刀より鋭い。


「魂を夢に囚え、現世に還らせぬ術。死は終わりではなく、永遠の夢の中に閉じ込める——それが完成すれば、この都には……」


 言葉を切る。だがその先を、誰も口にできなかった。

 人の死だけではなく、魂そのものが失われていく。都の秩序は、根底から崩れる。


 沈黙を破ったのは、和登だった。


「……唐で、似たものを見たことがある。ある僧が呪詛に倒れたが、七日経っても魂が還らず、体は冷たいままなのに夢を見ていたという噂があった。人々は“夢魘(むえん)の呪い”と呼んでいた」


 その話に、朔麻呂の顔色が変わった。


「夢魘……たしかに京でも、そういう噂は伝わっている。だが、子供を脅かす作り話と思っていたが……」

「作り話ではない」


 焔はきっぱりと断じた。


「第二の紅は、明確に進んでいる。殺すだけでなく、魂を縛る術に変わりつつある」


 和登は袖口を強く握った。

 香の甘さが、喉の奥にまとわりついて離れない。

 まるで自分の魂までも、その香に絡め取られつつあるように思えた。


 灯火のゆらめきが、死体の紅を照らす。

 それは血ではないのに、見る者の心を赤く染め、重くのしかかってくる。

 紙に記された“夢”の文字が、仄暗い炎の中で、じわりと滲んで揺れていた。

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