平安京陰陽推理帖ー紅き死香の歌ー

めがねあざらし

1、京の都

都に戻ってきたのは、春の終わりだった。

すでに桜は散り際で、吉野の山には緑が混じっている。


源和登みなもとのわとは、唐より帰国してまだ間もない。

父の命で陰陽頭・安倍景道あべのかげみちの屋敷を訪ね、兄弟子にあたるその弟に「仕える」よう命じられたのは、昨日のことだ。


陽の傾いた時刻、京の北にある陰陽寮の裏手——。

雑木に囲まれた離れの一室。そこに、和登は通された。


「ここで、間違いないのか」


従者に促され、質素な戸の前に立つ。

中からは何の音も聞こえない。静寂だけが張り詰めていた。


和登は杖を軽く地につき、静かに戸を開いた。


途端————ビュンッ!


風が唸った。

視界を裂いて、一本の矢が彼の頬をかすめて、柱に突き刺さる。


その瞬間、和登の右手は反射的に腰の刀へと伸びかけていた。


「……は?」


目を見開き、室内を見渡す。

そこは、書と呪符、香の壺、干された薬草が乱雑に積み上がり──さながら実験室のようだった。


その中央に、少年がひとり座っていた。

長い黒髪。白磁のような肌。

香の煙の中で、冷たい目がこちらを向いている。


「少し、ずれたな」


その青年は、ただそれだけを呟いた。

和登は、しばし言葉を失う。


身体の向きを考えると、矢は和登を狙って放たれたものではなかった。

しかし、狙っていないにしては、あまりに精密だった。


「おまえが……ほむらか」


和登が問う。すると、青年は視線だけを寄越す。


「君が、源和登か。杖をつくには、若いな」


和登は、無意識に左足に重心をかけた。

足首の鈍痛が、過去の記憶を微かに呼び起こす。


「……怪我だ。唐で少々」


そうか、と焔は興味なさそうに頷き、また香の煙の中に視線を戻した。


——京に来てすぐ、なにやってんだ俺は。

和登は、口の中でぼそっと呟いた。


「……それで、何をしていた?」


ようやく落ち着いて尋ねると、焔は矢を抜きながら言った。


「式神に弓を引かせていた。人間にできることを模倣できるか、試していた」

「……そのために、部屋で矢を飛ばすのか」

「飛ばしたくて飛ばしてるわけじゃない。必要だから飛ぶ」

「意味が分からん……なるほど、変人だな」

「常々言われる」


焔がそう呟いて肩を竦めて、また香の器に視線を落としたそのとき——


外から、駆け足の音が近づいてきた。

バタン、と戸が勢いよく開く。


乱れた息のまま、小柄な童子が部屋に飛び込んでくる。


「ほ、ほむらさま!た、たいへん……あっ」


彼は和登を見てぴたりと動きを止めた。

杖を持つ異国風の若者。見慣れぬ顔だ。


「……だれ、こいつ」

「今日から俺の観察対象だ」

「は?」

「何の用だ、多聞たもん


焔は一切表情を変えずに言った。


多聞は目を瞬かせ、慌てて懐から小さな巻紙を取り出す。


「検非違使から文が。景道さまより、焔さまに“ただちに出向け”とのこと……紅い死体だそうです」


和登が眉を動かした。


「紅い死体?」

「香の匂いが残ってたとか……それと、和歌があったって」


焔はその言葉に、ほんのわずか目を細めた。


「なるほど……興味深いな。準備する」


「俺も行くのか?」と和登が問う。


焔は立ち上がり、弓と矢筒を壁から外して背にかける。

そして静かに言った。


「当たり前だろう?それに君の目も、役に立つかもしれない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る