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友達がね、最近全然連絡くれないの、とせあらが言う。お前のことが嫌いなんだろ、と勇飛が言うと、「え、ひーどーい」、と笑ってベッドの上で伸びをした。勇飛が、お前もう帰れよ、と言っても、笑うばかりで真に受けない。天日干ししたシーツに変えたばかりだから、まだいたいそうだ。
「私の仕事まだ終わってないよ」
「こっちが頼んだものを持って来なかったんだから仕事自体始まってないだろ」
法律で言う所の債務不履行だと思うが、実際そうだとしても七瀬なら指摘しないだろう。
なぜなら、せあらと会うのを避けてるからだ。目の前にいたとしてもどうせ目も合わせない。
それが拒否なのか不可能なのか、そこまで聞いたらさすがにかわいそうだろ。
そもそも大前提として、法曹ではない立場でそんな穿った発言すること自体、コンプレックスのありかを無駄に開示する不毛な行為に過ぎない。絶対にやらないと思うが万が一あいつが同じことをやったら、得意気に話し始めた時点で殺したくなるだろう。そういうことだ。世間に弱みを見せるのは、その愚行に将来的な有益性を見出している時だけで十分だ。
「次は絶対持って来いよ」
「友達が消した投稿の元データ盗んで来いってことなんだから、偉そうに言わないで」
あんな腹の探り合いをしている関係のどこが友達だと勇飛は思うのだが、せあらにとってはそうではないらしい。
代わりにこれで、と言われたメモには、無料のオンラインストレージのURLとパスワードが走り書きでメモされていた。運営元の操作ミス一つで情報流出のリスクがあるから、極力使うなと命じていたサービスだったが、当人は全然問題ないと言う。
「だってそれ私の作文だもん」
言った後で視線を遠くに逃がした。勇飛が睨んでも気づかない振り。遠目であっけらかんと続ける。何の心境の変化か知らないけど、久しぶりに宅飲みしたら携帯のロックのパスが変わってたんだよね。でも作文は卑下しすぎか、小説だよ小説。素人の夢小説が流出した所で、困るやつなんかいないでしょう?
それに
「
勇飛にはそうは思えなかった。お前自身が優しい奴でいたいがためにそう信じたいんだろ、と言ったが、それ以上責めようとすると自分の棚に上げられない過去が過る。木はバラバラにして森に隠せってね。せあらはなおも笑う。他人事のあっけらかんとした空気を楽しもうとしている。軽薄な感情とゴムは薄ければ薄い方がいい。ああもう早く笑い話にして、片付けてしまいたい。
これもある意味、間接民主制の弊害か。身内に甘いお飾り理事の専行。普通にお前それ、買い被り過ぎだから。そもそもデータの提供代として仮想通貨で駄賃を渡しているのに、碌に溜められるどころか、財布の鍵無くしまくる時点で終わってるだろ。
契約って言ってもAIに自分の脳の先っちょをちぎってあげるのが条件なんだよね。昨今では当たり前のことを嘯きつつも気の早いことに下書き時点で送金先のアドレスまで記述している。
コスパの高い道具としての脚。最近使ってないな、と手軽な煩悩を弄びつつ勇飛は思う。頭が良くて思慮深い奴が安易に金庫破りをしようとは思わない。カモが「手提げ金庫を愛用している、お勉強しか出来ない間抜け」でも法曹なら、そもそも狙わない。
盗られることを見越しての見せ金。所詮はそんなものだ。現に勇飛が一連の顛末を聞いた時に感じたのは、少なくともあいつ――いつまで経っても関わる少女の呼称を一律「あの子」で済ませようとする七瀬――にとってこの街は発展途上国並みの異国なのかという単純な驚きと、その「腐っても故郷」の街の住人と一括りにされ、蚊帳の外に置かれたことでまたも浮き彫りになった自身への軽視に対する、いつもの通奏低音めいた怒りだった。
七瀬の弁護士としての仕事ぶりを初めて見たのは、少年審判の場だった。裁かれる少女、莉央とは全く面識がなかった。だからだろうか、これから行われるのは不自然なイベントというバイアスが、部屋に入った瞬間に、勇飛の眼前の景色を歪ませた。熱がある訳でもないのに、蜃気楼を見ているかのよう。疎ましく思った勇飛はそれを気負いの武者震いと結論付けた。
ドラマなどでよく見る、法廷のあの馴染みのセットを無理やり圧縮して小さな会議室に押し込んだような。ミニチュアで行なわれる裁定は所詮、ままごとでしかないのだろうか。
家庭裁判所の一室に設けられた審判廷。弁護士ドラマのイメージ通り荘厳であるべき法廷は、法壇からして簡易な木机と中古量販店で良く見るオフィス椅子に置き換えられていた。事前に仕入れた情報によると、正面が裁判官。向かって右から順に進行管理を司る裁判所書記官とその補佐役の裁判所事務官、検察官。向かって左に少年の更生に関する見解を述べる家庭裁判所調査官。調査官の隣に本来は付添人の弁護士がいるはずだが、今は人一人分の空間が空いているのみだった。弁護士は裁判官の向かいに置かれた三人掛けソファーの、少女の左隣に座っている。弁護士兼後見人の七瀬。七瀬の横のセーラー服を着た少女は顎のない童顔で、歳は十三歳と聞いていたが、その小さな背格好から、未だ幼児期の延長を生きているように思えた。好意的に見ても、中学の入学式に大人しく参加している新入生のようで、着席時に流し見た限りでは大人しく、少なくともあの時は自分の意志で窃盗に走りそうな感じは受けなかった。目は白昼夢を見ているように虚ろ、顔も青ざめており、勇飛が隣に座っても、時折尻の位置を居心地悪そうに調整する以外は動かなかった。実際普通ではない座り方をしていたから、窮屈だったろう。身内でもない大の大人二人が、小柄な少女を挟み込む形で、三人掛けソファーを目一杯使っていた。
表向きは裁かれる未成年の情操に配慮してか、証言台はない。同席した大人達は、場慣れして淡々とした様子の七瀬を除いては、何かを話す時に過剰に目を合わせて微笑むか、目を全く合わさずに書類に向かって話しているかの二極だった。勇飛の目にはますます異様と茶番の色が濃くなった。こんな状況で人の一生を左右する物事が決められるのか、そもそも決めて良いのか。そんな良心に起因する本音の疑問が、不意に心の下部から響き出したりもした。ただの下心よりは澄んだ感情の逆流だったが、勇飛にはそれを実体化する術はなかった。自分は付添人のNPO職員で、当件については一介の傍観者でしかない。だからそういう感情をまだ抱ける無垢な自分を密かに自賛することで、子供じみた正義感をせき止めた。気分は良くはない。が、いつもやってきたことだから今回もそれで乗り切る。
終始眉間に皺を作り、裁判官の情状酌量を複雑な思いで願いつつも、彼女の行く末を固唾を飲んで見守る善良な新入職員。場に溶け込むためにそういう演技をした。被害者と付添人が同一の裁判だったから、情の過度な介入を抑するために検察官が同席していた。だが今となっては思う。別にお前、いなくて良かっただろと。
難しいことを言うようだけど、本当の肉親だと思って同席して下さい、と七瀬は最初に言った。莉央の両親は早くに亡くなっていて、かつ生前に預けられた児童養護施設からも脱走を繰り返しており、事実上の天涯孤独だった。そして七瀬と勇飛もまた、あの頃は出会って間もなく、互いに敬語だった。七瀬は、目を全く合わせない側の人間だったが、それは甘ったるい同情が無意味だと経験で悟った上での対応のように、勇飛の目には思えた。審判中は常に掛けているという黒縁眼鏡の中の目は、机の木目の上から動かなかった。場離れしているくせに、と考えた勇飛は、内心追い詰められた人間特有の条件反射の愛想笑いを浮かべながら、こっちを不慣れな場に引きずり出してきたんだから、先輩なら、視線位動かしてそれとなく気づかう位しろよ、と苛立った。が、本当は無理言わないで、と言う具合に、ニヤリと笑って欲しかったのだ。せめてそう感づかせる視線位は欲しかった。そしたら非現実感に馴染みの腹黒いユーモアが注入されるだろう。その毒に中毒すればこの異様な情景も中和され、こんなものは、ただの下らない笑い話として、仄暗い腸の内で消化される。何ということもない。こんなのは先輩後輩の間柄で、厄介な試合やプレゼンを経験した者なら、誰もが知っている潤滑油としての知恵に過ぎない。ゆえにその位身体が覚えている気遣いとして、真っ当な社会人なら半ば無意識的に誰でもやっていること。一種の研修の位置づけなのか何なのか知らないが、仲間を一瞥すらしないのは戦力だと認められていないようで癪に障る。
変な奴だな、と内心鼻で笑った。ポッドキャストのインタビューによると新試組らしく、口ぶりから六法全書しか友達がいないタイプのように思えてはいたが。まあ俺も会計士試験の勉強を真面目にやっていた頃は電卓が友達だったから、人のことは言えんが。
聞き慣れない答弁の中から、耳馴染みのある単語を、パズルのピースのように収集して脳内で組み立てた。問題責任をうやむやにするために簡単なことを難しく言い換える霞が関文学に酷似した、仰々しい前置きをさらいながら、頭一つ抜かして座る七瀬の横顔を半ば無意識に観察していた。基軸の歪んだ積み木のような醜い横顔だった。全てのパーツが少しずつずれた状態で組み上がっている。骨格からずれているのだから、ビジネスメイクもその粗を、何ら補正してはくれない。
少子化とSNSの自撮り文化の浸透により、十人並みの容姿水準が底上げされている中で、これでは顔出し出来ないのも頷ける。歳は同じで、似たような這い上がり方をしてきたのに、同志だと思うことを、既に、脳が拒否していた。市井に溢れている十人並みの顔の、どこか一つを直せば、あるいはその長所を更に強調するようにすれば良くなる自然になるというような単純な希望はない。逆に直すことでずれが誘発されて総崩れになる懸念の方をより多く孕んでいる。原因が分からないがゆえに目を逸らすべき不快なポイントが分からず、見る側も妥協のしようがないがゆえに、生理的に不快になる。そもそもここまで対象をまじまじと見る機会も避けてきたからこれも即興の仮説に過ぎない。が、ここまで自然にたどり着けるということはあながち間違えとも言えんだろう。勇飛はそう分析した。現に今も、これ以上の観察自体、不快になって目を逸らしている。
容姿もまた能力の一種という観点では、単なる得手不得手の問題に過ぎない。だが俺が仕事のパートナーに選んだ人間の現実がこれなのも事実だ。
これで仕事も出来なかったら最悪だが、転職先間違えた、とはさすがにまだ思わなかった。顔が全ての仕事ではないのだから、その判断はまだ早計だ。
勇飛は全く罪悪感はなかった。この打算を否定するということは、人間そのものを否定するということだ。この本能を利用したビジネスは紀元前からある。老若男女誰もが無意識のうちにやっていることだし、男女問わずいる面食いの性だから俺よりも露骨な奴はいる。逆にルッキズムや水準内の多様性で誤魔化す方が卑怯だろう。俺は顔で仕事をしてきた時期がある分、その観察の粒度が人より細かくてきついのかもしれないが、公言しても憚られないだけの順位と肩書きはあの世界で担保してきた。
金の使い方を知らない奴らのお陰でここまでになれた、という意味で、勇飛の中では常に、古巣の彼らに対して、同族嫌悪と感謝という水と油のような気持ちが渦巻いていた。自己否定になるがゆえに彼らの短絡さを切り捨てることは出来なかった。初対面時に自動開催される仲間認定試験で、顔が似ているというだけで勝手に下駄を履かせて散財してくれたお陰、あるいは、無いものねだりで顔が良いと持て囃し、コスパの悪い笑顔の対価にせっせせっせと金を運んで来てくれたお陰。このような涙ぐましい努力のお陰で、大学費用と会計士二次に受かるまでの生活費を賄え、ストーリーを売るサービス業従事者の特定疾患である人間観察病に罹患しはしたものの、刃研ぎの勉強に専念できたのだから。
右隣に座る少女の化粧気のない顔は、顎以外は無難に端正であるがゆえに興味を引かれない顔だった。将来夜職をやるのであれば、両顎手術を外科矯正と誤魔化して売り物に出来る顔だからまあ良かったね、という程度の感想を引き出す効果はあるが、それを纏いながら歳を取れる才覚があるのかと言うと、己の中の客観性という点で怪しい。平均の幸せはよほどしくじらない限り得られる保証付きの素材なのに、成長過程で相応の知恵を身に付けられなかったがゆえに、こんな所に早くも堕ちてきている。こんな下らない場所で油を売っていてはいけないという危機感を理解出来ない愚かしさ。殊勝にさえしていれば大人たちから同情してもらえると思い込める見当違いの図太さ。大人はチョロいというソースに乏しい決めつけ。対象を嫌悪している癖に対外的にやっていることはその猿真似だと気づく事が出来ない知性は未成熟。充満しているガキ臭さ、もとい青臭さで窒息しそうだ。文字通り鼻に付くと思った後で、こんな奴に限って自分を子供扱いするなと嘯くのは、なぜだろう、という考えがふと過った。が、今は考えるべきではない。それは適切ではない。勇飛は意図的に少女の存在を無視した。目障りなので顔ごと踏みつけて視界から蹴り落としたいと思い、己が脳内では速やかにそうした。
常習性の高い窃盗。そういえば俺の周りにもいた。置かれた境遇に起因する精神病のようなもので、倫理面で一度目覚めた欲求を抑え込む形の治療しか出来ないから、環境を変えても治らない奴も多い。家庭裁判所調査官は、低い鉤鼻が目立つ、小太りの中年男だった。その三白眼から、就職や結婚といった、人生のイベント事に夢を見るのを止めたタイプと察せられた。理想論の台詞を朗々と諳んじ、裁判官にお仕着せの情状酌量を慇懃無礼に求める様は、温厚な印象の裁判官が、眼前のしょげかえった少女に自ずと抱くであろう宛のない夢情を掻き立てるには十分だったろう。がそれも将来を見据えた懸念事項の下に置かれた極太の爪であからさまに切り裂き、片っ端から喰い散らかさんとする獏の序言だった。
「それでは君についてこういうことにします」
嫌が応にも目につく派手な咀嚼音は、周囲の空気を簡単に汚染した。上品な老紳士然としていた裁判官は、審議が進むにつれてまずは調査官を、次は七瀬を、視界から排除した。その後、七瀬の仲間の勇飛も視界から消し、最後は少女本人を過度に悟られぬよう、一足先に見捨てた。彼がこの汚染された空間で見ることが出来ると判断したのは無味乾燥な書類だけだった。
自身の
非行に至った少女の心を大人たちが差し棒でつつく。その先に付着した表面だけを舐めて、どうしてこんな味になったのか、ここから本来の万人に愛される味に近づけるためにはどんな調理手法を用いて挽回すれば良いのかを特有の文法を用いながら論じる。
文字通り動く物のように捌かれて焼かれた肉を特殊な器具でこねくり回し、旨い不味いと品評する。一方で輪切りにした赤黒い断面を芸術品のように美しいと賞賛して嘗め回す。二枚舌の欺瞞の感性を勇飛はそこに感じた。
屠られる命の尊重の意思を建て前だけでも主張したいのなら、その屠殺の過程に素人でも感づく私怨を入れてくれるな。唾液の糸がこっちにまで付きそうで、嫌なんだよ。
人を裁く権利があるのは本来、その被害に遭った人だけだと勇飛は思っていた。復讐の連鎖を断ち切る術を人類が未だ発明していないから、性悪説と分割統治に基づいた司法という形で、部外の「人間」を介入させ、共犯関係にする。駄目押しでその関係性を曖昧にして攪乱するためにくじで選ばれた素人を大量投入してアトラクションとしての法曹ごっこを体験させる。裁判員制度はとどのつまり、赤紙的な招集と弱き大衆のガス抜き以上の意味を持たないのではないか。目的と手段が入れ替えられているせいで壮大な勘違いをしている輩が溢れかえり、裁判のショー化が加速、突き詰めれば「ぼくわたし」の快不快に過ぎない基準の厳罰がはびこる。
少なくとも俺はこう思った。低俗で幼稚だろうか。だがこう考える俺が気持ち悪いんじゃなくて、咄嗟にこうとしか思えないんだから、仕方ないだろう。司法制度の共犯性の枠内では、これもまた真情あふるる感じ方という点で尊重されるべき個の意見だった。過度に情を示したら勝手に期待され、二重人格の底の本性をぶつけられ、ここまで苦労して築き上げた根城をどう壊されるか分かったもんじゃない。だから答えは最初から決まっている。俺にはそうとしか見えない。
少年院で人の気持ちを学ぶ機会を持つと良い、というのが、裁判官が提示した寛容だった。試験観察を挟まない決定。規程上の最も厳格な寛容だ。両親不在が影響した処分なのは明白だった。家庭での指導が見込めないのだから、保護処分での改善は、他人がどんなに親身になったとしても期待出来ない。現に一度、七瀬が後見人で失敗しているのだから。
本来は児童相談所送致で済む年齢だったのに、なぜこうなってしまったのか。
裁判官は「甘やかすのだけが指導ではありませんよ」という言葉を七瀬に送った。言い方こそ柔らかいが、語尾の響きは礫を投げつけるように冷たかった。舶来の概念を定義付けるために、漢語を積み重ねて作った峻険な囲いとしての共通言語を用いる同志でありながら、終始少女を庇う態度を取り続けた七瀬を、同族の恥さらしとして晒すことで、空気に翻弄された自己の責任転嫁をしようとしたのだった。血肉の通った判決を出すという前評判を踏まえた上で好意的に見れば、未熟な親心を見抜いて白日の下に容赦なく晒すことで、人生の大先輩として他人様の子を育てる子育てを叱咤激励したように見えなくもなく、その点で、老獪だった。
勇飛が七瀬を横目で見ると、眼鏡の奥の眼が潤んでいた。身体も少し震えているようだ。
異論を唱える気も、声を荒げる気もない。ただ、気に入らねえな、と勇飛は思った。感情ではなく理性で先にそう思ったがゆえに、遅れて来た怒りは、審廷に個人の感情を持ち込んで高みから煽った、調査官、そしてその術数に良い歳でまんまと嵌った裁判官の方に向いた。
どんなに姑息な裁判官に嫌われようとも、未成年だ。仮に成人したとしても、この国の憲法が保障するお人好しで日和見の、基本的人権擁護のお題目の名の下、よほどのことをしない限りまだ死は促されない。死にたいのならトー横に行ってお前らの間で流行っている方法で本当に死んでみろ、という訳か。
やれるもんならやってみろどうせ出来ないんだろ、の煽りを真に受けて暴走し、勢い任せに水際を超えられるのも、痛々しい若さがなせる技だ。実現したら製薬会社の広報がうちはむしろ被害者だと青筋立てて怒りそうな事例。獏は少女の両手を彩る痛々しいリストカット痕を一瞥した後で、ああまたこれか、とばかりに鼻を鳴らした。万が一咎められたら鼻が悪いので、と言い逃れする気だ。
この空間に居たくない。審理は終わったのだから、もう帰らせてくれ。人間過ぎるほど人間的な裁判官、調査官、対照的に置物のように存在感のない七瀬とその他の人間。自分はどっち側に見えているのだろうか、と勇飛は考えた。殊に日本人形のような小作りの顔をした年若い検察官は場の空気に慣れ過ぎているように思えた。聞かれたことだけを答えるように設計された人形のよう。各人の話を聞く振りをして、空席になっている付添人席の奥壁だけを見つめているのだった。なぜなら彼の興味を引くものは、ここにはもうない。ゆえに一人だけまだミニチュアの日常の中で、無味乾燥なその壁を国家公務員専門職の父役に宛がったままごとが出来ている。明らかに現状に飽いているから、さながら隣の、彼よりも更に若い事務官は将来の判検交流の場で後輩になる可能性もあるという点で、自分の思い通りに動くパシリのようなものだった。
積極的な意思疎通すら拒否しているこいつはもう一生夢から醒めないかもしれないな。勇飛は寒々しい恐怖を覚えた。幼少期にはヒーローのように映ったこともある、善人の味方としての法曹のクリーンイメージと相対する、長らく根拠不明だった仄暗さの原泉を、勇飛は今、五感で思い出した。
何者にも呑まれたくない。たとえ傍観者であったとしても、自分の脚で最後まで立っていたい。もしそれが出来たら、それが出来たら俺の勝ちだ。必然的にそうするためには、簡単なことじゃないか。
勇飛はもう一度七瀬に視線を送った。興味本位ではなく、対等な関係の下での、明確な意志のある視線だった。
こんな混沌の中にあっても、何も問題ないと示してくれ。そうすれば。俺はお前をこれからずっと助けられる。助けられる、かもしれない。少なくとも役には立つ。NPOの金勘定という点で。
なぜなら、お前は法律には詳しいが、金融法や税法を熟知しているようには思えない。NPO経理では常識の一取引二仕訳の原則すら、説明しても反応が鈍かった。
勇飛はこの時に、七瀬は数学が苦手なのだと確信した。なるほどだから、俺とは違って、三科目選択で数学を避けられそうな私大を卒業していた訳だ。
当時のことを思い出すと、否が応にも饒舌にならざるを得ない。監査法人時代のアシスタントでさえ、まだましな反応を返すという意味で、あれは勇飛にとって電気ショックのような記憶だった。少なくとも脳はそう認知していた。事実頭がゆっくりと動き始めると共に、勇飛の意識も現実に戻る。眼前に分かりやすい落ち度を見出すことにより、身内にやりがちな嘲笑めいたイジリの独白とともに、散らばっていた思考が再び人型を取り、地に足を付け始める。
……いやしかしあれは何回思い出しても笑える。はは、なあ、あの程度の理解で、よくNPO立ち上げようって、思えたな。
しかも歌舞伎で。
勇飛にとって歌舞伎は自身の一部だった。愛憎渦巻く故郷であるがゆえに、歌舞伎を甘くみられることは、勇飛自身を見くびられるのと同義だった。勇飛には七瀬の決断が、カモネギに思えてならなかった。ここまで来たらもう止まらない。ホスト時代に習得したプロファイリングが無意識のうちに始まる。パズルのピースが小気味よく嵌るように、七瀬の本質に起因する特性がパタパタと類推されていく。
ホスト時代は頭の片隅で常に、その類推に基づく仮説検証を行っていたものだ。自分を理性的なインテリだと思い込んでいるカモほど、本当は情に脆かった。持たざるものに惹かれる人間の哀しい性。一度絆された後は、その判断を正当化しようとするから、御しやすい。
身長はそこそこあるが、女性らしく肌を見せるという概念がない。着ぶくれで小太りな見た目。愚鈍な動き。これで思考まで鈍重なら行く末は自滅しかない。
なあ俺の言うことを聞いてくれ。俺の考えが正しいと、態度で示してくれ。これ以上俺を、失望させないでくれ。
七瀬は顔を俯けていた。丸眼鏡に映った蛍光灯の光が乱反射していた。その表情ははっきりと伺い知れず、弓なりになった体勢から、何か深遠な思考に沈思しているように思えた。第三者的にはいじめられっ子がただ俯いているようにも見えていた。
絶対にそのまま溺れてくれるなよ、と勇飛は半ば脅した。
七瀬は勇飛の期待と、裁判官の毒気にまみれた発言を一心に受け止めていた。意識の軸がぶれた拍子に過去を思い出し、泥水繋がりで無性にコーヒーが飲みたくなった。だがそんな中でもはっきりと認識していたことはあった。すなわち、この時代遅れの遺物を我が身に染みわたらせる形で解毒して、明日からの生活をまた歩んでいかなければならないということ。
悲愴感はなかった。自分で選んだ道なのだから。言うなれば己が立場の宿命、か。目元はまだ潤んでいたが、それは哀しみによるものではなかった。
笑いの発作だった。
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