第1章 Scene 1-1_聖女の汚点
国立防衛高等学院、中央管理棟地下二階。
『特別査問室』。
そう銘打たれたその部屋は、教育機関の施設というよりは、政治犯を尋問するための独房に近かった。
窓は一つもなく、四方を分厚い防音壁と強化コンクリートに囲まれている。
空調は意図的に低く設定されており、肌を刺すような冷気が、部屋に満ちたカビと鉄錆、そして長年染み付いてきた「威圧」という名の悪臭を保存していた。
部屋の中央、スポットライトのような蛍光灯の下に、粗末なパイプ椅子が一つだけ置かれている。
そこに座らされている少年――九澄カイトは、死んだ魚のような濁った瞳で、虚空の一点を見つめ。
ただ、ミナのロストから過ごした3年間が有意義であったかどうかの査定を行っていた。
対照的に、正面の闇に鎮座する巨大な長机には、この学院、ひいてはこの国の軍事教育を牛耳る重鎮たちが、裁判官のようにずらりと並んでいる。
中央に座るのは、校長。
元・陸上幕僚監部の司令官。
白髪のオールバックに、猛禽類を思わせる鋭い眼光。
その両手は机の上で固く組まれている。
だが、指の節が白くなるほどの力が込められており、彼が今、爆発寸前の激情を必死に理性で抑え込んでいることを物語っていた。
「――九澄カイト。貴様、自分がなぜ今生きているか、理解しているのか?」
重苦しい沈黙を破った校長の声は、低く、腹の底に響くような重低音だった。
机の上には、カイトの入学試験データが無造作に投げ出されていた。
『筆記試験:白紙』。
『実技測定:Error(測定不能)』。
それは、Sランクの異世界を攻略する生徒を養成機関であるこの学院において、本来ならば門前払いどころか、敷地内の空気を吸うことすら許されない「産業廃棄物」レベルの数値だった。
「答えろ。貴様のような規格外の欠陥品が、なぜこの神聖な学び舎の地を踏めると思っている!」
堰(せき)を切ったように他の教師たちの罵倒の嵐が始まった。
両脇に控える教頭、生活指導主任、選抜クラスの担当教官たち。彼らの口から放たれるのは、教育的指導などという生易しいものではなく、純然たる憎悪の吐露だった。
「三年前……あの日、東京ゼロ・エリアで何があったか、我々は忘れていないぞ!」
「貴様だけが生き残った! あろうことか、まだ十二歳だった妹君を盾にしてな!」
「貴様が死ねばよかったんだ! 世界を救うべき才能が失われ、なぜこんな無能な兄が生き長らえている!」
怒号が狭い室内を震わせる。
彼らの怒りは、ある意味で正しかった。
軍が捏造し、世界中に流布した「公式記録(プロパガンダ)」。そこには、『勇敢なる聖女ミナは、臆病な兄を守るために自らを犠牲にした』と記されている。
彼らはそれを信じている。いや、信じ込まされている。
だからこそ、目の前の少年が許せない。聖女の伝説に泥を塗る、生き汚い寄生虫。それが彼らの認識する「九澄カイト」という存在だった。
四方八方から浴びせられる言葉のナイフ。人格を否定し、存在意義を踏みにじる暴力的な音声データ。
相手は元軍部。その怒声は力強く、脳だけではなく、心すら蝕む。
普通の十六歳の少年であれば、泣き叫ぶか、あるいは恐怖で失禁していてもおかしくはない場面だ。
だが。
パイプ椅子に座るカイトは、眉一つ動かさなかった。
反論もしない。
萎縮もしない。
ただ、瞬きすら忘れたような無機質な瞳で、激昂して顔を赤黒く染める大人たちの口元を、ぼんやりと眺めていた。
(音声入力検知……『荷物』『卑怯者』『死に損ない』『恥知らず』)
カイトの脳内視界(インターフェース)において、大人たちの言葉は「意味のある言語」として処理されていない。
それらは単なるノイズ。
カイトにとってはただの周波数
不快な波形データに過ぎなかった。
(データ照合……客観的事実との乖離率=一〇〇%。感情成分:過剰)
(評価価値&情報価値:ゼロ)
カイトの思考は、まるで高性能OSのバックグラウンド処理のように冷徹だった。
心に波紋は立たない。
怒りも、悲しみも、悔しさも、1バイトたりとも生成されない。
なぜなら、生成する前に「処理」しているからだ。
(判定:スパム)
(実行:即時完全削除)
右から左へ。
入力された罵倒は、脳に定着する前に次々とゴミ箱へ放り込まれ、虚無へと消去されていく。
なぜ、削除するのか。
それは単純に「容量(メモリ)」の問題だ。
カイトの脳は、三年前の事故により、異世界の深淵とパスが直結してしまっている。そこには、いつか妹を取り戻すために解析し続けている膨大な「コード」が極限状態で詰め込まれている。
神の領域に触れるための演算領域に、こんな「感情に支配されたサル」の戯言を保存しておくスペースなど、1バイトたりとも存在しないのだ。
カイトは、あえて間の抜けた顔を作り、激昂する教頭の顔を観察した。
こめかみの血管が蛇のように脈打ち、唾液が口角から泡となって溢れている。理性のかけらもない、本能むき出しの醜態。
まるで、理性のないただの動物のようだった。
(……ああ、だからお前らは『入れない』んだよ)
カイトは内心で、冷徹に見下した。
異世界のゲートは、19歳以上の大人を拒絶する。
「データ質量が大きすぎるから」というのが軍の定説だが、カイトの解釈では違う。
大人は、重いのだ。
プライド、保身、嫉妬、過去の栄光、出世欲、そして今のような制御不能な怒り。
そういった、生きていく上で垢のように蓄積された「精神的な贅肉(ジャンクデータ)」を溜め込みすぎているから、ゲートの帯域(バンド幅)を通過できずに自壊するのだ。
感情というバグに支配された、哀れな旧世代の動物たち。
自分たちが「入れない」場所に子供を送り込み、安全な場所から石を投げることしかできない無力な生物。
そんな連中が、偉そうに自分を査定しようとしている。
その滑稽さに、カイトは喉の奥で嗤(わら)った。
罵倒が止んで数秒。
大人たちが酸欠で肩で息をし始めたタイミングを見計らって、カイトはゆっくりと口を開いた。
そして、この緊迫した状況下で、あろうことか大きなあくびを噛み殺してみせた。
「……ふわぁ。……あー、終わりました?」
時間が凍りついたようだった。
教頭は口をパクパクと開閉させ、生活指導主任は拳を振り上げたまま硬直している。
校長に至っては、その鷲のような鋭い眼光が一瞬にして点になり、理解不能なバグを見るかのような呆気にとられた表情を浮かべていた。
無理もない。
彼らの常識(プロトコル)において、絶対的権力者である自分たちを前にして、ゴミ虫が欠伸をするなどという処理(アクション)は定義されていないのだ。
その思考停止の隙間(ラグ)を、カイトは冷徹に見逃さなかった。
彼は気怠げに首を回し、制服のポケットから最新型の携帯端末を取り出すと、わざとらしく指先で弄り始めた。
「あのさ、先生方。俺のスペックとか精神論とか、正直どうでもいいんですけど。……とっとと合否、決めてもらっていいっすか?」
へらり、と。
カイトは唇の端を吊り上げつつ。
最高に神経を逆撫でするに声色で言った。
「もし迷ってるなら、親父……『九澄将軍』に電話しましょうか? こないだ親父が言ってたんすよ。『カイト、もし学校でイジメられたらすぐパパに言えよ。軍の予算権限を使って、生意気な教師なんか全員クビにしてやるからな』って」
カイトは端末の画面をチラつかせながら、甘ったるい声で続ける。
「今ここで電話して、『パパ、学校の先生たちが僕をいじめるんだ』って泣きつけば、一発で解決ですよね? 俺、そういうの得意なんすよ」
それは、彼ら大人たちが最も嫌悪し、そして最も逆らえない「権力」というカードだ。
カイトは知っている。
感情で動く動物は、論理では動かないが、「恐怖」と「序列」には絶対的に従順であることを。
これは会話ではない。野生動物に対する調教(スクリプト)だ。
「き、貴様ぁ……ッ! 神聖な面接の場で、親の威光を振りかざす気か!」
生活指導主任が顔を真っ赤にして怒鳴り、机を叩いた。
だが、その拳は振り下ろされなかった。
校長が、それを無言の手振りで制したからだ。
見れば、校長の顔色はどす黒い土気色に変色していた。こめかみの血管がミミズのように脈打ち、奥歯がギリギリと擦れる音が、静寂な室内に響いている。
殺意。
元軍人としてのプライドが、目の前の腐りきったクズを今すぐ処刑台に送れと叫んでいる。
だが、官僚としての生存本能が、九澄将軍の息子に手を出せばキャリアが終わると警告している。
(……浅ましいな)
カイトはその葛藤と怒りを、冷めた目で眺めていた。
理性と感情の板挟みで、校長というシステムが処理落ち(フリーズ)しかけている。
怒り狂いたいのだ。
叫びたいのだ。
だが、保身が邪魔をする。自分の正義を貫きたいのに、損得勘定が足を止める。
それが大人の正体。
彼らは「世界のため」「生徒のため」と大義名分を掲げるが、その実、自分の地位と金を守ることしか脳にない。
そんなノイズだらけの思考回路をしているから、彼らは何一つ決断できないのだ。
「あの、どうしますか? 電話、します?」
カイトが言った。
沈黙が流れる。
数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
やがて。
バンッ!!
乾いた破裂音が、コンクリートの壁に反響した。
何かを殴ったような音。
だが、違う。
校長が、書類に合格印を叩きつけた音だった。印鑑の縁が欠けそうなほどの、激情を込めた一撃で。
「……合格、だ」
絞り出すような、呪詛に満ちた声だった。
校長は書類をカイトに向かって放り捨てた。、
「九澄将軍の顔に免じて許可する」
殺意の籠もった目でカイトを睨みつけた。
「……だが覚えておけ、九澄カイト。貴様は生徒ではない。我々の『汚点』だ。
校内では息を殺して生きろ。ゴミらしく、地べたを這いずり回っていろ。……二度と私の視界に入るな」
それは教育者の言葉ではなかった。
自分の無力さを棚に上げ、弱者をスケープゴートにすることで精神の均衡を保とうとする、敗北者の遠吠えだ。
カイトは椅子から立ち上がり、わざとらしく制服の埃を払った。
心の中では、すでにこの場の情報を「終了済みプロセス」へと移行させている。
「了解っす。あざーす、校長先生」
カイトは軽薄に敬礼を行い、踵を返した。
背中に突き刺さる殺意など、そよ風ほどにも感じない。
重たい防音扉を押し開け、廊下へと出る。
バタン、と重厚な閉鎖音が響き、電子ロックが施錠された。
外部との接続が遮断された、その瞬間。
カイトの顔から、「ヘラヘラした笑い」が消失した。
まるで電源を切ったディスプレイのように、一切の感情が抜け落ちる。
能面のような無表情。そこには、難局を乗り切った安堵も、合格した喜びも、あるいは侮蔑した相手への優越感さえもない。
ただ、機械的な処理の終了だけがあった。
(タスク完了)
(対象フォルダ:『入学面談』)
(ファイル選択:校長の歪んだ顔、教頭の金切り声、罵倒のログ、今のやり取り全て)
カイトは脳内のコンソールを操作し、たった今経験したばかりの時間を『ゴミ箱』へ放り込んだ。
(――全消去)
綺麗さっぱり、何も残らない。
彼らに割くメモリなど、1バイトたりとも持ち合わせていない。
大人たちの感情ごときを保存する隙間など、どこにもない。
過去を引きずり、感情に振り回され、重たいデータを抱え込んで身動きが取れなくなる大人たちとは違う。
カイトは脳内のストレージを完全な空白(クリア)に戻すと、深く息を吸い込んだ。
肺に入ってきたのは、カビ臭い査問室の空気とは違う、Sランク養成機関特有の、洗練された人工的な空気だった。
新しい地獄――学園生活が始まる。
「……さて」
カイトは何事もなかったかのように、廊下を足音もなく歩き出した。
その背中は、周囲から見れば「弱々しい落ちこぼれ」に見えたかもしれない。
だがその内側には、世界そのものを欺くための冷徹な刃が、静かに研ぎ澄まされていた。
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