第5夜『灯の底に座る影』
雨が降っていた。
水滴の落ちるたび、古い畳が吸い込むような音を立てる。
店の奥、屏風の裏に“なにかが座っている”のに、灯りだけがそれを認めていた。
夜更けの琥珀色が、静かに形を縁取る。
私は湯呑みに残ったお茶をひっくり返して、気づいた。
屏風の下の隙間――そこだけ、雨音がしなかった。
音のない場所。
気配だけが濃く沈む場所。
ゆっくり背筋が冷えていく。
この店で長く働いていても、音が引くほどの怪異は数えるほどしかない。
屏風の向こう。
雨に濡れたような匂いがした。
なのに、畳は乾いている。
なぜだろう。
そこに「座っているもの」は、さっきより少しだけ私のほうを向いた気がした。
視線は合わない。
ただ、呼吸の形だけが、こちらに寄ってくる。
「……だれ?」
声が触れた瞬間、灯がふっと沈んだ。
まるで、胸元のあたりを吸われたみたいに軽くなる。
屏風の裏の影は、座ったまま、静かに揺れた。
揺れた、というより、中身のない着物が風を孕んだときの動きに近い。
湿った匂いがまたひとつ濃くなる。
雨の匂いじゃない。
土に埋められた髪飾りの匂いに似ている。
私はそっと、灯の芯を整えた。
瞬きする炎の向こう――影はもう、動いていなかった。
ただの気のせいだったのかもしれない。
そう思いかけたとき、畳の端に、濡れた指跡がひとつ、置かれていた。
屏風の裏から、こちら側へ。
誰かが、そっと触れたみたいに。
その指跡だけが、今もじんわりと蒸気を立てている気がした。
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