第3夜『香の間に立つ人』

 雨のあがったばかりの花街・紅灯こうとうは、湿り気を帯びてゆっくり呼吸をしていた。


 石畳には提灯の赤がまだらに揺れ、夜風は白粉おしろいの残り香を薄く運んでくる。茶屋を閉め、灯里あかりが路地を抜けようとしたときだった。


 ――ふわり、と。


 角を曲がる前、甘い椿油の香りが鼻先を掠めた。

 人が通り過ぎたあとの匂い。しかし前の路地には誰もいない。


 香りだけが、先に歩いている。


 灯里が一歩踏み出すと、遅れて姿が現れた。


 数秒の遅れで、紺の羽織をまとった三十代ほどの男が路地の奥から歩いてくる。端正な横顔。

 羽織は雨粒ひとつ拾っていなかった。


 さきほどの椿油の香りは、確かに彼から漂っていた。

 にもかかわらず ―― 匂いが先で、姿が後。


 「こんばんは」


 灯里が声をかけると、男は一拍遅れて微笑んだ。


 「……こんばんは」


 返事も遅い。口の動きと声に、わずかな時差がある。距離の問題ではない。

 世界線の縁が、少しだけ擦れているような遅さだった。


 灯里はふと気づく。

 男の手に、古びた香袋が握られていた。刺繍は薄れ、何度も撫でられた跡がある。


「素敵な香りですね。椿油……ですか?」


 灯里が言うと、男の表情がほんの刹那だけ陰った。

 答えようと口が動く。しかし声は出ない。


 代わりに――香りがふっと強まった。


 椿油と白粉が混じる甘い香り。

 灯里は息をのみ、男の唇を読んだ。


「……帰り道なんです」


 確かに、そう言っていた。

 だが帰る先とはどこか。


 問い返そうとした瞬間、男の輪郭が一瞬だけ“透けた”。

 提灯の光に照らされ、水の膜を隔てたように揺らいだ。


 ――この人、もう生者じゃない。


 生きた人間は、姿が先で、香りが後に残る。

 この男は逆だ。

 “気配”だけが先に届き、身体が追いついてくる。


「あなたは……誰を探しているんですか?」


 灯里が問うと、男は香袋を見下ろした。


 白い粉がひとすじ、袋の口からこぼれ落ちる。

 風もないのに宙へふわりと舞った。

 白粉だった。芸者が使う古い型のもの。


 灯里はそっと香袋を受け取る。

 袋の内側には、筆跡の古い文字が残っていた。


 「椿の香で、迎えに行きます」


 灯里の胸がきゅっと締めつけられる。


 この花街には、椿油を愛した芸者がいた。

 その芸者を迎えに行く途中で事故に遭い、

 帰ってこなかった男の話が、昔から噂として残っている。


 ――迎えに行けなかった人は、

   今もなお、香りだけを先に歩かせているのかもしれない。


 灯里が顔を上げると、男は静かに微笑んでいた。

 “ここにいた理由をようやく思い出した人” のように。


「あなたの想いは……きっと届いていましたよ」


 灯里がそう告げると、男の輪郭が淡くほどけていく。

 椿油の香りがふっと強まり、路地の角をゆっくりと曲がっていった。


 姿はどこにもない。

 香りだけが、未練の形を残して最後の角をすっと消えてゆく。


 灯里は香袋を胸元でそっと握りしめた。

 指先に残る白粉は、誰かを想った温度のように淡く溶けていった。


 香りだけが、彼の代わりに帰り道を歩いていった。

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