タイタンの呼吸者

よし ひろし

1.窒息

 土星の衛星タイタン。オレンジ色の靄に包まれたこの星は、二十四世紀の人類にとって、最後のフロンティアだった。


「深度二八〇メートル。氷層突破まであと二〇メートル」


 エンジニアのラジェシュ・パテルの声が、ヘルメット内蔵スピーカーから響く。調査隊の六人は、クリオボルケーノ──氷火山の斜面に穿たれた縦坑を、ゆっくりと降下していた。

 隊長のミハイル・ソコロフは、腰のハーネスにかかる自重を感じながら、眼下の闇を見つめた。ヘッドライトの光は、青白い氷の壁を照らし出す。この氷は水だけではない。メタン、エタン、窒素──地球とは異なる化学組成が、マイナス百八十度の世界で凍りついている。


 調査隊「ヘパイストス1」が到達した地下空洞は、彼らの予測を遥かに超える規模で広がっていた。クリオボルケーノの地熱によって溶けた氷が形成したその空間は、さながら巨大な教会の身廊を思わせた。ヘッドライトの光が乱反射し、メタンハイドレートの結晶が星屑のように煌めく。


「隊長、見てください。この空間……まるで生き物の体内だ」


 地質学者のアレックス・ノヴァクが、畏怖の混じった声で通信を入れてくる。彼の興奮はヘルメット越しの吐息の荒さからも伝わってきた。

 隊長のミハイル・ソコロフは、静かに計器を監視しながら答えた。


「感傷に浸るのは後にしろ、アレックス。まずは任務だ。ユリ、大気の組成は?」

「分析中……メタンと窒素が主成分なのは地表と同じですが、微量のアルゴンと…奇妙な有機化合物のスペクトルが検出されています。既知のデータにはありません」


 生物学者のユリ・チェンが、冷静だが僅かに高揚した声で報告する。彼女の目は、ポータブル分析装置のモニターに釘付けだった。


 ここは人類にとって未踏の領域。資源採掘の前線基地ではあるが、これほど深く広大な地下空間が発見されたのは初めてのことだった。未発見の鉱物資源、あるいは生命の痕跡。クルー全員の期待が、極低温の空気に熱を帯びさせていた。


 その時だった――


「う…うぐぁ……」


 かすれた声がスピーカーを通じて皆の耳に届く。アレックスのものだ。ミハイルが振り返ると、地質サンプルの採取準備をしていた彼が、よろめくように膝をついているのが見えた。


「アレックス、どうした?」

「息が…苦し…ぃ……」


 ミハイルはすぐさま駆け寄り、彼のスーツの生命維持モニターを確認した。バイタルは危険な数値を叩き出していたが、奇妙なことに酸素残量計は七〇%を指している。呼吸に問題はないはずだが――故障か?


「パテル、彼のバイパスバルブを開け! ワトソン、診てくれ!」


 ミハイルの怒声が狭帯域通信を震わせた。エンジニアのラジェシュ・パテルが慌ててアレックスの酸素供給装置を予備システムに切り替える。と同時に、医師のエミリー・ワトソンが、彼の様子を手早く診察した。


「危険な状態だわ。すぐに基地に戻らないと!」


 アレックスの意識は朦朧としていた。彼のヘルメットの内側で、必死に酸素を求める喘ぎが響く。だが、ボンベから供給されるはずの生命のガスは、そこにはもう無かった。いつの間にか残量計は「七%」という冷徹な数字を映し出し、嘲笑うように点滅していた。



 緊急帰還したアレックスは、エミリーの懸命な処置によって一命を取り留めた。一安心したミハイルだが、ラジェシュの報告に戸惑いの表情を浮かべる。


「アレックスの酸素ボンベは空でした、ミハイル。一滴残らず」

「どういうことだ?」

「システムログによると、急速に酸素が消費されています。計器の異常は見当たりません。装備の不備で、どこかから漏れたのかも……」


 ラジェシュは、信じられないという顔で首を振った。


「それは、問題だな。装備の故障だとなると、致命的だ」


 ミハイルはクルー全員の酸素システムの即時点検を命じた。しかし、数時間に及ぶ徹底的な診断の結果は「異常なし」。基地には重苦しい沈黙が垂れ込めた。見えない機械の悪意が、この閉鎖空間に潜んでいるかのような不気味さがあった。


 不安の芽生えは、些細な疑念から始まる。ヘルメットを脱いだ後の息苦しさ、気のせいかと思うほどの機器の異音。誰もが口には出さないが、互いの表情に同じ影を見ていた。



 事件から三日後。悲劇は繰り返された。



 地球との定時通信を終えたばかりのケンジ・タナカが、コントロールルームで突然椅子から崩れ落ちた。症状はアレックスと全く同じだった。酸欠――


「どういう事なんだ。二人続けてだなんて……」


 再び、基地は混乱に陥った。ケンジも幸いにして一命を取り留めたが、クルーたちの間に広がった動揺は計り知れない。ラジェシュが青ざめた顔でミハイルに報告した。


「隊長……。過去七十二時間の全クルーの酸素消費データを再計算しました。――通常の消費量の三倍です。全員、気づかないうちに異常な速度で酸素を消費しています。まるで、誰かに盗まれているみたいに……」


 その言葉は、クルーたちの恐怖に具体的な形を与えた。機械の故障ではない。何かが、我々の生命線を蝕んでいる。



 その夜、基地は重い緊張感に包まれていた。ほとんどのクルーが、浅い眠りと悪夢の間を彷徨っているようだ。

 そして深夜――


 ビィビィビィー!


 コントロールルームの静寂を、甲高い警報が切り裂いた。


「なんだ!?」


 ミハイルはベッドから跳ね起きる。すぐに詳細を確認すると、警報の発生源はあの地下空洞。クルーは全員基地内にいる。現在は無人のはずの探査エリアだ。

 ミハイルは、モニタに表示されたデータに息を飲んだ。


【警告:探査エリアA-3 酸素濃度 急激に低下】


 空洞内の大気は元々ほとんど酸素を含んでいないが、そのわずかな酸素が、調査隊の設置した環境センサーの周辺で何者かに「消費」されたことを示していた。まるで、誰かがそこにいて呼吸をしているかのように……


「監視カメラの映像を!」


 ミハイルが叫ぶ。

 モニターに、薄暗い空洞のリアルタイム映像が映し出される。ライトの明かりはなく、センサーの微かな赤外光が氷の壁をぼんやりと照らしているだけだ。


「何も、いない……」


 ただ、静寂が広がっている。だが、モニターの片隅で明滅する酸素濃度のグラフだけが、ありえない速度でゼロへと向かって急降下していた。見えない何かが、暗闇の中で深々と、そして貪欲に、息をしているのか?


「どういう事なんだ……」


 ミハイルは眉間にしわを寄せ、深く呟いた。


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