第三十八話 “二つの未来”を視る
午後四時。
講義棟裏の小さなベンチ。
昨日と同じ風が吹いているはずなのに、体感温度が一段と低く感じた。
「……ここでいいのか?」
「はい。人も少ないですし、あなたの集中を妨げない場所です」
雨宮は周囲を一度だけ確認してから、ノートを広げた。
その表情は落ち着いている。
だが目の奥には、今日の未来視の重要性を理解している光が見えた。
「じゃあ……視るよ」
「はい。何が見えても、すぐに整理します」
その一言が、背中を押した。
■そして“次の未来”が来る
深く息を吸い、千円札を指先で弾く。
――黒い路地。
――倒れた男性。
――散らばった何か。
――濡れたアスファルト。
――スマホの画面に光る、“決定的な映像”。
――誰かの叫び声。
――それを撮影するもうひとつの影。
――そして、緊急搬送される誰かの姿。
(……これは……)
視界が白く弾け、現実へ引き戻される。
胸が苦しい。
汗が一気に噴き出し、体温が下がるような感覚。
「……戻ってきましたね。大丈夫ですか?」
「……ああ、なんとか」
雨宮は俺の表情を一度だけ確認し、ノートのページをめくる。
「話してください。順番はどうでもいいです。断片でも必ず意味があります」
その言葉に促され、見えた光景をひとつずつ伝えていく。
黒い路地。
倒れた男性。
散らばった何か。
濡れたアスファルト。
スマホに映る映像。
撮影する影。
救急車のサイレン。
雨宮は静かな手つきで、矢印と欄を使って情報を整理していく。
すべてを言い終えた頃――
雨宮の手が止まった。
「……これ、二つの可能性があります」
「二つ?」
「はい。あなたの予知が“複数のルート”を見ているように思えます」
■雨宮の分析:“救う未来”と“晒す未来”
雨宮はノートの中央に二本の大きな矢印を描く。
「まず一つ目。
倒れていた男性は“被害者”。
近くに散らばったものは、おそらく財布か荷物。
つまり……事件性が高い」
淡々とした声。だが言葉は鋭い。
「あなたが動けば、彼は助かる可能性があります。
これは“救う未来”です」
「……じゃあもうひとつは?」
雨宮はページをめくり、
落ち着いた表情のまま、言いにくそうに口を開いた。
「もう一つは、“晒す未来”です」
「晒す?」
「はい。
あなたが助けに入らなければ……事件が起きた直後、
“撮影していた影”がネットに投稿する可能性が高いです」
雨宮はスマホで軽く検索を示す。
「最近、“暴力事件を実況”するアカウントが問題になっています。
モラルも、恐怖も欠けた人間が、盛るために事件をネットに流すんです」
「つまり……」
「あなたが動かなければ、
“倒れた男性の映像がネットに晒される未来”が濃厚です」
血の気が引いた。
同時に、未来視の映像の“スマホの光”が強く脳裏に蘇る。
(あれは……犯人じゃなく、“撮影者”のものだったのか)
「……助ける未来と……晒される未来。
その二つが、今回の予知の核心です」
雨宮は静かにそう締めくくった。
■主人公の胸を刺す“責任”
(まただ……)
雨宮の母のときとは違う種類の苦しさが襲ってくる。
もし俺が動かなくても、
もし俺が気づかなくても、
その男性は倒れる。
だが、
――俺が動くかどうかで、人の尊厳すら変わってしまう。
(重すぎる……)
肩が震えるのを自覚する。
「……俺にそんな、選ぶ資格……あるのか?」
雨宮は少しだけ首を振る。
「違います。
あなたが“選ぶ”んじゃないんです」
いつもと変わらない穏やかな声。
けれど、芯があった。
「未来があなたに、“気づく役目”を渡しただけです。
その後の判断は、二人でします」
「……二人で」
「はい。
あなたが未来を視て、
私が現実を分析して、
二人で判断するんです」
そう言う雨宮の瞳は、不思議と落ち着いていた。
まるで、迷いを吸い取ってくれるような透明さだった。
■そして、選択へ
「……じゃあ、どうする?」
震える声で尋ねると、雨宮はノートを閉じて立ち上がる。
「まず、場所を特定します。
あなたの描写から考えると、あの路地は大学から徒歩圏内。
時間帯は……夕方から夜」
淡々と推理を並べていく。
「もし“救う未来”を選ぶなら、事前に警察へ通報できるよう準備します。
もし“晒す未来”が来るなら、犯人ではなく“撮影者”を抑える必要があります」
「……そんなことまで考えてくれてたのか」
「当然です。
あなたが視た未来が、誰かを傷つけるかもしれないなら……私はそれを止めたい」
その言葉は、静かで、そして強かった。
「さあ、準備を始めましょう。
あなたが“次の未来視”を視た以上、時間はもう多くありません」
雨宮が手を差し出してくる。
「二人で選びましょう。
どちらの未来が、“より良い未来”なのか」
その手を取った瞬間、
胸の奥の重さがわずかに和らいだ。
(……行ける。まだ行ける)
そう思えたのは、隣に雨宮がいるからだった。
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