第三十六話 午後三時の通用路

 午後二時四十五分。

 西側通用路は、冬の光が建物の角から斜めに差し込んでいた。


 影が細長く伸びていく。

 その景色だけで、胸の奥に重たい緊張が広がる。


(来る……絶対に来る)


 未来視で見た“事故の予兆”が、現実の風景と重なって見えていた。


「……ここ、で間違いないんですね」


 雨宮は俺の横で静かに周囲を観察していた。

 怖がっている様子はない。

 ただ淡々と、必要な情報を拾い集めている。


「三時前後、講義が終わるタイミングで人の流れが変わります。

 走る学生が出るとすれば、このルートが最も確率が高いです」


 冷静な声。

 その落ち着きに、俺は少しだけ呼吸が整う。


■そして予知された時間が来る


 三時まで残り二分。


 講義棟の扉が開く。

 数人の学生が出てきて――次の瞬間。


「来た……!」


 一人の女子学生が、遅刻を取り戻すように全力で駆け出してきた。


 まさに未来視どおりの“影”の動き。


 同時に、通用路へ車が入ってきた。

 運転手はこちら側を見ていない。


(まずい――!)


 反射的に走り出す。


「止まれっ!!」


 女子学生がはっとして足を止めた瞬間、車が彼女の目の前を風のように通り過ぎた。


 その差、僅か数十センチ。


「た、助かった……」


 女子学生は膝から崩れ落ち、震えながら息を整えていた。

 雨宮が側に跪き、落ち着いた声で話しかける。


「大丈夫です。深呼吸してください。

 ケガはありませんね?」


 女子学生が頷くのを見て、俺はようやく胸の締めつけが緩む。


(……未来が、変わった)


 確かに“あの未来”は存在した。

 そして今、俺たちの手で塗り替えられた。


■未来を変えた後の静かな会話


 女子学生を保健室に送り届けた後。

 ようやく雨宮とふたりきりになる。


「……本当に、変わるんですね。未来」


 雨宮は軽く微笑んだ。

 驚きと安堵が混じった柔らかな表情。


「あなたが見た未来は、“過去になる”んですね」


「……ああ。そんな感じだ」


 自分の声が少し震えていることに気づく。

 緊張が抜けた反動だろう。


 雨宮はそんな俺をじっと見て、そっと言った。


「でも……やっぱり、あなた一人で背負うのは無理があります」


 強い言葉ではない。

 ただ、優しい現実だった。


「今日、こうして間に合ったのは……あなたの未来視と、私の整理があったからです。

 どちらも欠けていたら、救えていなかったかもしれません」


 胸が痛むほど、納得できる。


(確かに、ひとりだったら絶対に間に合わなかった)


 そう思うと、息が浅くなった。


 


■雨宮の“静かな提案”


 雨宮はふと、少しだけ表情を引き締めた。


「……それに、最近ネットの反応が過熱してますよね?」


「ああ。見てるんだな」


「はい。記者の動きも早いですし……正直、今のままだとあなたが危険です」


 その声音は優しいが、現実を的確に突いている。


「あなたは、責任感が強すぎます。

 全部一人でやろうとして……そのうち限界が来ます。今日も、少し無茶でした」


「……そう見えるか」


「はい。すごく」


 雨宮は迷うように一度言葉を切り――

 小さく息を吸って、静かに続けた。


「だから……もしよければですが」


 ほんの少しだけ、恥ずかしそうに視線を逸らす。


「……私、あなたの“マネージャー”になりましょうか?」


「――え?」


「未来視のことも、ネットの動きも、記者の対処も……

 あなた一人で抱えるには大きすぎます。

 でも、二人なら分け合えると思うんです」


 いつもの落ち着いた声で、まっすぐに。


「あなたが未来を視て、私がそれを整理して、外の動きも管理する。

 ……そうすれば、あなたは“助けること”だけに集中できます」


 その言葉が胸に深く刺さった。


 雨宮が無茶を言っているわけじゃない。

 ただ、冷静に状況を見て、合理的に導いた結論――

 なのに、とても温かかった。


「どう、でしょうか?」


 雨宮が静かに尋ねる。


 俺は迷うように息を吸い、

 そして、自然と答えていた。


「……頼む。

 そうしてくれたら……俺はすごく助かる」


 雨宮はふっと柔らかく微笑む。


「はい。じゃあ今日から、“二人で”ですね」


 その言葉に、これまで感じていた孤独がほろりと溶けていくのを感じた。

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