Act6.「正義の勇者」

 激しく揺れる洞窟内。ギルバートとレイラの声が落石の音にかき消されていく。

 ルークはノアに覆い被さり、地震が収まるのを待った。目を瞑り、石が体を打つ痛みにひたすら耐える。


 目蓋の向こうにちらつくのは、洞窟の発する緑色の光。それは忌むべき邪神の力を感じさせるが、何故かどこか心地よく……ノアに似ている、とルークは思った。


 一見するとただ黒いだけの彼女の瞳。太陽に照らされた時、その奥に仄かに緑色が輝くことを、一体何人が気付いているだろうか。誰も気付いていなければいい。世界中から隠しておきたい。自分だけの物にしておきたい――ルークは胸元の温もりを抱きしめる。



 出会った時、ルークにとってノアはその他大勢の内の一人に過ぎなかった。妙に肝が据わり、やけに丈夫で、少し変わっているだけの青年。旅の共に治癒士を欲していたルークは、仲間になりたいというノアを受け入れた。

 ノアは謙遜するが、治癒士としても薬師としてもその腕は確かなものである。ノアにそれらを教え授けたという兄はさぞ優秀な師だったのだろう。


 ……役に立つから傍に置いていただけ。それだけだった彼女が、いつからこんなにも特別な存在になってしまったのか、ルーク自身にもはっきりとは分からない。きっと明確なきっかけなどなく、ただジワジワと、彼女という存在が自分の中に浸食していったのだ。


(ノア……)

 緑の光が、よく晴れた日の木漏れ日のように、優しく揺れる。それはルークを穏やかな追想に誘った。



 ――まだマラカ洞窟から遠く離れた、大きな街での昼下がり。ルーク達三人は各々別行動をとっていた。


 武器屋で武具の調整を終え、旅に付きまとってくるレイラをどうにか撒いたルーク。集合時間にはまだ早く、暇潰しが苦手な彼が手持無沙汰でいると、ノアに遭遇した。


 暑さにやられたのか具合悪そうにしているノアを休ませるため、ルークは目に付いた店へと連れて行った。そこは小さな喫茶店で、客はルーク達以外誰もおらず、店主の老婦人はカウンターの奥で猫を撫でていた。

 

 窓が大きく日当たりのよい店だが、外に植えられた木が日除けになっており、少しだけ涼しい。柔らかな木漏れ日がテーブルに光の珠を描いていた。


『さあどうぞお席へ。涼をとるのに、ぴったりのものがありますよ』


 二人は店主に勧められるまま、氷菓を注文する。ガラスの器に削った氷を山盛りにして、その上からやけに色鮮やかで甘い汁をかけたものだ。

 見知らぬ食べ物にルークは懐疑的だったが、ノアは村で夏によく食べていたと言い、美味しそうに口にした。ルークも、それに倣う。


 シャリ、シャリ。氷の粒が口の中で解けていく。

 それは暑い日にピッタリの美味な菓子だったが、夢中になって食べ進めると……頭にキーンと響いた。眉間に皺を寄せこめかみを押さえるルークを見て、同じポーズのノアはふっと吹き出した。


『ふふ、ルークさんでも、そんな風になるんですね』

 声を立てて笑うノアを見たのは、恐らくその時が初めてだった。驚き見つめるルークに、ノアは居心地が悪そうにはにかむ。


『何だか、こうしてると平和ですね。全部夢で……邪神なんていなかったみたい』

 それは、単なる現実逃避とは違った。ノアは弱音を吐く性質ではない。

 どちらかというと平和な世界を垣間見て、戸惑っているように見えた。


 復讐を果たした後、ノアはどう生きるのだろう?

 ルークの中に、彼らしくない疑問が生まれる。そこまで踏み込むべきではない……と飲み込もうとするが、逆にノアに問いかけられた。


『あの、ルークさん。邪神を倒したら、ルークさんは何がしたいですか?』

『……国に帰り、己がすべき事をするだけだ』

『すべきこと?』

『女神の教えに準じ、帝国の為に剣を振るう。平和を脅かすものは邪神だけではないからな』

『はあ、ルークさんらしいですね。すべきことの他に、したいことはないんですか?』

『どういう意味だ?』

『例えばギルは、この戦いが終わったら……英雄の名誉を振り翳して美女を侍らせ酒池肉林! とか言ってましたよ』

 ノアの口から出て来た言葉に、ルークは意表を突かれる。そしてまた、こめかみを抑えた。先程よりも険しい顔で。


『全く……あいつは子供に何を教えているんだ』

『酒池肉林って言葉自体に“そういう意味”は無いらしいですけどね。あと、僕は子供じゃないですってば。ルークさんと三つしか変わらないんですよ』

 子供じゃないと主張しながら指を三本立てるノアは、まだあどけない少年に見えた。しかしノアの持つ独特な穏やかさと静けさは、達観した大人に見せることもある。


『……ノア。お前は何がしたいんだ? この戦いを終えた後は』

『えっと……何しよう』

『人に訊いておきながら、答えられないのか』

『うーん……思い付いたら、ルークさんに一番に教えますね』


 ノアは小さく笑み、窓の外に目をやった。その瞳は早速、自身の答えを探しているのかもしれない。

 木漏れ日に透ける黒髪。昼下がりに溶ける横顔。ルークがじっと見ていると、ノアはポカンと気の抜けた顔で『なんですか?』と首を傾げた。


 ルークは眩しそうに目を細め……吹き出す。ちらりと見えたノアの舌が氷菓の色に染まっていたからだ。平和を凝縮したみたいなノアに思わず気が緩む。


『お前っ……舌の色が凄いことになってるぞ』

『へっ? なん……』

 ノアは驚きで目を丸くした後――食い入るようにルークを見つめた。ルークは、ノアの前で笑ったのは初めてかもしれないな、と思った。そもそも最後に笑ったのはいつだったか。


『あ! ルークさんだって、舌が真っ青!』


 心を解す、陽だまりみたいなノア。いつからかノアが戦場で傷つく度、ルークは激しい痛みを覚えるようになった。


 “正義は強き者の義務である”

 ルークは物心付いた頃より、厳格な父からそう教えられ育ってきた。強き者は弱き者を守らねばならない、と。


 ルークは自身を、剣そのものだと思っている。正義に反するものを排し民を守る道具。……その道具を、身を挺して守るノア。傷だらけになりながら仲間の身を案じ、無事だと分かると安堵に顔を緩ませる、弱く強い者。


 半年前に怪我をしたノアを手当てした時、ノアの隠された性別に気付いたルークは――心臓が止まりかけた。

 自分より遥かに小さな体の非力な少女。それなのに、躊躇なく自分の為に命を投げ出すノア。彼女の儚さ、いじらしさに、蓋をしていた感情が溢れ出す。恐らくはずっと前から芽生えていたそれが、一種の正当性を得て表に引きずり出されてしまった。


 ルークは人々ではなく、“ノア”を守りたいと思ってしまった。


 大衆に紛れていた彼女が、たった一人の特別になる。丸い輪郭。たまに笑うと出来るえくぼ。考え事をする時に鼻の頭を撫でる癖。懸命に低い声で話すが、驚いた時に出てくる少女らしい声。一人の時には遠くを見つめている瞳。その瞳に自分が映ると苦しかった。幸福だった。彼女が、愛おしかった。


 どうすればノアは、無茶をしなくなる? 

 どうすればノアに、頼ってもらえる? 

 どうすればノアを、守れる? 


 ルークは初めて自分自身の感情で、強さを求めるようになった。

 

 いよいよマラカ洞窟手前の町に着くというある晩、ルークは夢を見る。それはまだ見ぬ洞窟でノアが命を落とす夢。それは女神が見せる予知夢か、単なる妄想か。どちらにしろその悪夢にルークは囚われた。


 だから彼女を手放したのだ。団から追い出したのだ。自分の傍にいては、自分を守るために彼女が死んでしまうと思ったから。




 ――優しく美しい夢が終わり、悲しい現実が目を覚ます。いつの間にか洞窟の揺れはおさまっていた。ルークが目を開けると、そこには冷たく自分を見下ろす少女がいる。


「ノア……」

「貴様は随分とこの娘に執着があるようだな。空の器に懸想するとは、何とも気味の悪い男だ」

 意味の分からない嘲り。ノアのものではないソレにルークは失意に沈む。先程、ギルバートと対峙した彼女が一瞬だけ自我を取り戻したように見えたが、あれは気のせいだったのだろうか。

 ルークは痛む体を起こし、勇者の矜持を捨て邪神に懇願する。


「頼む。彼女を……ノアを返してくれ」

「返すだと? 笑わせるな。この娘はお前のものでも、この娘のものでもない。これは元々我のものだったのだ。持ち主の元に返って来た、それだけのこと」

「何を訳の分からない事を……ぐっ、」

 少女の手がルークの兜の下に潜り込み、その首を締め上げる。


「驕るな、人間。お前達に知る権利などない」

「……ノア」

「まだその名で呼ぶか。そんなにこの娘の傍にいたいなら、我の駒の一つに迎えてやっても良い……と思ったが、お前からはあの忌々しい女神の気を感じるな。女神の息のかかった人間は要らぬ」


 少女はルークを乱暴に突き飛ばす。

 地面に手を付いたルークの顔の横に、スッと冷たい剣が添えられた。


「ここで死んでもらおう、勇者とやら」


 向けられる明確な殺意に、ルークの頭の中で“戦え! 戦え!”と誰かが叫ぶ。それは父か、皇帝か、民か、女神か。腰の剣が疼くものの、ルークがそれを手に取ることは無かった。


『ルークさんは何がしたいですか?』


 あの日のノアの問い。その答えはまだ見つかっていない。だが少なくとも、今剣を取った先には存在しないと思った。ルークはもう一度夢を見ようと目を閉じる。



 ……死の瞬間が緩慢に感じられるとは、よく聞く話だ。しかしそれにしても、あまりに長い。

 いつまでも訪れない衝撃。不思議に思ったルークが目を開けると、少女の頬を一筋の涙が濡らしていた。それもまた、初めて見る彼女の表情。だがルークには一目でノア本人だと分かった。


 ノアはルークから剣を引くと、それを祈るように胸の前で掲げる。祭事を思わせる神聖な光景に、ルークはただ目を奪われ動けない。ノアは長い刀身を素手で掴み、刃先を自らの胸に向けた。ルークはようやく彼女の行動の意味に気付く。


「ノア! やめろ! 剣を捨てるんだ!」

「ルークさん、ごめんなさい。僕、とんでもないことを……」

「落ち着け、お前は操られていただけだ。何も悪くない!」

「違うんです。僕は……」

 ノアは何か言いかけ、目を伏せる。

 苦しいだけの真実など話す必要はない。知られたくもない。


 気を抜けばルークに斬りかかっていきそうな自分の手を、ノアは必死に抑え付けた。せめぎ合う二つの精神。自分の中に居るもう一人の自分。そいつから彼を守らなければならない。

 

「僕が生きていたら、あなたに危険が及びます。……そんな顔しないで。大丈夫ですよ。死ぬ覚悟なら、とっくに出来てましたから」


 瞳が閉じられる。

 涙の上に、赤が散る。

 ぐらりと傾く体を、ルークは必死に抱き留めた。


「ノア! しっかりしろ! 死ぬな!」

「……ルーク、さ、」

 ノアはルークの顔を見て、一月前に大怪我をした時、彼が見せた激しい怒りの理由をようやく理解した。

 あの時ルークは呆れていたのでも、失望していたのでもない。ただ心配してくれていたのだ。


 その真相は、死にゆくノアの心を穏やかにしてくれる。ノアは幸福な気持ちに包まれ、命を終えた。


「ノア、駄目だ、目を開けてくれ、ノア!」

 ルークの叫びが洞窟に木霊する。


 昨晩まで普通に、自分の傍で過ごしていた少女。もう目が合うことも、声を聞くことさえ叶わない。こんなことなら突き離して傷付けなければよかった。仲間に黙って、勇者の務めを放棄して、彼女を連れてどこへでも行ってしまえばよかった。


 ――ルークは兜を脱ぎ捨て、残る温もりに縋るよう、彼女の体に顔を埋める。……その時、目の前に淡い光が輝いた。


 ノアの胸の傷口から、緑色の光の線が現れる。一本、また一本。それは刺さっていた剣を押し退け、ルークの方に向かってくる。


 その光の触手が何であるかをルークはよく知っていた。この旅で、嫌と言う程目にしてきたのだ。他生物に寄生し、命を弄ぶ悍ましい邪気。


 しかしノアの体から出てくるそれには嫌な感じがなかった。ルークは抵抗することなくそれに包まれる。


 光の中は、あの昼下がりの続きのように眩しかった。

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