Act3.「未明の独白」
未明の空。藍灰色の雲が、遠い朝の気配を孕んでいる。
一晩中歩き通しだったノアは、重い鎧をガシャンと鳴らしてその場にしゃがみ込んだ。水筒から一口だけ水を飲むと、深い息と共に空を仰ぐ。
一人で過ごす夜は久しぶりだった。誰の寝息も聞こえない静寂に、心がうるさく騒ぎだす。
ノアは自分を慰めるように、頭に手を乗せた。リズミカルに、ポン、ポン、と繰り返す。
こんな風に心が落ち着かない時は、いつも兄が優しく頭を撫でてくれたのだ。大きな手。温かい眼差し。大好きだったその声は、もうよく思い出せない。
今はまだはっきりと思い出せる顔も、いずれは霞んでいくのだろうか? 一度手放してしまえば、もう二度と戻らない気がした。
……鏡を見ても、そこに面影を見つけることはできないのだから。
――十八年前。村の外れに棄てられていた赤子を、一人の少年が見つけた。少年は赤子を家へと連れ帰り、両親と共に惜しみない愛で包み込んだ。実の妹のように可愛がり、その子もまた少年を兄と慕うようになった。
分け隔てない優しい性格。優れた治癒士としての腕。少年は村人達に深く愛され、必要とされる存在だった。妹もそんな兄を尊敬し誇らしく思っていた。
少しでも兄を支えられるようになろうと、治癒術や薬の知識を学ぶ少女。それを嬉しそうに見守る兄と両親。小さな幸せが散りばめられた日々。
だがそんな穏やかな日常は、突然終わりを告げた。
少女が十五歳になったばかりのある日、村は狂人の襲撃に遭う。
狂人から妹を庇い、邪神に寄生された兄。彼は愛し愛された村人達の命をその手で奪い、騒ぎを聞きつけた隣の村の自警団によって討伐された。
一晩の内に起きた惨劇。生き残ったのはたった一人の少女だけ。
怪我を負い気を失っていた少女を、狂人は屍と見間違え放っておいたのだろう……と大人達は言った。だが少女には分かっていた。兄に僅かに残った自我が、自分を見逃してくれたのだと。
残された少女は途方もない喪失感と激しい罪悪感に襲われた。
どうして自分だけが生き残ってしまったのか。生きるべき人は、優しく賢く人々の救いとなる兄のような人の筈なのに、と。
目に焼き付いて離れないあの夜の光景。恐ろしい力で人間を蹂躙する邪神の力。少女はその悪夢に囚われ、復讐の旅に出た。
守られてばかりの弱い自分と決別するため、髪を切って男の装いに身を包み、兄の名“ノア”をお守りに、西へと向かう。
しかし、彼女一人に出来ることなどたかが知れていた。
狂獣の巣窟となっていた森に単身で乗り込んだノアは、己の非力さを呪う。旅の途中で鍛錬に励んだとはいえ付け焼刃。細腕一本では狂獣一匹倒すのがやっとで、群れに囲まれたノアは絶体絶命の危機に陥る。
大切な人を守れなかった。復讐も叶わない。生き方も死に方も奪われたノアは絶望した。
そこに現れた一人の剣士。ノアは目を引く彼の容姿に、一目でそれが誰であるか気付いた。彼が噂に名高い勇者、ルークであると。彼は憐れな狂獣達をたちまち一掃し、森に平穏を取り戻す。その圧倒的な強さを前にノアの心は震えた。
『僕を、あなたの旅に同行させてください。力は弱いですが治癒術が使えます。薬の調合もできます。必ずお役に立ってみせますから』
彼と共にいれば、復讐を叶えることが出来るかもしれない。例え自分が死んでも、間接的にでもそれが叶うなら良かった。無駄に死ぬよりよほど良い。ノアは自らの目的の為、そして自分を救ってくれたルークに恩返しをする為、彼の旅に同行した。
旅の道中で他の挑戦者達に聞いた話によると、勇者に憧れ旅に同行したがる女は後を絶たないらしい。が、ルークは女を仲間にする気はないようだ。色目を使われるのが煩わしいのか、弱い性と見下しているのか、そのどちらもか。ノアは彼らの仲間であり続ける為に男を装い続けた。
(今となっては、ギルの女好きを心配してたんだって分かるけどね。……でも、レイラが認められたんだから、結局は実力重視だってことか。……ハァ。わたし、本当に足手纏いだったのかな?)
数時間前、酒場でルーク達に突きつけられた言葉がまだ耳に残っている。それはじわりと目の奥まで熱く沁みた。
ノアはあんな言葉をかけられても、彼らを薄情だとは思っていない。嫌ってはいない。ルークは合理的過ぎるところはあるが基本的に優しいし、ギルバートとレイラは、本人達が自覚しているかはさておき人情家だ。だから、そんな彼らにも見限られた自分が、ただただ情けなくて堪らない。悔しくて堪らない。
仲間として貢献出来ているつもりだったのだ。皆にとって使い勝手の良い治癒士であると自負していたのだ。
三人のような火力や素早さは無いが、ノアには人より怪我の回復が早く、痛みに鈍いという強みがある。通常では致命傷になる怪我もノアには耐えられた。腕を折られても足を折られても、意識さえあれば術を使うことが出来る。だからノアはいつも自身より仲間を優先し、身を挺して援護してきた。
一月前もそうだった。ノアは狂獣に隙を突かれたルークを庇い、鋭い牙に腹を食い破られた。
あの時、ノアは遠ざかる世界に恐怖を感じてはいなかった。ルークの無事に安堵と達成感を抱き、穏やかな気持ちで意識を手放した。
だがベッドの上で目を覚ました時、死にさえ臆することのなかった彼女は、恐怖に縮み上がる。
ルークが褒めるどころか、凄まじい形相でノアに怒鳴り散らしたのだ。
『ノア! どうして出て来た! 何故私を庇ったりした!』
『……ルークさんが危ないと思ったから』
『どうしてお前はいつもそうなんだ! もう二度と……こんな余計なことはするな!』
そう言い捨て、荒々しく部屋を出て行ってしまったルーク。あんな彼は初めて見た……と、ノアはその時の彼を思い出し身震いする。見目の良い者が本気で怒ると迫力が違うのだ。
一体、何が彼の逆鱗に触れてしまったのか。もしかするとルークは背後の攻撃に気付いていて、躱すことが出来たのかもしれない。弱者に庇われたことでプライドが傷付いたのか、仲間の勝手な行動で治療費が嵩んだことに対して憤っているのか。……どちらも彼らしくなかった。ノアはその件に深入りしてはいけない気がして、無理矢理に頭の片隅に追いやっていた。
それ以降、ルークには視線が合えば目を逸らされ、苦しそうな顔をされるようになった。会話は大体がギルバートかレイラを経由し、直接話すことはなくなった。
(ああそうか。あの時、怪我をした弱いわたしを見て、ルークさんは失望したんだ。わたしは、本当に目障りだったんだ)
ノアは鈍感な自分に嫌気が差した。
……空は刻々と朝を受け入れていく。ノアはボロボロの鎧の紐を結び直し、地面を踏みしめた。守るべき仲間を失った今、ノアの原動力は復讐心だけである。
ノアは一人、マラカ洞窟へと向かった。
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