第3話

 玄関に散乱した靴。聞いていた子どもの年齢より遥かに幼く・そして小さく見えるそれと、あきらかに大切にされているであろう艶やかなエナメルのヒールと。ぼさぼさの髪の毛の女の子の頬は加工された写真のように尖ってる。それでも前より元気そうだと帰り道に語る児相のケースワーカーさんとやるせない気持ちで見る空のなんと重苦しいことか。


 この仕事に閑散期はない。そう言ったのは裕臣がこの部署に来た時の上司だった。今ではその意味がすごくわかる。年中いつだって忙しく心を削られる。特に秋から冬にかけては寒さと連動するように通報が増え“閑散期はないのに繁忙期はある”という錯覚に陥るほどだった。

 書類をまとめていても未だに思い出すのは、昔初めて行った家庭訪問先での火のついたように泣き叫ぶ子どもの声。何年経ってもしんどかった記憶は消えないと言うのに、報われることの少ない部署だと感じてしまう。


 眠気覚ましのコーヒーは熱いというのに、場違いに冷え切った体はもう休めと言っているようだった。結局家に帰ったのは定時を大幅に過ぎた頃で、先に食べててと言ったおかげで家に着く頃には風呂上がりの文が玄関まで出迎えてくれる。まだ乾ききっていない髪の毛は艶やかで、昼間の子と目の前の文とか頭の中で点を切るカードのように切り替わる。

「今日はね、カレーだよ!文も手伝ったの」

「へぇ、それは楽しみだ」

 廊下を歩きながらネクタイを外していると文がどこからともなくハンガーを持ってきてくれる。思わず緩む口元に合わせて、文も嬉しそうに笑うのが見て取れる。

「ありがとう文」

「どういたしまして」

 裕臣は自分が話し下手な自覚はあるが、文も女の子にしては物静かな方なのだろうとこの少ない会話に不満はなかった。どうせすぐ賑やかになる、とダイニングチェアに腰掛ければ何処からともなく現れた紡がばたばたと夕飯を盛り付けてくれるのだ。



「そういえば、原稿はどうなんだ?」

「……まだまだ全然。なんかしっくりこないんだよね」

 夕飯を食べて風呂に入ればそれなりの時間になっていた。文は寝たらしく、静かにつけられたテレビはむしろ紡なりの配慮なのかもしれない。

 明日のバイトは休みだと話す紡と缶ビールを開けて飲み始める。向かい合って座る紡の顔がほんの少し疲れてるように見えて聞いてみれば、案の定“本業”が煮詰まっているのだと語る唇。元々色の白い人なのに今では青白いくらいに見える彼は決してサボっている訳ではないとわかっていた。裕臣はただ黙って紡のことを見つめることしかできない自分が歯痒くて仕方ないと、ほんの少し勇気を出して手を伸ばす。固く丸まった紡の手は裕臣が触れたことでピクリと動き、じんわりと熱を分け与えるようにそれを包み込めば二人の距離は縮まったように感じられた。


「無理はしなくていいんだよ。ゆっくり、紡のペースでやればさ」

「うん……」

 普段の快活とした紡は後天的なものだと裕臣は感じていた。もっと言えば、本質では今日見た子ども達と変わらない……愛情に飢えた人なのだろうと考えている。遊んでそうな見た目と裏腹に読書家で、やる気のない若者のように見えて誰よりも“自分が何者であるのか”を探そうと躍起になっている。少しでもその肩の荷が降りればいいと、紡の書く物語を楽しみにしつつそれを急かすことはしたくなかった。

 

「……一緒に寝る?」

「いや、今日は酔っちゃったから先に寝るわ。おやすみヒロ」

 ヒラヒラと振られる手に同じように手をふり返す。

一人になったリビングは思いの外広くてがらんとした寒々しい印象だった。元々は四人家族の家だったんだから当然かと思いつつ、人数は関係なくて“家族”がここにいることの大切さを噛み締める。ふと気になって玄関へ行けば文のブーツはしっかりと年相応の綺麗なものだった。お行儀よく並ぶ靴の隣には紡の靴と自分の靴。

 その光景にほっと安心のため息がでた裕臣は歯磨きをして自分も寝ることにしようと欠伸をするのだった。



――パタン

 隣にある裕臣の部屋の扉が閉まった音を聞き、深くため息をもらす。寝息こそ聞こえてこないが物音がしなくなったことを確認してからデスクライトだけを点けて紡はノートパソコンを起動した。

 忙しいバイト、悪天候による文の迎えの増加と宿題の確認、帰宅時間が早いことによる家事のウエイトの比重など自分がぶつかっている問題は細々と多岐に渡る。けれども一番の悩みはそれら全部をひっくるめても、そしてそれらが解消されたとしても満足のいく物語を書けるか書けないかもわからない自分の不安定さだった。


 今だってキーボードに添えられた手はピクリとも動かない。いつもなら集中できる静寂も、今だけは何よりも大きな音のように感じられる。じりり、じりりと近付き飲み込み絡めとる様に動きを鈍らせる暗闇の呪いにかかったように、言葉一つ、シーン1つも浮かばない。

「あぁ……くそっ」

 これだから夜の執筆活動は嫌なんだと思いつつ、今書かないと自分には時間がないのもわかっていた。明日はバイトが休みだからいつもよりは書けるはず……そう思って寝ようとしても何故だか目は冴えたまま一向に眠気は訪れない。書かないといけないと思えば思うほど、書いてダメだった時はどうしようとも思ってしまう。ダメでもいいじゃん、バイトがあるじゃんと言っている自分も確かに心の中には存在しているのに「お前は小説に本気じゃないのか?」と問いかけてくる自分も「本気になってもしダメだったらどうするの?」と問いかけてくる自分も確かに全て“紡自身”だった。


 創作をしていて楽しいことばかりが全てなはずはない。むしろしんどい時の方が多かっただろ、と紡の中の一人が優しく語りかけていた。今までだって乗り越えてきたじゃんって言ってくれる音は優しいのに、それはあまりに小さな声だ。書きたいのに書けない。挑戦したいのに、結果が怖い。その相反する気持ちで乗り物酔いのようにぐるぐると気持ち悪さは身体の中で渦を巻く。結局明るくなって階下で二人が朝の支度をしている音がしても身体を起こして見送ることもできなかった。二人が出て行った家の中でようやく動き始めた紡は、リビングのテーブルに置かれていたほんの少し焦げたソーセージとスクランブルエッグ――それにいい香りのコーヒーが添えられていたのを見て、どうしようもなく消えたいと思ってしまうのだった。



 

「ただいま」

「おかえり」

 文が帰宅してまず目に入ってきたのはテーブルの上に並ぶ豪華な料理の数々だった。クリスマスでも誕生日でもないのにどうしたんだろうと台所にいる紡をみれば、彼はまだ忙しなく動き回っている。

「動画でレシピ検索したんだけどさ。ローストビーフって炊飯器でできるのな。味見する?」

 やたらと元気そうな紡は、こちらも自家製なのかニンニクのいい香りのするドレッシングをかけて味見用の切れ端を小皿に盛り付けてくれる。

「……美味しい!」

「だろ〜?俺天才かもな」

 文の感想に満足したのか鼻歌混じりに料理の続きを始める紡は大きな鍋で煮込んでいるポトフも味見させてくれた。


「ねぇ、私も手伝うよ」

「いいよ。文はまず宿題な。終わったら丸つけするからちゃんと声かけろよ〜」

 当てがわれた部屋で、使い慣れた勉強机に向かっても襖越しに紡の鼻歌は聞こえてくる。それは、昨日の夜からは想像できないほどに別人のような紡の声だった。



 

 『書けてない』

 早めに寝るようにしてるのは、文なりの気遣いだった。裕臣と紡の家に来られたことは素直に嬉しかった。両親が亡くなって悲しくない訳じゃない。でも、友達が当たり前に話している「おじいちゃんやおばあちゃん」がいなかった文にとっては“お母さんの弟”は初めての親戚だったのだ。

 お父さんが病気になって、お母さんは一気に痩せて別人のような顔つきになった。それがお父さんを心配したからなのか、その頃からお母さんも病気だったのかはわからない。ただ文が全てを聞かされた頃には“長くなく”て、若いからすぐ治ると思っていた病気はその反対だったらしい。

 その頃初めて紹介された“おじさん”は母によく似た人だった。ただし、元気な頃の母に似ているのだと並んでいるところを見ると痛感してしまうのがほんの少し嫌だった。

 『姉さん、来たよ。文が下まで迎えに来てくれたんだ』

 日毎、目に見えて弱って行く母は最後は痛みを抑える為の薬でぼんやりとすることが多かった。それでも熱心に話しかけているおじさんは、父のお見舞いをしている時の母にそっくりだったのだ。


 『文、うちの子になるか?……って言っても、俺は結婚してないし、なんなら同居人もいるけど』

 あの頃のあやふやな記憶が目を閉じると濁流のように流れ混んでくる。毎日必死に頑張ったのに、母はあっという間に亡くなってお葬式の日は知らない人がたくさん目の前に現れた。話してることの全部はわからない。だけどみんな自分のことを話していることだけは理解できた。棺の中のお母さんはお化粧をされて少しだけ顔色がいい。だけどどこか人形みたいに見えてしまって、これが魂が抜けたってことなのかなと思ってしまう。お花を添えて振り返ればみんながこっちを見つめていた。

 

 “お母さんのお葬式”なのに、みんながこっちを見つめていたのだ。

 

 それがどうしようもなく悲しくて、そこで初めて感情が溢れて涙が流れた。おじさんに引き取られて、また知らない人と会わなきゃ行けないからと緊張した。けれど家にいたその人は不思議そうな顔をするけど嫌な顔はしなかった。

 ヒロと紡、二人の邪魔にならないようにと頑張ることを決めていた。近所の公園に行って今のうちから友達を作っておいたし、テレビを見て時間を潰したりもした。ある日紡が目覚まし時計をくれた時、なんだか家族になることを許されたみたいで嬉しかった。紡の時間に私がいたことが、すごく嬉しかった。

 

 それなのに、――と文はじわりと溢れる涙を手で拭う。

紡が小説を書けないのは自分のせいだと感じ始めていた。宿題の丸つけも学校へのお迎えも、ヒロは仕事でできないからと全部紡がやってくれているからだ。母も元気な頃によく「たまには一人で出かけたいな」なんて笑っていたことをおもいだす。大人はきっと、自分の時間が必要なんだと文はなんとなく分かっていた。

 

「……紡」

「ん?」

 宿題を終えてまだ台所でご馳走を作り続けている紡に声をかける。にこやかに笑う彼は確かに自分の親と言うには若過ぎるし、兄と言うには大人過ぎた。大雪の日、迎えに来ていた保護者の中で誰よりも若く、誰よりも繊細そうな横顔が頭から離れなかった。

 丸つけをする紡の真剣な顔を見て、この人は優しい人なんだと改めて文は感じた。ヒロと違って血の繋がりもないのに自分のことを受け入れてくれる。嫌な顔もせずにこうして宿題を見てくれてご飯も作ってくれる。自分の仕事がうまくいかないことを、その原因である自分に言わない優しさに胸が苦しくなっていた。


「紡、ごめんね」

「え?何が?一問間違ったくらい平気だろ。むしろ全問正解ばっかりだとそれはそれで心配だわ」

「そうじゃなくて、」

 丸つけの終わったドリルを受け取る。尖ってた赤えんぴつは先がもう丸くなってた。

 

「……紡が小説書けないの、たぶん私のせいでしょ?だから、ごめん」

「は?……何言って、」

「紡は無理しないで!私は大丈夫だから。丸つけもヒロにお願いする……間違えなきゃ、丸つけるだけならそのくらいならヒロもやってくれるだろうし。だから、お仕事頑張ってね」

 急いで部屋に入って襖を閉めて、でも今追いかけて来られたら泣いてしまうかもしれない。そうなったら面倒だと思われるかもしれない。ドキドキとする心臓はやがてゆっくり落ち着いた。紡は引き留めることも追いかけることもしなくて、そうしてヒロが帰ってくるまではとても静かなままだった。


 玄関が開く音がして、2階から紡が降りてくる音もする。今日はご馳走だよと語る紡の声が思ったよりも穏やかで、きっと今の時間を執筆にあてられてのだと文は胸を撫で下ろした。ゆっくりと部屋から出てくればヒロがテーブルの上の食事に目を輝かせている。ご飯をよそったりしていれば紡も穏やかに笑ってる。怒られてない、これでこのままこの家に居られる……文はそう思って安心しその日はゆっくり眠ることができた。自分のことを助けてくれた二人の迷惑にだけはなりたくないと、この選択を出来た自分は偉いでしょ、と仏壇に並ぶ両親の顔を見つめていた。



「ただいま!」

 元気よく言ったつもりの声は上擦って、ほんの少し変だった。いつもなら2階からおかえりと聞こえてくる紡の声は聞こえてこなかった。気付いてないのかな、とも思ったが玄関の靴が空っぽなのを見て買い物に出掛けているのだと考えて文はそのまま部屋に向かう。今日から宿題の丸つけはヒロにお願いするから、間違いなんてあるとヒロの自由な時間が削られてしまう。何回も教科書を読み、ドリルの説明も読んで問題を解いていく。そうこうしているうちにいつもならご飯を作り始める時間かなと思っても、まだ紡は帰って来なかった。

 

「遊びに行ったのかな?」

 たったそれだけのことでも今の紡には重荷かもしれないと、ラインをするのは諦めた。その代わり夕飯の一品でも作ってみようと、紡から習っていた通りに味噌汁だけは作ってみる。出汁の粉末を入れて、にんじんは水から茹でる。昨日のポトフがすごく美味しかったけど作り方がわからないから、せめて同じ具を入れたら美味しくなるのかとポトフの具材を思い出して全部を入れた。味噌をといてもまだにんじんは固いままで、柔らかくなるまで煮続けたらなんだか少しいつもの味噌汁と違う味に出来上がってしまうのだった。

 

「……紡?」

 そうこうしているうちに外は暗くなり、時間も遅くなってきたのに紡は帰ってこなかった。お腹が空いて味噌汁を食べる。味見の時よりも、なんだか薄く感じられるのは何故なんだろう。買い物ではなく、きっと紡も母のように息抜きをしているんだろうとそのままソファに寝転がる。ヒロが帰ってきたら丸つけを忘れずにお願いしないと、とドリルもテーブルの上に置いておいた。図書室から新しく借りた本は偉人の伝記だった。文字を追ううちに瞼は酷く重たくなって、頭はぼんやりとし始める。


 

 そうこうしているうち、眠っていた文を先に見つけたのは裕臣だった。いつもより少し早く帰れたと家に入れば誰の出迎えもなく、ソファには文が一人で眠りについている。テーブルの上にはお椀と箸がひとつずつ。鍋の中には不恰好だが味噌汁があって、片付けられているが床が濡れたままの台所は大人の不在を物語っていた。

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