渡り鳥の眠る場所
kavka
第1話
その日、紡は一日中パソコンの画面と向き合っていた。公募の締め切りが近い、勿論それは“自分が設定した早めの期限”ではあるものの 締め切り であることに違いはないのだ。目が霞むのを感じ画面を睨んだままポケットから目薬を取り出せば、やたらと激しい色味のソレは凝り固まった紡の目を一瞬だけ解してくれるのだった。
「っん〜……」
一度画面から目を逸らすと注意力は瞬く間に削れていく。伸びをして腕時計を確認すればつい先程まで朝を示していた針はとっくに19時をまわっていた。机に置いたままのカップには冷め切ったコーヒー。ダメ元で飲み込めば酸味が口の中を占領していく感じに顔を顰める。やっぱりヒロの言う通り、安いのは冷めるとまずいんだなと一気にそれを飲み込んで渋々台所へと向かうことにした。
郊外にある小ぢんまりとした一軒家が彼等の住処だった。かつては花がたくさん咲いていたのだろう、空の植木鉢はまるで“誰かの記憶の残渣”のように物置に積まれている。今では男の二人暮らしだからこそそういった華やかさとは無縁の一軒家は、しかし持ち主の人間性を写すように適宜塗り替えられキチンとした印象を保っていた。
「……ヒロ?」
紡は自室として使っている2階の部屋を出て階段を降りながら、家主の名前を呼んでみる。付き合って4年になる恋人はこの一人暮らしには有り余るほど大きな家を抱えたまま紡のことを受け入れた。同性愛者が集うバーで知り合った彼は紡のことを気に入り、家がないならうちにおいでと住む場所を提供してくれたのだ。
「まだ終わらないんだ……」
独り言をかき消すようにリビングの電気をつければ、朝から時間が止まったように散らかったままの状況が紡の目に飛び込んでくる。流石にまずいかとテーブルの上の皿や脱いだままの服を片付けていれば程よく気分転換になるのが皮肉に感じられた。
結局その日、裕臣は帰って来なかった。誰だかの葬式だと話していたのを思い出し、何日くらいかかるのか聞いておけば良かったと今更ながらにそう思う。パントリーにあった買い置きのカップ麺にお湯を注ぎながら頭の中は既に公募のことに切り替わり、如何にして文字数を削り洗練した内容に仕上げるかを寝るまでずっと紡は考えた。
『すご……』
自身の通帳に、未だみたことのない金額が示されていた。20歳の紡の通帳には45万という当時の彼にしては途方もない大金が振り込まれていたのだ。
『すごいよマサさん!ゼロがたくさんある!』
『もっと賢そうな感想はないのかよ紡』
目の前で楽しげに笑うのはその時付き合っていた恋人の“マサさん”だった。彼は今までの恋人の中で一番社会的に成功している人なのだろう、古めかしいとはいえアパートの一室を紡のために借り上げたうえに彼の小説を書籍化まで持って行った人だった。結婚して子どももいると話していたその人は、しかし紡の容姿をひどく気に入り自身の子どもより年若い男を手籠にした。紡としても定職に就かずフラフラとしていたところを見初められて悪い気はしなかった。なによりもその人に入れ込んだのは自分自身を見てくれたことが理由だからだ。ある日家で紡が幼い頃から続けていた小説もどきの執筆を見た彼はそれを喜びパソコンを買い与えてくれたのだ。
『紡、お前の小説が本になるぞ』
『……どういうこと?』
しばらく経って、いきなり家に訪れたその人は興奮気味にまくし立てた後に紡を抱いた。情事の名残りの残るベッドで詳しく話を聞いた紡は逆にそこから興奮が収まらず、眠れないなか何度も何度も青白い光を浴びながら画面をスクロールし続けた。カーソルは瞬くばかりでなにも進まなかったが、そんな夜を未だにこうして夢に見る。後に知ったことだが出版社勤めのその人が社の新人発掘企画に紡の小説を捩じ込んで無理やりそれを押し通したらしい。それだけの無茶が出来る人だったのだと知った頃には恋人の存在が彼の家族に発覚しかけて二人は別れざるを得なかった。あれだけ愛していると語っていたその人は、最後にはあっさりと奥さんと子どもを選択し紡は古めかしいアパートを去ることになったのだ。それでも手元にパソコンだけはあったから、日雇いのバイトや飲み屋で働きながら執筆だけは続けていた。あの日二人で喜んだ微かな印税は一瞬で消え去り再び流れるように生きていた紡は裕臣に出会ったことでようやく安定した生活を手に入れたのだった。
懐かしい夢に、然し吐きそうだとまだ暗い空を見つめながら紡はポケットに手を入れる。バーで知り合った裕臣は市役所勤務の地味な男だ。しかしそれでも人生で二人目の自分自身を見てくれる人だった。
『えっ、コレ桐生紡の本だ!君これ読んでるの?』
たまたま鞄から落ちたそれを拾ってくれた裕臣は愛おしそうに紡の唯一の生きた証を見つめている。
『……これ、俺は何気なく買ったんだけどすごく好きなんだ。でもこの作者についてはほぼ情報が出てこなくて、本もこれ一冊きりらしくてさ』
『……そうなんだ』
大して売れもしなかった自分の本を買ったというその人は、何度も読み返したことがわかるほど細やかに好きなシーンを語ってくれる。そのうちに恥ずかしくなってきてつい奪うように本を鞄に捩じ込めばごめんごめんと笑う顔に胸が締め付けられるのを感じてしまった。
『君の大切な本なのにベタベタ触ってごめん。ありがとう、その本を好きな人と語れて嬉しかったよ』
『……俺も。自分の本を買った人、初めて見たから嬉しかった』
微笑んだまま首を傾げる裕臣は、言葉の意味を理解した瞬間にはもう何も言葉を発さなくなっていた。作者に偉そうに語ってしまったと固まる彼の手を引きホテルに傾れ込みそのまま彼のものになりたいと懇願していた。朝起きて彼が嬉しそうに自分の書いた本を読んでいる横顔を見るのが、何よりも幸せだと自身を満たしてくれていた。
彼との生活は慎ましく健全だ。
誰もいない実家に住み続けている裕臣は仕事と家の往復という変わり映えのない毎日を過ごしている。バーで知り合ったのも本当に偶然だったのか、飲み歩くことさえ4年間で数えるほどしかない人なのだ。紡にも住む場所は貸してくれるが“お小遣い”はくれない人だった。けれどもそんな関係がまるで大人として扱われているようで嬉しくて、今では書店でのバイトをして生活費をしっかりと折半し暮らしている。
書店員の朝は早い。3時に出勤してその日入荷のコミックスから荷解きをして雑誌に付録をつけ始める。小説なんかの文庫本に手をつける頃には人も増え、そのうちに店を開ければ紡は帰る時間を迎えることになる。
「桐生くん、せめてフルタイムにしない?」
「……いや、やりたいことがあるので」
バイトで居続けるには、フルタイムにさえならないのは理由があった。あの日たった3000部程度だったとしても自分の生きた証を残せたのは人生で1番の喜びだった。しかしそれは自分が頑張って勝ち取ったものではなく、元恋人が勝ち得たものなのだ。次こそは自分で掴み取る、そう思えるようになったのは裕臣と出会ったからこそだった。公募に向けて執筆を進めるのが自分の人生で1番大切なこと。だからこそ、仕事は生きるためのお金だけ得られればそれでいいと思ったのだ。
家に着く頃には10時を過ぎていた。そこから軽く昼食を摂って執筆に時間を割くのが紡のルーティンだ。シャワーで汗を流して髪を乾かしながらスマホを見れば裕臣からメッセージが届いている。
『もうすぐ帰る。ちょっと話したいことがあるんだけど、今日は予定とかない?』
「ないよ、と。気をつけて帰ってきてな……」
そういえば自分は葬式に出たことがないが、それってどんな流れなんだろうかとぼんやりと紡は考えた。トータルで3日以上仕事を休んでいるはずの裕臣の体が心配になり、珍しくなにか料理でもしてあげたいと台所に向かってみる。とはいえ裕臣が家を空けていたからか食材の買い置きは増えることはなく、ないよりはマシだろうという開き直りでホットケーキを何枚か焼くことにした。話というのがなんなのかはわからないが、なんにせよ頭を使うのだろうと焼き上がったものを一枚よけて自分用としてアイスクリームをのせてみる。ディッシャーから押し出されたそれはホットケーキの熱で溶け出すようにじわりと染み出し、その甘い蕩ける食感に口元は綻びコーヒーは進んだ。そうこうしているうちに外からは車のエンジン音が聞こえてきて裕臣の帰宅を知らせてくれる。インターホンを鳴らすことなく鍵を開ける音と「ただいま」という恋人の声に大きな声で「おかえりー!」とだけ応えて最後の一切れを食べようとフォークを皿に向かって突き立てる。リビングの扉が開いた瞬間目に飛び込んできたのは予想外の光景で、フォークに刺さっていたはずのホットケーキはぼとりと皿に舞い戻るのだった。
「……誰、その子」
嫌な汗が一気に毛穴から吹き出してくる。裕臣に背中を押されてリビングに入ってきた女の子はキョロキョロと落ち着きがなさそうに目線を泳がせたままだった。真っ直ぐな黒髪はイラストのように艶やかで、まん丸の瞳とは別にほんの少し困り眉なところはどこか裕臣と同じく感じられるのだった。
「この子は“あや”。俺の姪で……とにかく、今日からうちで暮らすことにしたんだ」
裕臣のために焼いたホットケーキはそのほとんどが“あや”の口に入っていった。余程疲れていたのだろう、シャワーに入り一呼吸置いたらその子はソファで寝落ちしている。初めて間近でみる子どもに驚きが隠せずただその流れを見つめていた紡は、自分も線香の臭いが気になるといってシャワーをかぶっていた裕臣が戻るまでずっと固まったままだった。
「ごめん、急で」
「別に……ここは裕臣の家だから。でも、この子誰なの?」
姉の子どもだ、と言われて心臓は一度だけ嫌な音を立てた。紡があてがわれている部屋は元々あった家具をそのまま使わせてもらっている。古いが綺麗に整えられた学習机や、カーテンなんかの色合いから“本当の持ち主”は女性で、子どもで、なぜだか時間は止まったままなのだとどこかでそれに気付いていたからだ。
「……葬式って、お姉さんの?」
「そう。……悪い、ハッキリ言わなくて。俺も連絡がきたの久しぶりだったから」
どうりで、とひと月前の記憶を辿る紡はいろんなことに合点がいった。家を空ける日が増えたりお見舞いに行かなくてはならないと言ったりバタバタとしていた裕臣はけれども多くを語らなかった。身寄りのない親戚が、と聞いていたがそれが姉だったのだろう。4年間もここに住んでいて紡が知っている情報は両親が他界しているというものだけで、ならば自身が住み着く部屋は元は誰のものなのかと聞くことは憚れたのだ。どうせ裕臣もいつかは女の人と結婚して自分のことを手放すだろうという気持ちと、この人だけは違うという相反する感情が常にせめぎ合う中――深く踏み込んだことは聞けずにいたのだ。
「ぐっすりだ。ベッドにおろしても起きる気配もない」
眠り続ける女の子を裕臣は抱き抱え、連れて行った先は紡の部屋だった。どうしても、と言われて断る理由も思いつかずそれを了承した。あの子が寝るなら、あの部屋が望ましと純粋にそう感じたからだ。
「……俺が小6の時かな。駆け落ちだったんだ。相手も別に変な人じゃなかったんだと思う。今考えると、たぶん“あや”ができたんだろうな」
そう語る裕臣はいつもと違ってどこか幼く見えた。
7つ歳上だったと語られる彼の姉は恋人がいることさえ家族に悟られることなくある日姿を消したらしい。公務員であった父親と専業主婦の母親と年は離れているが可愛い子ども達……と、絵に描いたような平凡で幸せな家庭はその日を境に一変したのだろう。紡の憶測に過ぎないが、失踪ではなく駆け落ちだとわかって彼の家族は娘を探すことをやめたのだろう。それは、理想的な家庭から外れたからなのか、本当の意味で娘のことを想ったからなのかはわからない。わからないが、彼女が消えたその日そのままその時間で止まったままの部屋を見ればなんとなく彼女の気持ちがわかるようだった。
大学生にしては幼過ぎる家具類と、妙に整い過ぎているこの家と。親の理想を叶えたいという気持ちを持った少女は羽化と共に羽ばたいた。残った裕臣は――忠実に親の望む姿になったのだろうと予想できたのだ。
「……俺、実は就職して2年目で結婚したことがあって」
珍しく明るいうちから酒を飲む裕臣はポツリポツリと過去を語る。そうしないと受け止めきれないほどのことがあったのだろうと、紡は彼の話に耳を傾けた。
「姉さんのこともあったから、俺は親の望んだ通りになってやりたくて。親父と同じく役所に勤めて、それで結婚して。孫も見せてやれたら良かったんだろうけど……それは無理だった」
例え男性が恋愛対象だったとしても女性と付き合えないことはない。そんな人は世の中に存外いるのだと紡は知っていた。マサさんがそうであったように、裕臣も『男なのに男を好きだということ』を隠して生きてきたのだろう。娘を失った両親を励ます術を他に思いつかなかった裕臣はどうにか自我を抑えて結婚をして、そして離婚したのだと顔を歪めながら語るのだった。
「……アイツには本当に悪いことをしたんだ。こんな俺でも信頼できる、一度は本当にこの人とならって思える人だったのに。……それなのに、やっぱり俺は女の人のことを本当の意味では愛せなくて」
「うん。……わかるよ」
セックスだけなら出来ないことはない。紡自身、一度だけ試したことはあったのだ。けれどもそれは完全に自分の心を壊す行為であったし……何よりも相手を傷付ける行為だったのだ。自己嫌悪と涙する相手への申し訳なさとでしばらくは無気力になった。それがわかるからこそ、紡は裕臣の背中を優しく撫でることしか出来なかった。
「貯金全部渡して謝って、それで別れて。実家に戻って孫を見せられなくてごめんってまた謝って。……その直後かな。親父に癌が見つかってあっという間に亡くなったんだ。母さんもゆっくりゆっくり、後を追うように弱っていった。そんな年でもないのにさ」
母親の介護期間は一年もなかったらしい。結局、立て続けに親を亡くした裕臣はそれでも叶えてあげられなかった彼らの理想を追い求めて今もなお苦しんでいるのだろう。テーブルの上のウイスキーは彼の人生の辛く長い期間を慈しむように、徐々に溶けた氷で薄まっていた。
「……こんな形だったけど、“あや”をこの家に連れてこれて良かったんだ。どのみち他の親戚はみんな駆け落ちした人間の子どもだって言って、誰もあの子自身を見ようとはしなかった」
「……そうだね、」
愛情も確かにそこにはあるだろう。けれどもそれは歪んだ自己実現にも感じられた。どうしたって同性愛者の裕臣は、両親の墓前に孫を連れていくことは出来ないのだから。唯一、叶えられる方法はこれしかなかったのだと紡は理解はできるのだった。
「さっき“あや”の寝顔を見ていて思ったんだ。この子を救えて良かったって。……もちろん、連れてきて終わりじゃないことはわかってる。けど、姉さんや親父や母さんの痕跡の残るここで“あや”を育てることができるのが……それで少しでも救われることがあるって、そう思うんだ」
裕臣は市役所の児童福祉課に勤めている。詳しく聞いたことはないが、きっと救いたくても救えない、救われない子どもというのはみんなが思うよりもっとずっとずっと多いのだろう。だからこそ救える選択肢があることが今の彼を支えているのだと紡は思った。
「もうお酒は終わり。あの子に酒臭いって言われるかもよ」
「たしかに。嫌われたら傷付くな」
カラカラと笑う裕臣はそのまま部屋で眠りについた。静かな家の中で執筆を始めようと思った矢先、自分の部屋には“あや”が寝ていたことを思い出す。真っ暗な部屋に聞こえる小さな寝息に、今日は休むかとそのまま酒を飲んで20時には裕臣のベッドへ潜り込む。2時半には目を覚まして家を出た。玄関に並んだ小さな靴が、何故だか目に焼き付いて離れなかった。
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