第3話 File.03:深夜のコインランドリーにて・Aさんの証言
K市での取材を開始してから二週間が経過した。
失踪した依頼人・T氏が残したノートと、公園で出会った老人たちの証言。これらをつなぎ合わせると、ある一つの生活施設が浮かび上がってくる。
団地の敷地内にある24時間営業のコインランドリー、「ひまわり」だ。
T氏のノートにはこうある。
『5月22日 Mさんの奥さんが、コインランドリーで洗濯物を畳んでいるのを見た。彼女は器用に右手だけで畳んでいた。以前、ゴミ捨て場で会った時は、左手で箒を持っていたはずだが?』
そして、公園の老人S氏も言っていた。
「奥さんは左利きだった。でも、ある日見たら右手で包丁を握っていた」
身体的な特徴の逆転、あるいは修正。
それが日常的に行われている場所が、あのコインランドリーなのかもしれない。
私は、この奇妙な噂についてさらに情報を集めるべく、SNSのローカル掲示板や、地域限定のコミュニティアプリを駆使して、「K市のコインランドリーでの奇妙な体験」を募った。
大半は無視されたが、一件だけ、興味深いダイレクトメッセージが届いた。
『記事のネタになるかは分かりませんが、あのランドリーには“見てはいけない時間帯”があります。もしよければお話しします』
送り主は、この団地に住む20代の女性、Aさん(仮名)。
私はすぐに返信し、彼女のアルバイト終わりだという深夜一時、駅前のファミレスで話を聞くことになった。
Aさんは看護専門学校に通う学生で、実習とアルバイトに追われる日々を送っているという。
目の下にはクマがあり、カフェインの錠剤を水で流し込みながら、彼女は重い口を開いた。
「私、あそこの団地の4号棟に住んでるんです。家賃が安いので。でも、もう限界です。来月には引っ越すつもりで、今は荷造りを進めています」
「それは、コインランドリーでの体験が原因ですか?」
「……はい。それが決定打でした」
Aさんは周囲を気にしながら、声を潜めた。
「あのランドリー、昼間は普通なんです。おばあちゃんたちが井戸端会議をしてたり、主婦の人が乾燥機を回しに来たり。でも、深夜二時を過ぎると、空気が変わるんです」
「どう変わるんでしょう?」
「利用者の層が、ガラッと変わるんです。いえ、人間じゃない何かが混ざり始める、と言ったほうが正しいかもしれません」
Aさんの生活サイクルは不規則で、実習のレポート作成などで深夜に洗濯をすることが多かった。
部屋の洗濯機は音がうるさく、近所迷惑になるため、どうしてもコインランドリーを利用せざるを得なかったのだという。
「最初の違和感は、一ヶ月くらい前でした。私が乾燥機の終了を待って、ベンチでスマホをいじっていた時です。自動ドアが開いて、一人の女性が入ってきました」
「どんな女性でしたか?」
「30代くらいの、普通の地味な服を着た人です。ただ、荷物が変でした。洗濯カゴも持たず、手ぶらだったんです」
手ぶらの女性は、Aさんの視線を無視して、一番奥にある大型洗濯機の前まで歩いていった。
そして、中を覗き込み、何かを確認するように頷くと、そのまま何も入れずに蓋を閉め、コインを投入してスタートボタンを押したという。
「空回し、ですか?」
「ええ。最初は、前に使った人の汚れを洗い流すために、一度空で回しているのかなと思いました。潔癖症の人もいますから。でも、彼女はずっとその場に立って、回っているドラムを見つめているんです。一時間、微動だにせずに」
Aさんは気味悪さを感じたが、自分の乾燥が終わったので、すぐに店を出た。
しかし、それから数日後、さらに決定的な出来事に遭遇することになる。
「その日も深夜二時頃でした。店内には私一人。洗濯が終わるのを待っていたら、また自動ドアが開いたんです。今度は、中年くらいの男性でした」
「また手ぶらでしたか?」
「いいえ、今度は黒いゴミ袋を持っていました。男性は私の向かい側の洗濯機を使っていました。私は読書をしていて、ふと顔を上げた時、ガラス越しに彼と目が合ったんです」
洗濯機の蓋は透明な強化ガラスでできており、回転する水と洗濯物が見えるようになっている。
Aさんは、そのガラスの反射越しに、男性の顔を見たのだ。
「でも、変なんです。男性はベンチに座ってスマホを見ていました。下を向いていたんです。なのに、洗濯機のガラスに映っている彼の顔は、こっちを見て笑っていたんです」
私は背筋が粟立つのを感じた。
「見間違いではありませんか? ガラスの角度とか、光の加減で……」
「私もそう思いたかったです。でも、反射の中の彼は、口をパクパクと動かしていました。まるで、水槽の中の魚みたいに。そして、あきらかに私に向かって、何かを言っていたんです」
Aさんは震える手で自分の首元を触った。
「読唇術なんてできませんけど、なんとなく分かったんです。『あ・な・た・の・か・お・く・だ・さ・い』って」
Aさんは悲鳴を上げそうになるのをこらえ、まだ乾ききっていない洗濯物をカゴに押し込み、逃げるように店を出たという。
だが、恐怖はそれだけで終わらなかった。
「翌日の朝、ゴミ捨て場でその男性を見かけたんです。挨拶しようか迷ったんですが、彼の顔を見て固まりました」
「どうしたんですか?」
「彼の顔、昨日の夜に見たのと少し違っていたんです。なんていうか、左右のバランスが整いすぎていて、まるでCGで作った顔みたいで。そして、私に気づくと、あのガラス越しに見た笑顔と同じ顔で笑いかけてきたんです」
Aさんはそこまで話すと、一息ついた。
「ライターさん。私、思うんです。あそこは『洗濯』する場所じゃないんじゃないかって」
「どういう意味ですか?」
「服を洗ってるんじゃなくて、あそこで『中身』を洗ってるんじゃないかって。汚れた人間性とか、古い記憶とかを洗い流して、新しい人格に着替えるための場所……そんな気がしてならないんです」
Aさんの証言は、T氏のノートにあった「泥だらけの服」という記述とも符号する。
「中身」を洗う。
もしその仮説が正しいとすれば、あの団地で起きている「住人の入れ替わり」現象の、ある種の浄化装置があの場所だということになる。
取材を終え、Aさんと別れた後、私は時計を見た。
時刻は深夜一時半。
Aさんが言っていた「見てはいけない時間帯」が近づいている。
私は意を決して、K市の団地へと車を走らせた。
深夜の団地は、死んだように静まり返っていた。
巨大なコンクリートの塊が規則正しく並び、その窓のほとんどは暗い。
その中で、団地の中央広場に面した一角だけが、青白い蛍光灯の光を放っている。
「コインランドリー・ひまわり」だ。
私は車を少し離れた場所に停め、徒歩で店に近づいた。
ガラス張りの店内は、外から丸見えだ。
広さは十坪ほど。両壁に洗濯機と乾燥機がずらりと並び、中央には長テーブルとパイプ椅子が置かれている。
客の姿はない。
自動ドアが開く。
ウィーンという機械音と共に、むっとするような湿気と、柔軟剤の甘ったるい匂いが鼻をついた。
それに混じって、どことなくカビ臭いような、土の匂いもする。
店内には、ゴウン、ゴウンという重低音が響いている。
稼働している洗濯機が一台だけあった。
一番奥の、20kgまで洗える大型洗濯機だ。
Aさんが「手ぶらの女性」が使っていたと言っていたものと同じ機械だ。
私はさりげなく店内を見回し、防犯カメラの位置を確認しつつ、奥へと進んだ。
稼働中の洗濯機の中では、白い泡と水が激しく渦巻いている。
中身は見えない。泡立ちすぎていて、何が入っているのか判別できないのだ。
ただ、時折、ガラスに「ゴンッ」と重いものがぶつかる音がする。
濡れた布の塊がぶつかる音にしては、あまりにも硬質な響きだった。
私はベンチに腰を下ろし、店内に置かれた「交流ノート」を手に取った。
どこのコインランドリーにもある、待ち時間の暇つぶしに客が書き込むノートだ。
「乾燥機3番、調子悪いです」「管理人さん、いつもありがとう」といったありふれたメッセージが並んでいる。
だが、ページを遡っていくと、奇妙な書き込みが目につき始めた。
『5月10日 水が冷たい。もっと温度を上げてほしい。皮が縮まないように』
『5月15日 初めての洗濯。うまくいった。私は今日から田中です』
『5月18日 304号室がうるさい。壁を叩く音がする。まだ馴染んでないのがいる』
『5月21日 顔のシワが取れない。アイロンが必要かもしれない』
筆跡はバラバラだ。子供のような字もあれば、達筆な字もある。
しかし、その内容は明らかに異常だった。
「304号室」。
T氏のノートにも、S老人の話には出てこなかったが、管理組合の記録に関する私の事前調査で引っかかった部屋番号だ。
そして、今このノートにも。
『5月24日 見つけた。見られている。ライターが来ている』
私の手が止まった。
日付は一週間前。私が初めてT氏と会った直後だ。
「ライターが来ている」。
これは私のことか? それともT氏のことか?
背筋に冷たいものが走る。この街の住人――あるいは「何か」――は、外部からの侵入者に対して異常に敏感だ。
その時、店内の空気が変わった気がした。
稼働していた奥の洗濯機が、脱水モードに入ったのだ。
キュイーンという高いモーター音が響き渡り、ドラムが高速回転を始める。
遠心力で中身がガラス面に押し付けられる。
私は、見てはいけないものを見る予感に駆られながらも、ゆっくりと洗濯機に近づいた。
高速回転するドラムの中。
一瞬だけ、回転が緩んだ隙間に、中身が見えた。
それは、服ではなかった。
肌色のような、ゴムのような質感の、大きな一枚の布。
いや、布ではない。
目鼻立ちのような穴が開いた、人の皮のようなもの。
そして、その奥で、茶色い泥水が渦を巻いている。
「……!」
私は思わず後ずさりした。
その拍子に、背後のテーブルに腰をぶつけてしまい、パイプ椅子がガシャンと音を立てて倒れた。
静寂な店内に、爆音のような金属音が響き渡る。
その瞬間、洗濯機の回転がピタリと止まった。
まだ残り時間は表示されていたはずだ。
それなのに、唐突に、電源が落ちたかのように静止したのだ。
そして、泡だらけのガラス面の向こうから、何かがこちらを覗き込んだ。
泡の隙間から、眼球だけが見えた。
白目の部分がない、真っ黒な瞳。
それが、ガラスにへばりつくようにして、私を凝視している。
『あ、い、た』
ガラス越しではなく、私の頭の中に直接響くような、湿った声が聞こえた気がした。
私は恐怖で身体がすくんだが、本能が「逃げろ」と叫んでいた。
交流ノートを鞄に突っ込み、私は店を飛び出した。
自動ドアが開くのがやけに遅く感じられた。
背後で、「ボコッ、ボコッ」という音が聞こえた。
洗濯機の蓋が開く音か、それとも中から何かが這い出てくる音か。
私は振り返らずに車まで走り、震える手でキーを回した。
アクセルを踏み込み、団地から離れる。
バックミラーで後方を確認する。
コインランドリーの明かりは遠ざかっていたが、店の前の歩道に、誰かが立っているのが見えた。
街灯の逆光で顔は見えない。
だが、そのシルエットは、びしょ濡れで、だらりと長い両腕を膝の下まで垂らしていた。
あれは人間ではない。
あるいは、「まだ人間になりきれていない」何かだ。
私はコンビニの駐車場まで逃げ、明るい店内で呼吸を整えた。
心臓の鼓動が収まらない。
手に入れた「交流ノート」を開く。
先ほど読んだページに、震える文字で新たな書き込みが追加されていることに気づいた。
『5月31日 ライターさん、ノートを持っていかないで。それは私たちの交換日記なのに』
インクがまだ湿っている。
私が店内にいた数分の間に、誰が書いたというのだ?
店には私しかいなかったはずだ。
まさか、あの洗濯機の中にいた「何か」が、ガラス越しに念写でもしたというのか?
それとも、私が気づかなかっただけで、ずっと「誰か」が私の背後に立っていたのか?
恐怖と共に、一つの確信が生まれた。
この団地には、確実に「異界」への入り口がある。
そして、その中心にあるのは、間違いなく「304号室」だ。
交流ノートにも、T氏の記録にも登場する、忌まわしき部屋番号。
私はノートを閉じ、助手席に放り投げた。
これ以上深入りするのは危険だ。
だが、もう手遅れかもしれない。
車の窓ガラスに映る自分の顔が、一瞬だけ、知らない男の顔に見えた。
まばたきをすると、疲れた自分の顔に戻ったが、その一瞬の違和感は拭えなかった。
私の顔は、まだ「私」のものだろうか?
コインランドリーの匂い――あの甘ったるい柔軟剤とカビの臭いが、染み付いて取れない気がした。
(第3話 完)
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