必要ないと言われたので、旅に出ました。
黒蜜きな粉
はじまり
第1話 解雇
墓地の朝は、いつも静かだ。
夜の冷たさが土の奥にまだ潜んでいて、世界が息を潜めているようだった。
リリシアは膝をつき、盛り土の端をそっと撫でる。
湿った土が指先の体温を奪っていき、それと一緒に胸の奥に空白が広がる気がした。
――いつから、こんなに冷たかったっけ。
墓標に刻まれた名は短い。
旅の途中で力尽き、運ばれてきた兵士だ。
彼の靴は擦り切れ、片方の紐は千切れ、持ち物といえば刺繍布に包まれた小さな笛だけ。
「……これで、帰れるよ」
囁くように呟き、リリシアは立ち上がった。
腰の革袋から銀の鈴を取り出し、一度だけ鳴らす。透き通った音が、朝靄の向こうへ淡く消えていく。
そして歌う。
祖母から受け継いだ古い言葉の歌。
意味は全部わからなくても、旋律だけは幼いころから染みついていた。
歌い終わるころ、墓地の端の白樺の葉が、風もないのに微かに震えた。土の下で、なにかがそっとほどけていく。
ここでは、それが日常だった。
「――リリシア・グレイモンド殿で相違ないな」
背にかかった声は、土よりも冷たかった。
いつからそこにいたのだろう。
振り向けば、灰色の外套を着た書記官が一人、気だるそうな雰囲気で立っている。
その背後に控える衛兵は無言で、空気を張り詰めさせていた。
「はい。霊廟守護官の……」
「本日をもって、その役職は廃止された」
あまりに想定外の言葉が告げられた。
リリシアは驚きのあまり言葉が続かなかった。
書記官は王家の紋章が記された巻物を広げる。
そこに書かれている言葉を、淡々と読み上げていく。
代々、グレイモンド家は王国の墓守を務めてきた。
埋葬を見届け、封印を護り、死者と生者をつなぐ役目。
誇りであり、逃れられない宿命でもあったその務めが、ほんの数行の文章で無くなってしまった。
「君への退職金については、役所の窓口に――」
「……墓地の精霊たちは怒りませんか。雨の日に眠れない声が響くかもしれませんよ」
気づけば、リリシアは問いかけていた。
革袋を握る指先が白くなるほど強く。
衛兵の視線がわずかに硬くなる。
書記官は巻物を閉じ、鼻で笑った。
「精霊など、帳簿には載らんよ」
乾いた声だった。
その冷たさが、墓の土より冷える。
帳簿に載らないものを、ずっと守ってきた。
名のない骨。名のない祈り。名も残らない約束。
歌と、土の手触りで。
「命令は命令だ。これまでの君の一族の奉仕は、王国の栄誉として記録される。だがその任も、ここまでだ」
霧の向こうでカラスが笑った。
リリシアは首から下げた鍵束にそっと触れる。
真鍮の鍵は七本。霊廟の門、納骨堂、道具庫……、それから一番小さな思い出の鍵。
「では、門の鍵を」
書記官の細い指が差し出される。
はめられた金の指輪が、どこか嘲るような光を返す。
リリシアは鍵束を外し、しばらく見つめた。
祖母のしわだらけの手の温度が、ふと指先に重なる気がした。
「……納骨堂には、まだ納めていない骨壺が四つあります。昨日の雨で土が崩れた一角も。手入れが必要で――」
「役場の人足に任せる。君はもうここに立つ必要はない」
その言葉が、胸の奥に深く突き刺さった。
必要はない。
その響きが、耳の内側で何度も反響する。
必要であることだけが、リリシアを支えてきた。
たった一言で、仕事も、家名も、居場所も霧のように消えた。
「……これは、返せません」
リリシアは鍵束から一本だけ抜き取った。
父が使っていた黒曜石の短剣の鍵。
掌に乗せると、ほかより温かい気がした。
「なに?」
「これは形見です。王命に背くものではありません」
短い沈黙。
書記官はため息をつき、肩をすくめた。
「好きにしろ。他は受け取る」
残りの鍵を渡す。
手から重さが消えると同時に、胸にぽっかり穴が開いた気がして不安になる。
「最後に、ここに署名を」
巻物の末尾に、署名欄。
震える指で名を記す。
インクがにじみ、文字の端が歪む。
まるで、自分という存在の輪郭まで滲んでいくようだった。
王の紋章が揺れた。
学園時代、同じ紋章の持ち主と並んで歩いた記憶がよぎる。
青い空、柔らかな笑い声。
だが、リリシアはその名を口にしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます