第二章 再起動のスタジオ
レイが家に来てから、二週間がたった。
朝、目を開けると、だいたい視界の端にレイがいる。
キッチンの前でポットを握っていたり。
カーテンのすき間から外を見ていたり。
俺のベッドの足元で、腕を組んで立っていたり。
「ナギ、起きた?」
今日も、足の甲を軽くつつかれた。
「……起きてる」
「その返事、九割方“まだ寝たい”って意味だよね」
レイはそう言って、カーテンをざっと開ける。
薄暗い部屋に、朝の光が入り込んできた。
「今日はスタジオ十七時からでしょ。
その前に、リーグのエントリー最終確認と、レギュレーション読み直し」
「その単語並べられると急に現実味増すからやめろ」
「現実だからね?」
レイは、俺の枕元にスマホを投げてよこした。
画面には、リーグ運営からのメールが表示されている。
【LIVELEAGUE NEXT / 202Xシーズン エントリー仮受付完了】
【本登録締切:今週金曜 23:59】
【登録完了後の公式カード変更は不可となります】
件名を見ただけで、胸のあたりがざわついた。
「……本当に出すんだな、俺たち」
「今さらやめる?」
レイは、少しだけ首をかしげた。
「やめても別にいいよ。
ただ、“やめた理由”はずっと残るけど」
「お前、朝から刺してくるな」
「起こすときは刺激強めの方が起きるでしょ」
確かに、眠気は一気に飛んだ。
洗面所で顔を洗いながら、鏡を見る。
クマは、あの頃よりはマシになっている。
雷の夜からしばらくの間、鏡を見ると自分じゃないみたいな顔が映っていたけど、それも少しずつ薄れてきた。
代わりに増えたものがある。
洗面台の端に置かれた、小さな黒いヘアゴム。
「それ、なんでここにあんだよ」
「前髪まとめるとき用」
レイが後ろから顔を出す。
「スタジオでは演奏モード多いけど、家でリンク調整するとき、髪あった方が表情読めるでしょ」
「まあ、そうだけど」
楽姫のくせに、そういう細かいところを気にする。
人間っぽいといえば人間っぽいし、面倒くさいといえば面倒くさい。
でも、そこがちょっとだけ、ありがたかった。
トーストとインスタントスープみたいな簡単な朝飯を終えて、リンクテストをするのが、最近の朝のルーティンだ。
リビングの真ん中に、ギタースタンド。
そこにギター形態のレイを乗せる。
背中のモニターに、簡易UIが表示される。
【GAKKI UNIT-GT / REI】
【LINK:渚悠真 / 準備完了】
「じゃ、朝リンクいきまーす」
「掛け声つけんな」
「気合い入るかなと思って」
俺はスマホを操作して、リンクアプリを立ち上げた。
ユイの名前が表示されていた場所は、もう空白じゃない。
REI / UNIT-GT
その文字をタップすると、接続確認のポップアップが出る。
【GAKKI UNIT-GT / REI とリンクしますか?】
はい。
画面をタップすると、手のひらがじん、と温かくなった。
頭の奥に、うっすらとしたノイズみたいなものが流れ込んでくる。
それが、だんだんと形を持った感覚に変わっていく。
背中のモニターに、数字が浮かぶ。
【LINK SYNC:46%】
「昨日より一%上がったね」
ギター形態のレイから、声が聞こえる。
「誤差じゃねえの」
「誤差かもしれないけど、誤差じゃないかもしれない」
「どっちだよ」
「どっちも」
レイは、さらっと言った。
『リンクって、こうやって毎日少しずつ変わっていくもんだから』
楽姫と人間がリンクして音を出すライブリーグ。
あれは、ただの音楽コンテストじゃない。
感情と演奏の同期率。
楽姫とプレイヤーのリンク値。
ステージ上でのリスク管理。
そういうもの全部ひっくるめて“バトル”と呼んでいる。
楽姫は、ただの楽器じゃない。
こっちのテンションも、迷いも、怖さも、全部拾ってくる。
拾った上で、音に変えてくる。
ユイと組んでいたとき、それは“気持ちよさ”の方が強かった。
今は、まだそこまで行けていない。
『ナギ』
「ん」
『ユイのこと考えてるときの顔、だいぶわかってきた』
「そういうこと言うときだけ解析精度高いのやめてくんない?」
『仕事だからね』
レイの声が、少しだけ柔らかくなる。
『別に、忘れろって言うつもりはないよ』
「ならいいじゃん」
『でも、“ユイだったらどうしたか”を基準にすると、あたしはずっと“ユイ未満”にしかならない』
そこまで言って、レイは一度だけストラミングした。
アンプにつないでないから、生の弦の音だけが部屋に鳴る。
『リーグで必要なのは、“今のRe;Chordとして何ができるか”でしょ』
「わかってるよ」
『ならいい』
本当にわかってるのか、自分でも怪しい。
それでも、朝のリンクテストを繰り返しているうちに、“雷の夜の感覚”は、少しずつ上書きされていっている気がした。
代わりに、ここ最近の練習の手応えとか、レイとの会話とか、そういうものが積み重なっていく。
リンクを一度切って、レイを人型に戻す。
「じゃ、夕方まで自由時間ね」
「お前、なんか予定あんの?」
「ないけど?」
「ないんかい」
「でも、リーグの情報はちょっと整理しときたいかな」
レイは、テーブルの上のタブレットを手に取った。
「今年から予選の形式変わってるし、配信の規約も変わってるよ」
「配信?」
「うん。リーグの試合、全部ストリーミングされるじゃん。
公式の他に、出場バンドの“セルフ配信枠”も設けられたの」
「そんなのあんのかよ」
「うん。“楽姫視点カメラ”とか、“バンドメンバーの楽屋トーク”とか、自分で枠とっていいんだって」
「ハードル高ぇな」
「ナギ、カメラ向けられると固まるタイプだよね」
「うるせえ」
でも、見てる側からしたら、そういうのは楽しいのかもしれない。
楽姫と一緒に戦うバンドの“日常”とか、“裏側”とか。
俺にとっては、それが今まさに目の前にある日常そのものなんだけど。
午前中は、そんなふうにだらだらと情報を整理したり、過去のライブリーグの映像を少しだけ見返したりして終わった。
過去シーズンのハイライト動画。
感情出力がバカみたいに高いバンド。
リスクインデックスギリギリで攻め続ける危ないやつら。
逆に、安定性重視でじわじわ評価を稼ぐタイプ。
画面の中の楽姫たちは、みんな違う。
派手な衣装の子もいれば、シンプルな作業服みたいな見た目の子もいる。
人間のメンバーとの距離感も、それぞれだ。
肩を組むように並ぶやつ。
あえて距離を取って立つやつ。
演奏中だけ異様に近づくやつ。
「楽姫ってさ」
レイが、画面を見ながら言った。
「人間側の“願望”がけっこう乗っかってるなって、見てて思う」
「願望?」
「こういう相棒がいい、とか。
こういうふうに鳴ってほしい、とか。
こういうふうに笑ってほしい、とか」
画面の中で、あるバンドの楽姫が、ボーカルの肩に軽く頭を乗せていた。
コメント欄には、ハートマークが大量に流れている。
「でもまあ、その願望と現実の差分で、たいてい揉めるんだけどね」
「お前、経験者みたいな言い方するな」
「経験者だからね」
レイは、さらっと言う。
「前のオーナー、結構めんどくさかったから」
「どんなやつだったんだよ」
「そのうち話す。今は、ナギとの話で手一杯」
そう言って笑う顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
午後になって、俺たちはスタジオに向かった。
夕方の地下スタジオは、相変わらず湿気とタバコと楽器の匂いが混ざっている。
受付の壁には、新しいポスターが貼ってあった。
【LIVELEAGUE NEXT シーズン開幕】
【予選ブロック・A〜D 募集中】
【今年から“Dブロック:UNDERDOG枠”新設】
カズが、そのポスターをじっと見ていた。
「アンダードッグ枠、だってよ」
「なにそれ」
「要するに、実績少ないバンドとか、復帰組とかをまとめてぶち込む枠」
澪が、スマホを見ながら補足する。
「過去シーズンで事故ったバンドとかも、だいたいそこ」
「言い方」
俺は思わずツッコんだ。
「でも実際、前に雷ライブやらかしたバンドは、Dブロック確定だと思うけどね」
「それ、うちじゃん」
「そう。うち」
澪はあっさり言った。
「むしろ、“復帰ストーリー”としては一番美味しいブロックって言われてるよ」
「美味しいってなんだよ」
「配信的に」
カズが横から口を挟む。
「視聴者、ドラマ大好きだからな。
“あの事故から戻ってきたRe;Chord!”とか、絶対サムネにされる」
「やめてくれ……」
本気で胃が痛くなった。
スタジオの中に入ると、すでに機材がセッティングされていた。
いつものドラムセット。
ベースアンプ。
ギターアンプ。
部屋の隅には、リーグ運営から貸し出された小型端末が設置されている。
バンドごとのリンク状態や、リーグ用のプリセットを管理するための端末だ。
澪が、その端末を操作しながら言った。
「エントリーフォーム、一応入力だけは済ませておいたよ。
バンド名、メンバー、楽姫の型番と名前。
あとは、最終確認のボタン押すだけ」
「そのボタン、重いな」
「軽く押しても反応するけどね」
「そういう意味じゃねえよ」
レイが、ギタースタンドの横に立ちながらこちらを見ていた。
「ナギ」
「ん」
「押すの、お前だからね」
そう言って、少しだけ目を細める。
「“あの夜の続き”をやるって決めたのもお前だし」
言葉の端に、ほんのわずかに棘があった。
責めているわけじゃない。
ただ、事実を確認しているだけのトーン。
昔、ユイが俺に向かって言った言葉を思い出す。
『決めるのはナギでしょ』
結局、いつも最後のスイッチを押すのは自分だ。
俺は、リーグ端末の前に立った。
画面には、入力済みの情報が並んでいる。
【バンド名:Re;Chord】
【ギター:渚悠真】
【ボーカル:霧島澪】
【ベース:宮田湊】
【ドラム:風間和也】
【楽姫:GAKKI UNIT-GT / REI】
【参加希望ブロック:D(UNDERDOG)】
その下に、小さく注意事項が書かれている。
【※過去シーズンにおいて重大な事故履歴のあるバンドは、安全審査の後、参加可否を決定します】
【※リスクインデックスの上限値は昨シーズンより厳格化されます】
画面の隅には、小さく“前回の事故報告書へのリンク”が表示されていた。
開かなかった。
開きたくなかった。
その代わり、下の方にあるボタンに視線を落とす。
【エントリーを送信する】
指が、画面の手前で止まる。
雷の音が、頭の奥で鳴る。
照明タワー。
ユイのモニター。
真っ黒になった画面。
背中に、ぞわっと冷たいものが走った。
その瞬間、インナーイヤー越しに声が聞こえる。
『ナギ』
レイだ。
『今、“押したらユイに悪い”って思ったでしょ』
「……」
図星すぎて、何も言えない。
『別に、そこまで読めるわけじゃないけど。
表情筋とリンク波形見てれば、それくらいはわかる』
レイの声は、意外と静かだった。
『ユイのこと、裏切るつもりなら、ここまで来てないと思うよ』
「裏切るつもりなんか、ねえよ」
『でしょ』
レイは、机の端に腰を乗せるみたいな体勢になって、俺を見下ろした。
『だったら、“止まったままのRe;Chord”の方が、よっぽどユイに悪い』
心臓のあたりを、きれいに一発撃ち抜かれた気分だった。
止まったまま。
あの夜から、一歩も進んでいない自分。
ユイの名前を言い訳にして、ギターを握らなくなった自分。
「……チクチク刺すよなお前」
『褒め言葉だと思っとく』
「どこがだよ」
それでも、指先の震えは、さっきより少しだけマシになっていた。
俺は、息を吸って、画面をタップした。
送信。
短い電子音が鳴る。
画面の表示が切り替わった。
【エントリーを受け付けました】
【安全審査の結果および予選ブロック・対戦カードは、三日以内に発表されます】
それだけの文章だった。
それだけのはずなのに、スタジオの空気が変わった気がした。
「……出しちゃったな」
口から勝手にこぼれる。
「出したね」
澪が、少しだけ笑った。
「これで、後戻りはできないよ」
「最初からするつもりねえよ」
カズが、ドラムスローンに腰を下ろす。
「よっしゃ。
じゃあ“戻ってきたRe;Chord”として恥ずかしくない音、ちゃんと鳴らそ」
ミナトも、無言でベースのストラップをかけた。
レイは、ギター形態になってスタンドに収まる。
背中のモニターに、小さく数字が浮かぶ。
【LINK SYNC:48%】
その日、俺たちはヘトヘトになるまで曲を回した。
リーグ用の新曲。
雷ライブ以前からやっていた曲の、レイ版アレンジ。
MCのつなぎ方。
スタジオの空気は、詰まりながらも、前に進んでいく。
雷の夜の記憶は消えない。
でも、“二回目のスタートライン”の匂いも、確かにそこにあった。
三日後。
リーグ運営から、メールが届いた。
【LIVELEAGUE NEXT / 予選ブロック・対戦カード確定のお知らせ】
本文を開く前から、心臓がうるさかった。
リビングのテーブルに、俺とレイと、澪とカズとミナトが集まる。
「じゃ、開けます」
澪がスマホを握り直した。
画面をタップする。
全員が、息を止めた。
そこには、こう書かれていた。
【予選Dブロック 参加バンド一覧】
・Re;Chord(復帰)
・CLEAR-LINE
・BURNOUT BITE
・NEON SHEPHERD
・他2バンド
【初戦カード】
第一試合:Re;Chord vs NEON SHEPHERD
「ネオン・シェパード……?」
聞いたことのないバンド名だった。
澪が、すぐに検索をかける。
画面に、動画のサムネやプロフィールが表示されていく。
「インディーズ寄りのシーンでちょっと話題のバンドっぽいね。
“夜の街系シンセロック”って書いてある」
「どんなジャンル名だよ」
カズが笑う。
ミナトは、動画の再生ボタンに指を伸ばした。
「どんな音か、見とく?」
「見るしかねえだろ」
雷の夜以来、初めての“公式の相手”。
画面の向こう側から鳴り始めた音に、俺は自然と息を詰めていた。
Re;Chord再始動の物語は、いよいよ“誰かとのバトル”の形を取り始めていた。
ここから先は、俺たちだけの問題じゃない。
相手がいて、観客がいて、画面の向こうで見てる誰かがいる。
その全部をひっくるめて、“もう一度ステージに立つ”ってことなんだろう。
指先が、じんわりと熱くなった。
リンクしていないのに、レイの気配が、すぐ隣で息をしているみたいに感じた。
雷の音じゃない。
これから鳴らす音の方が、少しだけ大きくなった気がした。
画面の向こう側から鳴り始めた音に、俺は自然と息を詰めていた。
ネオン・シェパードのライブ映像は、小さめのライブハウスだった。
青と紫のライト。
湿ったスモーク。
奥の壁には、ネオン管みたいなバンドロゴ。
ボーカルは短髪の女で、黒いジャンパーの襟を立てている。
声は細いのに、マイクを通すとやたら刺さってくるタイプだ。
ギターは一本。
代わりにシンセと打ち込みが厚く入っていて、リズムは機械的なのに、メロディだけやけに感情がこもっていた。
そして——
「楽姫、キーボード形態か」
ミナトが、小さくつぶやいた。
ステージ袖寄りに立っている楽姫は、細身の人型から、横長のキーボードに変形していた。
ボディが光って、鍵盤の上をボーカルが時々叩く。
【GAKKI UNIT-KB / MIRA】
画面の隅に、名前がテロップで出ていた。
「シンセ楽姫って、バンドの色出やすいよな」
カズが腕を組む。
「ギター型と違って、音色の幅がそのまま世界観に直結する感じ」
「歌詞、めっちゃ“夜”って感じだね」
澪が、眉をひそめながら聴く。
街灯。
終電。
タクシーのブレーキ音。
コンビニの明かり。
そういう単語が次々出てくる。
「悪くない」
ミナトが、ぽつりと言った。
「“夜の街系シンセロック”って説明、割とそのまんま」
「褒めてんだかディスってんだかわかんねえな」
「褒めてる」
映像の終盤、画面の左上に小さなUIが出ていた。
【EMOTION SCORE:82】
【LINK RATING:B+】
【RISK INDEX:最大61%】
去年の地方サテライトリーグの決勝戦、ってテロップがついている。
「ちゃんとリーグ経由で上がってきてるタイプか」
澪が、画面を止めた。
「インディーでバズっただけじゃなくて、ちゃんと“審査員と視聴者に点数つけられてきた”バンド」
「つまり、俺らと真逆なやつらだな」
「事故って炎上してから表舞台から消えたバンドとはね」
言われて返す言葉もない。
LIVELEAGUEは、ただのトーナメントじゃない。
試合ごとに「技術」「表現」「リンク」「リスクマネジメント」の四項目で審査員が点数をつける。
そこに視聴者投票が加算されて、最終スコアが出る。
どれだけぶっ飛んだ演奏をしても、楽姫とリンクしてなければ点は伸びない。
逆に、安定しすぎていても「表現」と「視聴者票」が伸びない。
あの夜、俺がユイと一緒にぶっ壊したのは、そのバランス全部だった。
「でもさ」
カズが、画面を見ながら口を開いた。
「初戦がネオンでよかったかもな」
「何が」
「CLEAR-LINEが初戦じゃなくて、俺は助かった」
CLEAR-LINE。
同じブロックにいる、今シーズンの本命バンドの名前だ。
クリーンで隙のないエモロック。
ギターじゃなくベース楽姫を軸にした、理詰めのバンド。
そっちはまだ映像をちゃんと見ていない。
見るのが少し怖かった。
「たしかに、いきなりそこと当たるよりマシか」
澪がうなずく。
「ネオンは“雰囲気の完成度”が高いけど、技術点で勝てる余地はある。
リンク値次第では、全然チャンスあると思う」
「リンク値次第、ね」
レイが、壁にもたれてぼそっと言った。
「こっちの課題、そこなのはわかってる」
「自覚あるのはいいこと」
澪が、レイを真っ直ぐ見る。
「初戦まで、あと二週間。
その間に、“雷ライブの続き”じゃなくて、“今のRe;Chordの音”を形にしよ」
二週間。
短いようで、長い。
長いようで、何かしているうちにすぐ終わる。
そのどっちにも転びそうな微妙な時間だ。
それからの毎日は、わかりやすく“リーグに向かう日常”に変わった。
午前。
俺の部屋で、リンクテストと軽いリフ回し。
昼。
各自仕事や学校やバイト。
俺は配達のバイトに入ったり、家でギターのフレーズを詰めたり。
夕方から夜。
スタジオで合流して、バンドとしてのリハ。
帰り道で、レイと今日の反省をまとめる。
そんなループが続いた。
リンク値は、ゆっくりだけど確実に上がっていった。
【LINK SYNC:52%】
【LINK SYNC:56%】
【LINK SYNC:59%】
数字だけ見れば、そこそこ。
でも、ユイと組んでいた頃は、普通に70とか80を超えていた。
雷ライブのときは、90台のログが残っている。
それと比べてしまう自分を、毎回レイが軽く殴ってくる。
『比べるなとは言わないけど、基準にするのはやめて』
『今の数字で、今の音を作るしかないんだから』
スタジオの空気にも、少しずつ変化が出てきた。
最初の頃は、「止まらないように最後まで」って目標だった。
今は、「どうやって魅せるか」「どこまでリスクを上げるか」が話題に出てくる。
「サビ前のブレイク、もう一拍伸ばしてもよくね?」
カズが提案する。
「レイの出力一瞬落として、そこから一気に上げる感じ」
『ブレイク長くするなら、その前のリフ、もうちょいタメ作らない?』
レイがすかさず乗っかる。
「ナギの右手がそこまで持つならね」
「持つわ」
口ではそう言いながらも、右手首に貼られた湿布がじんわり主張してくる。
「怪我したら本末転倒だからね」
澪が冷静に釘を刺す。
「ライブリーグは“長期戦”なんだから。
初戦で燃え尽きても意味ないよ」
リーグのシーズンは、予選と本戦を含めて、だいたい三ヶ月。
予選ブロックを勝ち抜いて、本戦トーナメントに進むバンドは限られている。
その先まで行くなら、体力も精神も、楽姫のコアも持たせなきゃいけない。
あの夜、ユイと一緒に限界までぶん回した結果、コアを焼き切った俺は、その意味を嫌なくらい知っている。
そんな中、リーグ運営から配信用の案内が届いた。
【バンド専用チャンネル開設のお知らせ】
【出場バンドは、試合前後および日常風景の配信を行うことができます】
専用アプリを通して、簡易的な配信ができるらしい。
楽姫視点のカメラや、ステージ裏の映像を流せるようになっている。
「やる?」
澪が、俺たちを見回した。
「“Re;Chord再始動日記”的なやつ」
「やるしかねえだろ」
カズが即答する。
「こういうの、やっとかないと、CLEAR-LINEとかに全部話題持ってかれるぞ」
「ネオン・シェパードも絶対やるタイプだよね」
ミナトが、過去の彼らの動画一覧を見ながら言う。
「楽屋トークとか上手そう」
「そういうのプレッシャーに感じるの、俺だけ?」
「大丈夫。ナギにはしゃべれない代わりに“弾いてるときの表情”って武器があるから」
澪が、さらっと言う。
「無自覚にエモい顔するからね、あんた」
「やめろ」
顔が熱くなるのがわかった。
結局、試しに短い配信を一本やってみることになった。
スタジオの隅にスマホを固定して、画角の隅にレイの背中のモニターが入るようにする。
「えーと、ども。Re;Chordのボーカルの澪です」
澪が、カメラに向かって手を振る。
「今日は、ライブリーグ初戦に向けたリハの一部を、ちょっとだけ見せようかなと。
横にいるのが、新しい楽姫のレイ」
「レイです」
レイが、短く挨拶する。
コメント欄には、ポツポツと文字が流れ始めた。
【おかえりRe;Chord】
【ユイ……】
【新しい子、クールそう】
【雷ライブの人たちだ】
ユイの名前が出てきた瞬間、心臓が一瞬縮んだ。
でも、レイは特に表情を変えずに続ける。
「いろいろあったバンドですけど、今シーズンから、あたしが相棒やります」
そこで、一拍だけ間を置いた。
「ユイの“代わり”じゃなくて、“今のRe;Chordの相棒”としてね」
コメント欄が、一瞬ざわっと動いた気がした。
【代わりじゃないって言い切るの好き】
【ユイもたぶんそれ望んでる】
【言い方かっけえな】
【雷ライブから見てました】
どこの誰かもわからない人たちが、画面の向こうから何かを言ってくる。
それがうざいと感じる瞬間もあれば、ありがたいと思う瞬間もあった。
今日は、ギリギリ後者寄りだった。
配信を切ったあと、澪がレイを見た。
「今の言い方、普通に良かった」
「そう?」
「うん。“再出発の物語”って感じがちゃんと出てた」
「それ、なんか照れる言い方」
レイは、そっぽを向いた。
俺は何も言えなかった。
ユイの名前を出されたとき、レイのリンク波形がどう動いていたのか、本当は見ておきたかったのに、怖くてモニターから目をそらしてしまっていた。
初戦の日は、あっさり来た。
会場は、中規模のホールだった。
外には、リーグのロゴがプリントされた大きなバナー。
入り口付近には、出場バンドの名前が並んだボード。
“Re;Chord vs NEON SHEPHERD”
自分のバンド名が印刷された文字を見るのは、久しぶりだった。
雷ライブ以降、フェスのフライヤーからもイベントのポスターからも、Re;Chordの名前は消えていた。
今日、やっと戻ってきた。
バックステージは、思ったよりも整っていた。
バンドごとに割り当てられた狭い楽屋。
共有スペースには、簡易ケータリングとドリンク。
壁には、リーグのルールが改めて貼られている。
【試合時間:一バンド一曲(最長6分)】
【審査項目:技術 / 表現 / リンク / リスクマネジメント】
【RISK INDEXが90%を超えた状態で一定時間を超えた場合、減点対象】
【事故と判断された場合は即時演奏停止】
最後の一行を見たとき、喉の奥がひゅっと鳴った。
「大丈夫?」
いつの間にか隣に来ていたレイが、俺の顔を覗き込む。
「“事故と判断された場合は即時演奏停止”ってさ」
「今さら?」
「今さら」
「じゃあ、今さら言うけど」
レイは、少しだけ身を寄せた。
「もしまた何かあっても、今度は止めさせるからね」
「誰を」
「あんたを」
さらっと言って、楽屋の奥のソファに向かう。
「止められても弾き続けた前歴がある人間には、事前に釘さしとく必要あるでしょ」
「反論できねえ……」
少し離れた場所では、ネオン・シェパードが談笑していた。
ボーカルの女が、楽姫のMIRAと何か話している。
キーボード形態のボディを軽く叩きながら、「今日も頼むね」みたいなことを言っているのが、口の動きでなんとなくわかった。
MIRAは、淡い水色のボブヘアで、瞳も少し青みがかっていた。
人型に戻った姿は、都会のコンビニに普通にいそうな感じだ。
「やっぱり、“夜の街”って感じだな」
カズがぼそっと言う。
「いい意味で垢抜けてる」
「音も雰囲気も含めてね」
澪も、小さくうなずいた。
「でも、だからこそ、うちは“泥臭い方”で勝負しよ」
「泥臭い方」
「雷落とさない範囲で、ね」
釘を刺すタイミングは、みんな似ている。
ステージ袖に移動すると、客席のざわめきが耳に入ってきた。
ドリンクを片手に談笑しているやつ。
スマホを構えて待機しているやつ。
リーググッズのTシャツを着ているやつ。
ステージ上空には、見覚えのあるモニターUI。
RISK INDEX。
STAGE GAIN。
STABILITY。
あの夜と同じメーターが、今日はまだ青いゾーンで眠っている。
実況と解説の声が、スピーカーから聞こえてきた。
『さあ、LIVELEAGUE NEXT、予選Dブロック第一試合!
復帰組のRe;Chordと、勢いある新鋭NEON SHEPHERDの対決です!』
『Re;Chordは、あの“雷ライブ事故”以来の公式ステージですね。
楽姫も新しいユニット・REIに変わっての参戦となります』
そのフレーズに、客席のざわめきが少しだけ変わった。
ざわざわ、という音がした気がする。
俺の背中にも、ざわざわが広がった。
「ナギ」
レイが呼ぶ。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃねえけど、大丈夫にする」
「便利な日本語」
「便利だから使う」
短いやり取りをしているうちに、緊張の輪郭が少しだけ変わった。
単純な恐怖だけだったものに、ちょっとだけ楽しみの成分が混ざる。
指先が、勝手に弦の形を探し始める。
「さあ、それでは——」
実況の声が、一段高くなる。
『先攻、NEON SHEPHERD!』
ステージに、青紫のライトが走った。
ネオンが、夜の街を連れて行った。
俺たちは、その後ろ姿を見送りながら、自分たちの番を待つことになった。
NEONのステージは、正直、良かった。
冷たくて、でもどこかあたたかい。
都会の夜に一人で立っているときに聴きたくなる類の音だった。
MIRAの鍵盤と、打ち込みのリズム。
ボーカルの歌い方。
客席の手の上がり方。
全部、ちゃんと「今」を鳴らしていた。
【EMOTION SCORE:79】
【LINK RATING:A−】
【RISK CONTROL:A】
ステージ上空に、暫定のスコアが出る。
『さあ、かなり高めのスコアが出ました!
Re;Chord、復帰戦としてはなかなかハードルが高い相手になりましたね』
『リンク評価がA−ですからね。
人間と楽姫の関係性が、一目でわかるステージでした』
袖に戻ってきたネオンのメンバーと、すれ違う。
ボーカルの女が、軽く会釈してきた。
「お互い、楽しも」
その一言が、意外とすっと胸に入ってきた。
「……ああ」
短く返すのが精一杯だった。
MIRAは、人型に戻って、レイの方をじっと見た。
「新しい相棒?」
レイは、少し顎を上げて答える。
「そう。あたしが今のRe;Chordの楽姫」
「雷、怖くない?」
ストレートすぎる質問だった。
「……ちょっとだけ」
レイは、正直に言った。
「でも、それより“止まったバンド”の方が怖いかな」
MIRAは、少しだけ目を丸くしたあと、微笑んだ。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
軽く手を振って、楽屋の方に戻っていく。
『続いて、後攻——』
実況の声が、ステージに響いた。
『Re;Chord!』
客席のライトが、少しだけ揺れた。
名前を呼ばれて、足が一歩前に出る。
レイが、隣で歩く。
ステージの床は、雷ライブの会場より少し固くて、少し狭い。
でも、上空のモニターは、あの夜と同じように俺たちを見下ろしていた。
所定の位置に立つ。
カズがドラムのスローンに座り、ミナトがベースのストラップをかける。
澪がマイクの前に立ち、レイがギター形態でスタンドに収まる。
背中のモニターに、リンクUIが出る。
【GAKKI UNIT-GT / REI】
【LINK:渚悠真 / 準備完了】
俺は、ポケットからスマホを取り出して、リンクアプリを開いた。
指先が、画面の上で一瞬止まる。
雷の夜の記憶が、また頭にのぼってくる。
でも、その上から、レイの声が被さった。
『ナギ』
「ん」
『怖かったら、怖いって思ったまま弾いていいよ』
「そんなもん、音に乗っちまうだろ」
『乗せればいいじゃん』
レイは、さらっと言う。
『“怖くないフリした音”より、“怖いまま前に進む音”の方が、今のあんたには似合ってる』
ミナトが、カウントを取るためにベースのヘッドを軽く叩いた。
「準備いい?」
澪の声が、インナーイヤーに入ってくる。
「行ける」
自分でも驚くくらい、声は安定していた。
俺は、リンクボタンを押した。
【LINK SYNC:62%】
今日の数字。
ユイといたときの数字じゃない。
俺とレイの、今の数字だ。
「Re;Chord、準備が整ったようです!」
実況の声が、遠くで響く。
『それでは、聴いてください。
Re;Chordで——』
澪が、マイクを握り直した。
「“Restart Code”」
初戦用に書き下ろした曲の名前だった。
カズのスティックが、頭上で一度止まる。
ワン、ツー、スリー、フォー。
カウントと同時に、音が飛び出していった。
イントロは、シンプルなリフから始まる。
ミナトのベースが刻む、太い八分。
カズのキックが、それを地面に打ち付ける。
その上で、レイのクランチが鳴く。
指先が、弦の上を走る。
雷の夜よりも、歪みは少し控えめ。
出力値も、メーター的には安全圏。
でも、胸の中では、あのときと同じくらいの熱さがあった。
Aメロ。
澪の声が入る。
歌詞は、再起動と後悔と今を混ぜたようなものだった。
止まった指。
焼けたコア。
黒くなったモニター。
それでも、「もう一度コードを鳴らす」と言い切る言葉。
歌詞の半分は、澪が書いてくれた。
残り半分は、俺が夜中に書き足した。
レイは、その全部を知っている。
リンクの中で、何度も一緒に読み返した。
サビ前。
あの夜、止まった場所。
背中のモニターのRISK INDEXが、数字を上げていく。
【RISK:34%】
まだ青い。
まだ、安全圏。
でも、心臓はちょっとだけ早くなる。
雷の音が、遠くでうっすらする。
『ナギ』
レイの声が、インナーイヤーに届く。
『行こう』
「行く」
右手を振り下ろす。
サビが、ちゃんと鳴った。
途中で止まらずに、一塊の音として前に飛び出していく。
客席のどこかで、歓声の質が変わった気がした。
さっきまで「雷ライブのバンド」を見ていた目が、「今の音」を聴こうとしている感じ。
サビの最後。
短いブレイク。
RISKは一瞬だけ上がる。
【RISK:51%】
でも、あの夜みたいに赤ゾーンに突っ込む気配はない。
レイが、ギリギリのところでブレーキをかけてくれているのが、リンク越しにわかる。
俺は、そこに身を預けた。
曲は、そのまま最後まで走り抜けた。
ユイと一緒に鳴らしていた頃とは違う、少しゴツゴツした、不器用な音。
でも、それはたぶん——
今のRe;Chordの音だった。
最後のコードが鳴り終わって、客席から拍手が上がる。
歓声。
口笛。
名前を呼ぶ声。
その全部が、一度遠くなってから、また戻ってくる。
ステージ上空のモニターに、暫定スコアが表示された。
【EMOTION SCORE:80】
【LINK RATING:B+】
【RISK CONTROL:B】
『おおっと、かなり拮抗してきました!』
実況が、声を上げる。
『NEON SHEPHERDが総合スコア82だったのに対して、Re;Chordの暫定スコアは——』
【TOTAL:81+視聴者投票】
『さあ、あとは視聴者投票と、審査員の最終調整次第!
これはわからなくなってきましたね!』
ステージから袖に戻るとき、膝が少し笑っていた。
レイが、人型に戻って隣に立つ。
「おつかれ」
「……おつかれ」
『まともに弾けたね』
「そこがスタート地点なの、ほんと笑えないけどな」
『でも、スタート地点には立てた』
レイは、俺の肩を軽く叩いた。
『雷の夜の続きじゃなくて、“今日の一曲目”としてね』
楽屋に戻ると、澪が深く息を吐いた。
「……とりあえず、やることはやったと思う」
「視聴者票、どうなるかな」
カズが、スマホで配信コメントをちらっと見る。
【思ったよりちゃんとしてた】
【ユイの事故から戻ってくるのエモすぎ】
【レイの音、思ったより荒くて良い】
【雷ライブのときより好きかもしれん】
「“思ったより”ってなんだよ」
「褒め言葉でしょ」
ミナトが、ぼそっと言う。
「期待値低かったけど、ちゃんと裏切ったってこと」
「そういう解釈もあるか」
しばらくして、運営スタッフが楽屋に入ってきた。
「予選第一試合の結果、出ました」
心臓が、一瞬止まる。
スタッフは、タブレットを見ながら淡々と告げた。
「Re;Chord vs NEON SHEPHERD——
一点差で、Re;Chordの勝利です」
その一言で、足から力が抜けた。
「マジで“一点差”とかやめろよ……」
「ドラマ的には美味しいってやつだね」
澪が、半分笑いながら言う。
「でも、勝ちは勝ち」
カズが、スティックでテーブルを軽く叩いた。
「おかえり、Re;Chord」
ミナトも、小さく笑った。
レイは、俺の方を見た。
「とりあえず、“止まったまま終わるバンド”じゃなくなったね」
「ああ」
喉の奥が熱くなって、まともな言葉が出てこなかった。
雷の夜からずっと止まっていた指は、たぶん今日、ちゃんと前に出た。
まだぎこちないし、リンク値だって完璧には程遠い。
CLEAR-LINEみたいな強豪相手に勝てるビジョンなんて、まだ全然見えない。
それでも。
Re;Chord再始動の物語は、やっと“一章目が終わった”くらいの場所まで来た気がした。
ここから先は、もっときつい。
でも、そこに向かって行くための一歩目は、確かに踏み出せた。
そう思えたことが、何よりの救いだった。
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