3.さあ――Buon appetito!

「あ」


 ほぼすし詰めの地下鉄に乗り込んで、気付く。


「どうかしたか」

「スマホ、家に置いてきた」


 朝起きて、見てもいない。おそらく自室の勉強机の上にあるだろうが、スマートフォンの場所は判然としなかった。

 どうせ、それほど使うわけでもない。クラスのメッセージグループには何かしら届いているかもしれないが、どうでも良いと通知を切ったままだ。気付けば通知が百件二百件と溜まっているそのメッセージグループに奏羽が思うことなど「みんな暇だな」という程度のものであって、そこから情報を掬い上げようとも思えなかった。


「ばっ……お前、それでどうやって俺に連絡するんだよ」

「別に一穂に絶対連絡しないといけないわけじゃないでしょ?」

「イーゴの件言われたら、俺だって無関係じゃない」

「でも、イーゴを作ったのは僕だし」


 未だ炎上しているかと言えば、一旦は収まったとして良いだろうか。けれど昨日もまだ通知は届いていたし、拡散が止まったというわけではない。

 イーゴを作ったのは奏羽だ。ネットの上に、『イーゴ』という存在を作って、ただぶつけるだけのような歌を与えた。男とも女とも言い難いイーゴの歌声は、ある一定の支持を得てネットの海の中を漂っている。

 傷を吐き捨てる歌詞。怒りに任せるような旋律。そういうものを何とかうまく真綿で包んでイーゴは歌う。歌こそがイーゴの存在意義で、そこに人格なんてものはなくていい。


「今更俺を仲間外れにするなよ?」

「炎上させた人間が何を言ってるんだか。運用を一穂に任せた僕も悪いけど」


 それでも、今までは何も問題なかったのだ。一穂が蒼雪に頼まれたからって、余計なことをしなければ。もちろんイーゴを使うのが一番拡散の手立てとして良かったのだろうとは分かっているし、何事もなければ奏羽とて「それはそれ」と受け止められた。

 ただ、面倒なことになってしまったのだ。『薔薇園の淑女』の呼び出しのせいで。


「他の人間に歌わせる気はないからな、俺は」

「知ってる」


 イーゴの歌は、イーゴのものだ。

 届くと良いなと思った相手に届いているのかは分からない。この『イーゴ』という名前だって、気付いてもらえるかは分からない。おかげで奏羽はすっかり新幹線に詳しくなってしまったというのに、そんな影響だって気付いていないかもしれない。

 西山寺男子の最寄り駅に地下鉄は先に到着して、一穂が「帰ったら連絡しろよ」と告げて降りていく。この時間帯は会社に行くスーツ姿の人が多くて、一穂と同じ西山寺男子の制服姿の学生はいない。

 銀嶺鏡学園の生徒だって、いない。こんな朝早くには、誰も。

 地下鉄は、地上のことなど知らずに地面の中を走っていく。今地面の上で何があろうとも分からないまま、奏羽は地下鉄に運ばれていく。


『次は、宮杜城前、宮杜城前。銀嶺鏡学園中学校、銀嶺鏡学園高等学校、銀嶺鏡学園大学は次でお降りください』


 聞き慣れたアナウンスに、顔を上げた。銀嶺鏡学園の最寄り駅までは、あとひとつ。地下鉄の一駅なんて、二分か三分か、たったそれだけの時間だ。それこそ、イーゴの歌一曲よりも短いじかんかもしれない。

 取り残された冬の鳥――ふと、そんな言葉が浮かぶ。スマートフォンを忘れたのは失敗だったなと、ここにきてようやく奏羽は悔いることになった。

 宮杜城前の駅に到着して、地下鉄を出る。地上へと向かう階段を一段一段踏みしめて、けれど気は重くなるばかりだった。重力に惹かれてそのまま真っ逆さまに落ちた方が、いっそのこと気が楽になるかもしれない。

 けれど、改札も自然と抜けてしまった。この三年と少しの間で体に染み付いた動きというのは厄介なもので、どれだけ足取りが重くともいつも通りに足は銀嶺鏡学園へと向かう。

 表門は、まだ開いていなかった。時刻は午前六時四十五分。学校の先生たちも、まだここへは来ていない。本当にこの時間に『薔薇園の淑女』がいるのかどうか。けれど姉は、この時間を指定したのだ。

 裏門に回っても、開いているということはない。ため息をついて、奏羽は高く背負っていたリュックサックを投げ飛ばした。狙い通りにフェンスを越えたリュックサックが、どさりと学園の敷地内へと落ちる。

 追いかけるようにして、奏羽もフェンスをよじ登った。おおよそすべきではない行為だが、他に方法が思い浮かばない。


 教室棟。特別教室棟。礼拝堂。銀嶺鏡学園中学校と高等学校の敷地には、いくつもの建物がある。礼拝堂を中心にして並んだ建物が、女生徒たちの学び舎だった。そして、毎日ランチボックスを売っている食堂のすぐ近く――ガラス張りのはずなのに向こう側が歪んでよく分からない、けれどとりどりの花が咲いていることだけは分かる薔薇温室がある。

 ここに、立ち入ろうとしたことはない。本当は立ち入り禁止で、生徒は勝手に入ってはいけない場所だ。いつもはぴったりと閉ざされている薔薇温室のガラス戸が、今日は奏羽を迎え入れるかのようにうっすらと隙間を開けていた。


 きい、と、小さく音がする。一歩踏み入れた奏羽を待ち構えていたのは、色の洪水。

 薔薇だ。

 赤、黄色、ピンク、白、橙、緑。一色だけが色濃いものもあれば、グラデーションになっているものもある。花びらの形も様々で、けれどいずれもそれは薔薇だった。

 むせかえるような薔薇の香りの中、ひたすらに進む。それほど広くない薔薇温室の中、ふと薔薇が途切れて白いテーブルが奏羽を迎えた。


「いらっしゃい、可愛らしい王子様」


 レースのついた、黒い帽子。黒い手袋に、黒い服。巻いた髪の色が金であることは、帽子の下にあってもよく見えた。ただその顔が見えるわけではなく、赤く色付いた唇がゆるりと弧を描いていることしか分からない。


「お座りなさいな、遠慮せずに」


 テーブルの上、皿が一枚。その上には、伏せられた一枚のカード。

 とりどりの薔薇の花が、奏羽を見ていた。『薔薇園の淑女』の声はとろりと甘く、むせかえる薔薇の香りにも似ている。

 椅子を引いた瞬間、がたんと大きな音がした。それでも奏羽は何事もなかったかのような顔をして、すっと淀みない動作で腰かける。


「とんでもないことをしてくれたのね。あの方の罪を暴くだなんて」


 イーゴの炎上。とある歯科医の日記帳。そこに書かれた内容は、銀嶺鏡を支援している県議会議員の角柳の罪も問うものだった。

 さて、『薔薇園の淑女』は何者か。今こうして奏羽の目の前に姿を見せている彼女は、何を咎めて何を求めているものか。


「……いかなる罪も、罪である。そう私は、恩師に教えられました」


 いつも通りに『僕』とは、言えない。それは礼を失する行為だ。


「では、貴女のしたことも罪かしら?」

「いたずらに誰かの過去を暴くことを罪と言うのであれば、そうなのでしょう」


 もっともそれは、奏羽のしたことではないけれど。イーゴのアカウントを炎上させたのは一穂であって、奏羽ではない。

 けれど、そんなものは言い訳だ。イーゴに奏羽が関わっているのは事実であり、一穂の投稿したものを削除することだってできたのに、それをせずに放置したのもまた事実。


「貴女、報道部でしょう?」

「そうですが」


 彼女の笑みは、美しかった。鏡の前で練習をして、ようやく笑った奏羽の不格好な笑みとは違う。蠱惑的な笑みを浮かべる赤い唇に、視線が吸い込まれていく。


「取引をしましょうか」

「はい?」

「貴女のしたことを不問にする代わりに、調べていただきたいことがあるの」


 彼女は何を言い出すのだろう。

 そもそも、彼女にどのような権限があるのだろう。

 問いたいことはいくらでもあるのに、奏羽の喉はからからに干からびてしまったかのようで、何一つとして絞り出すこともできなかった。


「極上の謎を解いて、わたくしに食べさせていただける? でもそのためには、まず貴女が謎を食べてくれなくちゃ」


 テーブルの上に黒い手袋に覆われた肘をついて、指を組んで、『薔薇園の淑女』はそこに顎をのせるようにして、ことりを首を傾げる。真っ白い肌、真っ赤な唇――むせかえる薔薇の甘い香りと、とろりとした蜜の声。


「どうぞ、その皿の上のものをお取りになって」


 奏羽の目の前に、皿がある。操られるように、そのカードを引っくり返した。


「貴女にこの謎、解けるかしら?」


 真っ白いカードの上、並んだ銀の文字。奏羽を試すかのように輝く文字は――『銀峰鏡学園で頻発する盗難事件の犯人は■■■■』。この告発は、冤罪です。本当の犯人はだぁれ?


「さあ――Buon appetito召し上がれ!」

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