和を以て貴しとなす-承

「コーポ和」の現地調査から二日後。柿本さんから、いかにも面倒くさそうな、気の抜けた着信音が鳴りました。平日の午後、ちょうど昼食を終えてコーヒーを淹れたところでした。


「もしもし、柿本さん。何か分かりましたか?」 『…んー、まあ、いくつか。期待してたような、オカルトな事実は出てこなかったけどね』


電話の向こうで、柿本さんは大きくあくびをしました。スピーカー越しに、ゲームのコントローラーを置くような「カチャ」という音が聞こえた気がします。


『まず、例のアパート「コーポ和」。過去の登記簿やら何やら全部洗ってみたけど、いわゆる「事故物件」情報、つまり過去に室内で死亡者が出たっていう記録は、一切なかったよ』 「孤独死とかも、ですか? 管理人はあんなに安否確認にこだわっているのに」


私は、あの能面のような管理人の顔を思い出していました。「親切心ですよ」と、一切の感情を排した声で言った、あの老人です。


『うん。少なくとも、警察や消防が介入するような事態にはなってない。紀淡くんが言うように、管理人の「親切心」が空回りしてるだけ、って可能性が濃厚になってきたね。あるいは、孤独死を『未然に防ぐ』ことに、異常なまでの執念を燃やしてるか』


正直、少し拍子抜けしました。あれだけの異常な規則、そして清潔すぎる外観、湿った裏庭。何か血なまぐさい事件でも隠されているのではないか、と心のどこかで期待していたのかもしれません。私のブロガーとしての「勘」も、今回は空振りだったのでしょうか。


『ただねえ』 柿本さんは、含みを持たせた言い方をしました。 『清水さんの言っていた「他の住人がよそよそしい」って話。あれは、あながち彼女の思い込みでもないかもしれない』 「どういうことです?」 『入居者の情報を、ちょっと(合法とは言えない手段で)覗かせてもらったんだけどさ。このアパート、ここ五年くらい、妙な傾向があるんだよ』 「妙な傾向?」 『うん。清水さんがいた102号室とか、他の部屋は、割と普通に入居者が定着してる。二年、四年と住み続けている人が多い。まあ、あの規則に耐えられる人たち、ってことなんだろうけど。むしろ、一度住んだら出ていかない、とすら言える』 「……」 『ただ、一部屋だけ。一部屋だけ、異常なほど頻繁に入居者が入れ替わってる部屋がある』


ゴクリ、と喉が鳴りました。私の淹れたてのコーヒーが、手元で冷えていくのを感じます。


「それって…」 『「204号室」。そう、清水さんの部屋の真上だね。この部屋だけ、ここ五年で、実に八回も入居者が変わってる。みんな半年も持たずに引っ越してるんだ』


二年契約が基本の賃貸アパートで、半年持たずに八回。違約金だって馬鹿にならないはずです。それだけの出費をしてでも、一刻も早く逃げ出さなければならない「何か」が、その部屋にはある。


「204号室…。やはり『4』がつく部屋だから、縁起が悪いとか…」 『それなら、同じ二階の201号室から203号室だって、多少は影響があるはずだ。一階は103号室の次は管理人室で104号室はありません。ですが二階には204号室がある。角部屋です。他のアパートでも『4』がつく部屋全体の傾向として現れるなら分かる。でも、違う。この「コーポ和」の「204号室」だけが、突出してる』


柿本さんは、おそらくPCのキーボードを叩きながら続けています。カタカタ、という乾いた音が聞こえます。


『この部屋にだけ、何かがある。例えば、上の階(二階建てなので上はない)や隣の部屋(203号室)の騒音がひどいとか、日当たりが極端に悪いとか…。でも、清水さんからもらった間取り図を見る限り、他の部屋と条件は変わらないんだよね。むしろ、角部屋だから窓が二面にあって、条件は良い方かもしれない』


「204号室の住人だけが、何かを知ってしまう…とか?」 『例えば、幽霊が出るとか? 紀淡くん好みの展開だねえ。でもね、だとしたら、今の時代、絶対にネットに書き込みがあるはずだ。「コーポ和 204号室 ヤバい」とか「幽霊出るなう」とか、そういうのが。でも、僕が調べた限り、「コーポ和」の口コミは、例の規則の厳しさ(『刑務所』『管理人が監視』とか)以外、何も書かれてないんだ。不思議なくらいにね』 「…確かに。物理的な欠陥でもない。心霊的な現象でもない。では、なぜ204号室の住人だけが、すぐに逃げ出してしまうのか」


私は、思考を巡らせました。彼らは「何か」を知る。しかし、それを外部に漏らすことができない。あるいは、漏らさない。なぜ?


『それでね、もう一つ。気になったことがあるんだ』 柿本さんの声が、さらに一段低くなりました。


『その204号室の入れ替わりが激しくなり始めた時期。それが、きっかり「五年前」からなんだ』 「五年前…」 『そう。テナントのデータを時系列でソートしてみたんだよ。そしたら、五年前までは、204号室も普通だった。一人の学生が四年間住み続けて、ちゃんと卒業で退去してる。でも、その学生が退去して、次の入居者が入ったところから、この「半年未満の退去リレー」が始まってる』 「……」 『だから僕は、その「五年前」に、アパート周辺で何が起きたのかを調べてみた』 「何か、あったんですか」 『ああ。あったよ。「コーポ和」の近所で、ある事件が起きてる』


私は息を飲みました。


「事件、ですか」 『うん。いわゆる「通り魔事件」だ。夜道で、帰宅途中の女性が、いきなり背後から男に刃物で刺された。幸い、被害者の女性は深手を負ったけど、一命は取り留めた。ただ、犯人はそのまま逃走して、今も捕まっていない。いわゆる未解決事件だね』 「……!」 『事件が起きたのは、「コーポ和」から二百メートルほど離れた路上。夜の十時過ぎ。そして、犯人が逃走した方向が…「コーポ和」のある方角だった、と当時のローカルニュースの記録に残ってる』


通り魔事件。 未解決。 犯人は、アパートの方角へ。


最悪の想像が頭をよぎります。


「柿本さん。それって、まさか…犯人が、アパートの関係者だった、とか…」 『普通はそう考えるよね。警察も当然、周辺のアパートや住宅をしらみつぶしに捜査したはずだ。「コーポ和」も例外じゃない。当時の報道を漁ってみたけど、警察が住人全員から事情聴取を行った、とある。アパートの敷地内も、一通り調べただろうね』 「でも、犯人は見つからなかった」 『そう。つまり、当時の住人の中に犯人はいなかったか、あるいは…よほど巧妙に隠蔽したか、だ』


私は、あの潔癖すぎるほど管理されたアパートを思い出していました。 異常なまでの規則。 部外者を排除しようとする「来客届」。 何かを隠すかのような「裏庭への立ち入り禁止」。


『でもね、紀淡くん』と柿本さんは続けます。 『もし犯人が住人だったとして、あるいはアパート内に潜んでいたとして、それがなぜ「204号室」の入居者が頻繁に入れ替わることと繋がるんだと思う?』 「それは…204号室の住人が、犯人の正体を知ってしまった、とか…」 『だとしたら、脅されて引っ越す、なら分かる。でも、五年間で八回も? 新しく入ってきた人が、毎回毎回、犯人の秘密を知るなんてこと、あるかな』 「…確かに。不自然ですね」 『それに、その通り魔事件の被害者は一命を取り留めてる。つまり、殺人事件じゃない。もちろん凶悪犯罪だけど、アパート全体で、あの異常な規則を作ってまで隠蔽しなきゃいけないような「何か」としては、ちょっと弱い気がしないでもない』


柿本さんの言う通りです。 もし犯人が住人だったとしても、それは「その一人の住人」の問題であって、アパート全体が、まるで共犯者のように結束して何かを隠す理由にはなりません。


「…じゃあ、あの通り魔事件は、今回の件とは無関係なんでしょうか」 『いや、そうとも言い切れない。時期が一致しすぎているからね。「五年前」に「何か」があった。それは間違いない。その「何か」が、通り魔事件なのか、それとも、通り魔事件とは別の「何か」なのか…』


柿本さんは、うーん、と唸りました。


『あるいは、こう考えるのはどうかな。204号室の住人は、「犯人」を見た、あるいは「犯人の正体」を知ったんじゃない。…彼らは、「事件そのもの」あるいは「犯行に使われた凶器」が隠されている場所、それを見てしまったんじゃないか?』 「え…?」 『例えば、だけど。犯人はアパートの住人じゃなかった。でも、逃走中に、凶器をどこかに捨てる必要があった。追われていた犯人が、とっさに投げ込んだ場所。それが…「コーポ和」の敷地内だったとしたら?』 「あ…!」 『そして、その「凶器」が隠されている場所が、204号室の窓からだけ、ちょうどよく見えてしまうとしたら?』


私は、現地調査で見た、あのアパートの「裏庭」を思い出しました。 フェンスで囲まれた、何もない土の空間。 立ち入りを禁じられた場所。


「204号室は、角部屋でしたよね。もしかして、その裏庭に面しているんじゃ…」


私は急いで、清水さんからもらっていた「コーポ和」の簡易な間取り図(不動産屋が使う、あの簡単なやつです)を確認しました。清水さんのいた102号室はアパートの真ん中あたり。そして、204号室は…


「…ビンゴです、柿本さん。204号室、ちょうどアパートの裏手、あの『裏庭』に面した角部屋です」 『…なるほどね。だとしたら、話は少し見えてきた』


柿本さんの声のトーンが変わりました。眠たげな雰囲気は消え、いつもの冴えた推理モードに入っています。


『犯人は、凶器を裏庭に投げ込んだ。そして、それから五年。204号室に入居した人々は、偶然、窓から裏庭を見てしまう。そこには、土に半ば埋まったナイフか何かがある…。あるいは、犯人が定期的に、その「隠し場所」を確認しに来る姿を、目撃してしまうとか』 「それで、怖くなって引っ越していく…」 『うん。でも、それなら警察に通報すればいい話だよね。なんで五年間で八人も、誰も通報しないで、ただ黙って引っ越していくんだ?』 「それは…」


私は、あの管理人の顔を思い出しました。 「規則を守れんような人は、ここには住んでもらわん」 あの、異物を排除するような冷たい目。


「もしかしたら、住人たちは、管理人に相談したのかもしれません。『裏庭に何か落ちてる』って。でも、管理人はそれを『警察沙汰にしたくない』と揉み消した…とか」 『ふうん。なぜ? アパートの評判が下がるから? それだけのために、犯罪の証拠を隠蔽するかなあ』 「…分かりません。でも、あのアパート全体に漂う『よそよそしさ』と『閉鎖性』は、そういう『内々で処理する』という空気を生み出しても不思議ではない気がします」


『なるほどね。つまり、204号室の住人は、「ヤバいもの」を見つけてしまう。↓ 管理人に相談する。↓ 管理人(あるいは他の住人たち)から、『見なかったことにしろ』『アパートの平穏を乱すな』と暗に(あるいは直接的に)圧力をかけられる。↓ 居心地が悪くなって引っ越す。…このループが、五年間で八回繰り返された、と』


それは、あり得そうなシナリオでした。 「和」を重んじるアパート。その「和」とは、「面倒事を起こさないこと」。 通り魔事件の証拠を見つけた、などという面倒事は、彼らの「平穏」を乱す最たるものです。


『だとしたら、あの異常な規則にも説明がつくかもしれない』と柿本さん。


『「裏庭への立ち入り禁止」は、もちろん、そこに「何か」があるから。』 『「来客届」や「ゴミのチェック」は、警察関係者や、あるいは事件を嗅ぎ回るジャーナリストみたいな「外部の目」を極度に警戒しているから。』 『「一斉換気」は…ちょっとこじつけかもしれないけど、住人同士の「連帯感」というか、「お互いに監視しあっているぞ」という意識を植え付けるための儀式。』


「…残る謎は、あの『特殊アルカリ性洗剤』ですね」 『ああ、それね』


柿本さんは、待ってました、とばかりに言いました。


『それも調べがついたよ。紀淡くんの言った品番「XXX」。あれね、検索しても、一般の小売では全然ヒットしないんだ。業務用の、特殊なルートでしか手に入らない代物みたいだ』 「業務用…」 『うん。で、その用途なんだけどさ。これが、ちょっとキナ臭いんだよ』


柿本さんは、わざとらしく間を置きました。


『「特殊アルカリ性洗剤」。その謳い文句はね…「動植物由来の頑固なタンパク質汚れに、強力な浸透・分解効果を発揮」…だってさ』 「タンパク質汚れ…?」


私は、その言葉の意味を即座には理解できませんでした。


『まあ、平たく言えば、だよ。血液とか、体液とか。そういう「シミ」を落とすのに特化した洗剤、ってこと』

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