第38話:秒針のプロポーズ
宴の喧騒が、遠い波音のように聞こえる。
俺とエリアナは、誰もいない夜の工房にいた。
暖房の火は落ちていたが、不思議と寒さは感じなかった。
窓の外では、音もなく雪が降り積もっている。
しんしんと降る雪が、世界から余計な音を吸い取り、ここには静寂だけが満ちていた。
俺の心臓は、壊れかけた脱進機みたいに、不規則で激しい音を立てている。
嵐の海で死にかけた時よりも、よっぽど緊張していた。
王城で陛下の前に立った時よりも、喉が乾いていた。
「……静かね」
エリアナが窓辺に立ち、雪を見上げながら呟いた。
月明かりと雪明かりが、彼女の横顔を白く照らし出している。
その美しさに、俺は息を呑んだ。
出会った頃の、泥にまみれて床を磨いていた彼女も綺麗だったが、今の彼女は、内側から発光するような強さと優しさを纏っている。
「……ああ」
俺は短く答え、ポケットの中にある「それ」を握りしめた。
手汗で湿っていないか心配になる。
何度も磨き上げ、何度も調整した。
技術的な完璧さは保証できる。だが、これが彼女の心に届くかどうかは、計算式じゃ弾き出せねえ。
「それで、アルド。渡したいものって?」
彼女が振り返り、小首を傾げた。
その無防備な仕草が、俺の覚悟を揺さぶる。
逃げ出したいような、今すぐ抱きしめたいような、相反する衝動。
落ち着け。深呼吸だ。
俺は職人だ。手順通りにやればいい。
「……こいつだ」
俺はポケットから、小さな布包みを取り出した。
エリアナの前に歩み寄り、その包みを開く。
現れたのは、一つの懐中時計だった。
だが、俺たちが販売している『ベルンシュタイン・ウォッチ』とは違う。
二回りほど小さく、女性の手のひらにすっぽりと収まるサイズ。
ケースは『ベルン・シルバー』だが、さらに配合を変え、より白く、より温かみのある輝きを放つように調整してある。
「これ……新しい時計?」
「ああ。……あんた専用だ」
俺は彼女の手に、時計を乗せた。
「コンペの準備の合間に、こっそり作ってたんだ。……試作品の余り部材でな」
嘘だ。
余りなんかじゃない。このためだけに、最高純度の鉱石を選別し、誰にも見られないように深夜に削り出した特注品だ。
だが、そう言わないと照れくさくて渡せなかった。
「綺麗……。とっても小さいのに、ずっしりしてる」
エリアナが両手で包み込むように持つ。
彼女は文字盤を覗き込んだ。
シンプルな白の文字盤。数字は繊細な書体で描かれ、針は深い藍色(彼女の瞳の色と同じ色に焼いた)だ。
そして、何よりの特徴は「秒針」にあった。
通常の時計の秒針は、カチッ、カチッ、と一秒ごとに動くか、あるいはチチチチ……と細かく動くかのどちらかだ。
だが、この時計の秒針は違う。
スゥーーー……。
まるで水の上を滑るように、一切の淀みなく、滑らかに文字盤の上を流れている。
『スイープ運針』。
テンプの振動数を極限まで高め、微細な歯車で減速することで実現した、究極の連続運動。
途切れることのない、「永遠」を象徴する動きだ。
「秒針が……流れてる」
「時は止まらねえからな。カクカク動くより、こっちの方があんたには似合うと思ったんだ」
俺はぶっきらぼうに言った。
「中身は『銀の明星』と同じ……いや、それ以上の耐久性を持たせてある。あんたがどんな無茶をしても、たとえ崖から落ちても、こいつは止まらねえ」
「ふふ。私が崖から落ちることなんてあるかしら?」
「あんたは無鉄砲だからな。何があるか分からねえよ」
エリアナが笑う。その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
ここまでは順調だ。
問題は、ここからだ。
「……裏を、見てくれ」
俺の声が、少し裏返ったかもしれない。
エリアナは素直に時計を裏返した。
滑らかに磨き上げられた裏蓋。
そこには、俺が顕微鏡を使い、震える手を押さえながら刻み込んだ文字があった。
彼女の視線が、文字の上をなぞる。
一秒。二秒。三秒。
時が止まったように感じた。
工房の時計の音さえ聞こえない。自分の心臓の音だけが、耳元でガンガンと鳴り響いている。
彼女の肩が、微かに震えた。
「……アルド」
濡れた声で、彼女が俺の名前を呼んだ。
俺は覚悟を決めた。
言葉にしなきゃダメだ。文字だけじゃねえ。俺自身の声で、俺の魂を伝えなきゃならねえ。
俺は一歩、彼女に近づいた。
彼女の瞳を、真っ直ぐに見つめる。
「書いてある通りだ」
俺は言った。
「俺の残りの時間は、すべて君に捧げる」
エリアナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「俺は不器用だ。気の利いた言葉も言えねえし、宝石も買ってやれねえ。……頭の中は歯車とバネのことばっかりで、きっとこれからも迷惑をかけると思う」
言葉が溢れてくる。
飾り気のない、俺のそのまんまの言葉が。
「でも、俺の時計は正確だ。嘘はつかねえ」
俺は彼女の手を取り、時計ごと強く握りしめた。
「俺の人生という時間を、あんたの隣で刻ませてほしい。……あんたが笑う時は一緒に笑い、あんたが泣く時は俺が涙を拭う。最期の瞬間、秒針が止まるその時まで……俺は、あんただけの時計師でいたいんだ」
言い切った。
全部、吐き出した。
もう、俺の中に隠しているものは何もない。
エリアナは泣いていた。
ボロボロと涙を流し、でも、顔はくしゃくしゃに笑っていた。
「……ズルいわ」
彼女が鼻をすすりながら言った。
「こんな……こんな素敵なプロポーズ、断れるわけがないじゃない」
「……いいのか?」
「当たり前でしょ! バカ!」
彼女は俺に飛びついてきた。
俺は彼女を受け止め、強く、強く抱きしめた。
彼女の華奢な体温。柔らかい髪の香り。
この腕の中にあるものが、俺にとっての「世界のすべて」だ。
「……嬉しい」
俺の胸に顔を埋めたまま、彼女が呟く。
「私もよ、アルド。私の時間も、全部あなたにあげる。……半分こ、じゃ足りないもの」
「ああ。全部もらう。そして俺の全部をやる」
俺たちは、雪の降る静寂の中で、互いの鼓動を確かめ合った。
言葉はいらなかった。
ただ、寄り添っているだけで、二人の時間が溶け合って、一つの太い流れになっていくのを感じた。
しばらくして、俺たちは体を離した。
エリアナの目は赤くなっていたが、その輝きは星空よりも眩しかった。
「……つけてみていい?」
「ああ」
彼女は懐中時計に付いているチェーンを首にかけ、時計を胸元に収めた。
ペンダントウォッチ。
心臓のすぐ近くで、俺の作った時計が時を刻む。
「音がするわ」
彼女が時計を手に取り、耳に当てる。
「あなたの心臓の音みたい」
「……そいつは、あんたが近くにいると少し速くなる仕様だ」
「ふふ。不良品ね」
「返品は受け付けねえぞ」
俺たちは笑い合った。
幸せだ、と思った。
師匠。あんたが言ってた「宇宙」ってのは、遠い空の向こうにあるんじゃねえ。
ここにあるんだ。
愛する女の笑顔と、二人の間に流れるこの温かい時間こそが、俺がたどり着いた宇宙の真理だ。
俺はエリアナの顎に手を添え、顔を上げさせた。
彼女がゆっくりと瞳を閉じる。
俺は、誓いのキスをした。
触れるだけの、優しいキス。
それは契約の印であり、これからの長い人生の、始まりの合図だった。
窓の外では、雪が降り止もうとしていた。
雲の切れ間から、月が顔を出す。
雪原が青白く輝き、世界を祝福しているようだ。
俺たちの新しい時間が、今、ここから始まった。
秒針は滑らかに、永遠へと向かって進み続けている。
チク、タク、ではなく。
スゥーーー……と。
途切れることのない愛のように。
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