第32話:港の祈り
三日後の正午。
それが、予定されていた帰港時刻だった。
王都の港は、出航の日と同じく、あるいはそれ以上の群衆で埋め尽くされていた。
彼らは英雄の凱旋を一目見ようと集まり、屋台が出て、賭け屋がオッズを叫び、祭りのような喧騒に包まれていた。
王立楽団がファンファーレの準備をし、貴賓席には着飾った貴族たちがワイン片手に談笑している。
けれど。
その「正午」を告げる時計台の鐘が鳴り終わっても、水平線には何一つ現れなかった。
一時間。
二時間。
予定時刻を過ぎても、海は沈黙を守ったままだ。
当初は「天候による遅れだろう」と楽観的だった空気も、次第に重く、不穏なものへと変わっていく。
空はどんよりと曇り、冷たい海風が吹き荒れている。
カモメの鳴き声だけが、やけに耳につく。
「……遅いわね」
私は桟橋の最前列に立ち、手すりを握りしめていた。
指の関節が白くなるほど強く。
隣に立つハンスが、心配そうに私に毛布を掛けてくれた。
「お嬢様……お座りになってお待ちください。お身体が冷えてしまいます」
「いいえ。ここで待つわ」
私は頑として動かなかった。
座ってしまったら、不安に押しつぶされそうだったからだ。
魔の海域。嵐。座礁。
悪い想像ばかりが頭をよぎる。
アルドは「必ず帰る」と言った。彼の言葉を疑っているわけではない。けれど、自然の猛威は、時に人の約束など容易く踏みにじる。
「おや、まだ突っ立っているのか? 健気なことだ」
背後から、嘲笑うような声が掛かった。
ギルバート様だ。
彼は厚手の毛皮のコートを着込み、取り巻きたちと共にワイングラスを傾けている。その顔には、焦りの色は微塵もない。
「ギルバート様……」
「安心していいよ。我が『グラン・ロワ』は不沈艦だ。多少の嵐で遅れることはあっても、沈むことなどあり得ない」
彼は海の方を顎でしゃくった。
「だが、君たちのボロ船はどうかな? あんな木っ端船、波を被っただけでバラバラになってもおかしくない」
「……『セイレーン』は、ベテランの船乗りたちが操る強靭な船です」
「ハッ! 強がりを。現実を見たまえ」
ギルバート様は周囲の貴族たちに向かって、わざとらしく大きな声で言った。
「皆さん、お聞きになりましたか? 北の田舎娘は、まだ夢を見ているようですぞ! あの鉄クズ時計と一緒に、海の底で永遠の眠りについているとも知らずに!」
ドッ、と下品な笑い声が起こる。
「違いない。重たい鉄の塊なんか積んでるから沈むんだ」
「最初から勝負になっていなかったのさ」
「可哀想に。婚約者に捨てられた次は、愛人に死なれたか」
心無い言葉が、
悔しさで唇を噛み締める。
言い返したい。けれど、船が戻らないという現実が、私の言葉を封じている。
「……おやめください!」
たまらずハンスが声を上げた。
「お嬢様への侮辱は許しませんぞ! マイスター・アルドは……あの方は、必ず戻ってこられます!」
「黙れ、老いぼれ」
ギルバート様の護衛が、ハンスを乱暴に突き飛ばした。
ハンスがよろめき、尻餅をつく。
「ハンス!」
私は駆け寄り、彼を助け起こした。
ギルバート様を睨みつける。
「……恥を知りなさい、ギルバート様。老人に暴力を振るうなんて」
「ふん。飼い犬の躾がなっていないからだ」
彼は冷酷な目で私を見下ろした。
「いいか、エリアナ。これが『格』の違いだ。金も、力も、運も持たない人間は、こうやって淘汰されていくんだよ。……諦めて、さっさと領地に帰って喪に服すんだな」
彼らは高笑いを残して、暖かい貴賓席のテントへと戻っていった。
残されたのは、冷たい風と、絶望的な静寂だけ。
群衆も、次第に減り始めていた。
「もう戻らないんじゃないか」「遭難したんだ」と噂し合い、興味を失った人々が去っていく。
太陽が傾き、空が茜色に染まり始める。
それでも、水平線には影一つ見えない。
「……お嬢様」
ハンスが、悲痛な声で私を呼んだ。
「もう……日が暮れます」
その言葉に含まれる意味を、私は理解したくなかった。
夜になれば、捜索は不可能になる。
今日中に戻らなければ、遭難は確定的となる。
私の手は、ポケットの中にある懐中時計『No.001』を握りしめていた。
手のひらに伝わる、トクトクという鼓動。
アルドが私にくれた、最初の奇跡。
(……生きている)
私は心の中で繰り返した。
この時計が動いている限り、彼も生きている。
根拠なんてない。ただの迷信かもしれない。
でも、私には分かる。
彼が「俺の分身だ」と言って渡してくれた時計は、彼と繋がっている。
「……帰ってくるわ」
私は呟いた。
「え?」
「彼は帰ってくる。絶対に」
私は海を睨みつけた。
涙など見せない。
ここで泣いたら、本当に彼が死んだことを認めてしまうことになるから。
「アルドは約束を守る男よ。……重力さえねじ伏せた人が、たかが嵐ごときに負けるはずがないわ」
思い出す。
工房で、彼が鬼気迫る形相で時計と向き合っていた姿を。
雪の日、冷え切った私の手を温めてくれた、あの熱い掌を。
出発の朝、「必ずあんたの元へ帰る」と誓った、あの真っ直ぐな瞳を。
あんなに熱い魂を持った人が、冷たい海の底で終わるなんて、そんな結末は私が認めない。
物語の主人公は、最後には必ず帰還するのよ。
「待ちましょう、ハンス。たとえ最後の一人になっても、私はここを動かない」
私の決意に、ハンスは涙を拭い、深く頷いた。
「はい……! お供いたします。あの方が、世界一の時計を持って帰ってこられるのを!」
私たちは並んで海を見つめ続けた。
風はさらに冷たくなり、夕闇が海を黒く塗りつぶしていく。
貴賓席の明かりも消え、ギルバート様たちも帰ってしまったようだ。
残っているのは、私たちと、コンペの運営係員数名、そして心配そうに見守る数人の物好きな市民だけ。
世界から見放されたような孤独。
けれど、私の心の中にある灯火は消えなかった。
ポケットの中の鼓動が、私を励まし続けている。
チチチチ……。
『信じろ』と。
『俺たちは止まらない』と。
その時だった。
「……おい、あれを見ろ!」
桟橋に残っていた係員の一人が、声を上げて海を指差した。
「光だ! 沖の方に、光が見えるぞ!」
私は弾かれたように顔を上げた。
真っ暗な水平線の彼方。
波と闇の境目に、微かな、本当に微かな光の粒が見えた。
幻覚かしら?
いいえ、違う。
光は揺れながら、しかし確実にこちらへと近づいてくる。
一つではない。二つ。
船の灯り(マスト灯)だ。
「船だ……! 船が帰ってきたぞぉぉぉッ!!」
係員の絶叫が、静まり返った港に響き渡った。
私は手すりから身を乗り出した。
心臓が破裂しそうだ。
どっち?
『グラン・ロワ』か? それとも『セイレーン』か?
あるいは、両方か?
濃い夜霧の向こうから、巨大な影がゆっくりと浮かび上がってくる。
まだ、船体は見えない。
誰が乗っているのかも、分からない。
けれど、私は祈るように手を組んだ。
お願い。
無事でいて。
光の粒が、少しずつ大きくなっていく。
運命の瞬間が、波音と共に近づいていた。
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