第14話:行商と評判
ベルンシュタイン領から峠を二つ越えた先に、北部最大の交易都市アイゼンブルクがある。
ここは大陸横断鉄道の北の玄関口であり、常に蒸気機関車の煤煙と、商人たちの熱気に包まれている街だ。
その街の大通りにある商工会議所の一角で、一人の行商人が声を張り上げていた。
彼の名はクラウス。ベルンシュタイン領とこの街を行き来する、古参の行商人だ。
「さあさあ、旦那方! 騙されたと思って見ていってくださいよ! これが北の山奥から届いた、最新鋭の時計ですぜ!」
クラウスが木箱から取り出したのは、黄金色に輝く洋銀の懐中時計だった。
しかし、集まった仲買人や貴族たちの反応は冷ややかだった。
「なんだ、その色は? 金にしては色が薄いし、銀にしては黄色いな」
「文字盤に宝石の一つも埋まってないのか? 地味な時計だなあ」
「どこのブランドだ? 『ベルンシュタイン&ライン』? 聞いたこともないな」
嘲笑混じりの声が飛ぶ。
無理もない。この時代の時計といえば、王都の流行である「宝飾時計」が基準だ。職人が何ヶ月もかけて彫金し、宝石を散りばめた工芸品こそが至高とされていた。
それに比べれば、この時計はあまりにも無骨で、飾り気がなさすぎた。
「おいおい、クラウス。お前も焼きが回ったか? こんな田舎の鍛冶屋が作ったような鉄クズを仕入れてくるなんて」
馴染みの宝石商が、あからさまに馬鹿にしたように肩を竦める。
だが、クラウスは不敵に笑った。彼は知っていたのだ。この時計の真価を。
「へへっ。旦那、こいつを『鉄クズ』呼ばわりするのは、ちと早計ですぜ。……そこの鉄道会社の制服を着た旦那、あんたにお勧めしたい」
クラウスが指名したのは、人垣の後ろで退屈そうにしていた初老の男だった。
男は鉄道会社の運行管理部長で、常に眉間に皺を寄せていることで有名だった。
「私か? 私は忙しいんだ。おもちゃを見てる暇はない」
「おもちゃじゃありません。あんた、今の懐中時計に不満があるんじゃないですか? 機関車の振動ですぐに時間が狂うとか、止まるとか」
図星だったのか、部長の足が止まった。
当時の鉄道時計は、悩みの種だった。蒸気機関車の激しい振動は、繊細な時計の天敵であり、到着時刻のズレは事故に直結する大問題だったからだ。
「……確かに、王都製の時計は繊細すぎて困る。だが、こんな無名品が役に立つとは思えんが」
「論より証拠。ちょっと耳を貸してくだせえ」
クラウスは時計のリューズを巻き、部長の耳元に差し出した。
チチチチチチチチ……。
その瞬間、部長の目がカッ! と見開かれた。
「なんだ、この音は……?」
「いい音でしょう? 心臓が強い証拠ですよ」
部長はクラウスの手から時計をひったくるように受け取り、自ら耳に当てた。
そして、信じられないものを見る目で文字盤を凝視した。
「規則正しい……いや、力強い。機関車のピストンのようだ」
「中身が違いますからね。部品を一枚の分厚い板で挟み込んでるんです。少々の衝撃じゃビクともしませんよ」
クラウスは言いながら、わざと自分の持っていた別のサンプル品を、石畳の床に落としてみせた。
ガシャン!
周囲から悲鳴が上がる。普通の時計なら、テンプの軸が折れて即死する高さだ。
クラウスは平然とそれを拾い上げ、部長に見せた。
「ほら、ピンピンしてますよ」
「なっ……!?」
部長は絶句した。
耳を澄ませば、変わらぬリズムで時を刻み続けている。
魔法か? いや、圧倒的な「剛性」だ。
「……いくらだ」
部長の声が震えていた。
「言い値で買う。いや、在庫を全部よこせ! これは全部署の機関士に持たせるべきだ!」
その一言が、空気を変えた。
実用性を重視する鉄道関係者が、ここまで惚れ込む時計。
周囲の商人たちの目の色が変わる。
「おい、俺にも見せろ!」
「その輝き、よく見ると渋くていい色じゃないか」
「『ベルン・シルバー』と言ったか? 傷がつきにくそうだ」
あっという間に、クラウスの周りに人だかりができた。
彼が持ってきた二十個の在庫は、その日のうちに完売した。
そして翌日には、「北の山奥に、とんでもない時計を作る工房があるらしい」という噂が、鉄道網に乗って広がり始めたのだった。
* * *
それから数ヶ月。
『ベルンシュタイン・ウォッチ』の名声は、着実に広まっていた。
主な顧客は、華やかさを求める貴族ではなく、「正確さ」を命とする職業人たちだった。
鉄道員、軍人、医師、そして遠洋航海の船乗りたち。
彼らは口を揃えて言った。
「この時計は裏切らない」と。
どんな悪天候でも、どんな荒れ地でも、この洋銀の時計だけは正確な時を告げてくれる。
その信頼は、やがてブランドへの熱狂的な支持へと変わっていった。
かつて「地味」と笑われたシンプルさは、「視認性が高い」と評価され、洋銀の独特な変色は「使い込むほどに味が出る」と愛された。
そしてその評判は、ついに王都の社交界にも届き始めていた。
王都、アークライト子爵邸。
その豪奢なサロンで、ギルバートは不機嫌そうにグラスを揺らしていた。
「……最近、妙な噂を耳にするな」
彼が吐き捨てるように言うと、対面に座っていた取り巻きの男――とあるギルドの幹部が、揉み手をして頷いた。
「ええ、ええ。北の方で、奇妙な色の時計が流行っているとか」
「『ベルンシュタイン』……あの女の家の名だ。不愉快極まりない」
ギルバートは舌打ちをした。
かつて捨てた元婚約者、エリアナ。
泣いて詫びを入れてくるか、野垂れ死んでいるかと思っていたが、風の噂では領地で商売を始めたらしい。
「まあ、所詮は田舎の粗悪品でしょう。なんでも、真鍮の色止めもできないような黄色い金属を使っているとか」
「ふん、貧乏臭い。あの女らしいな」
ギルバートは嘲笑した。
彼の左腕には、今日も王都の最高級ブランド『ロワイヤル』の新作時計が巻かれている。文字盤にはダイヤモンドで白鳥の絵が描かれ、時間はろくに読み取れないが、値段だけは家が一軒建つほどだ。
「だが……鉄道省の連中が、その田舎時計を正式採用しようか検討しているという話も聞くぞ」
「まさか! あんな鉄の塊をですか? 鉄道省もどうかしていますな。やはり時計とは、貴族の品格を表すアクセサリーでなければ」
取り巻きの男は追従笑いを浮かべたが、ギルバートの苛立ちは収まらなかった。
何かが、引っかかる。
「……おい」
「はい、なんでしょう」
「その時計、一つ手に入れろ。どんなゴミを作っているのか、この目で見て笑ってやる」
「承知しました。すぐに手配させましょう」
ギルバートはグラスの中のワインを一気に煽った。
ただの田舎の工芸品だ。
王都の洗練された文化の前では、あんなものは
そう自分に言い聞かせるが、胸の奥で黒い予感が渦巻いていた。
彼がまだ知らない事実がある。
今、彼が馬鹿にしているその「田舎時計」が、既に王都の「時」の基準(スタンダード)を塗り替えようとしていることを。
そして、王家が主催する次期コンペティションの招待状が、北の辺境へ向けて発送されようとしていることを。
時代の歯車は、ギルバートの知らないところで、大きく、確実に回り始めていた。
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