第10話:冬の試練
北部の冬は、美しいだけではない。
それは時に、牙を剥いて人間に襲いかかる白い猛獣となる。
工房の稼働が軌道に乗り始め、弟子たちの技術も向上してきた矢先のことだった。
ここ数十年で最大級と言われる猛吹雪が、領地を襲ったのだ。
窓の外は、昼間だというのに薄暗い。
ゴオオオオオッ……という地鳴りのような風の音が、一日中絶え間なく響いている。
視界は真っ白で、数メートル先にあるはずの井戸さえ見えない。
「……お嬢様。峠の道が、完全に塞がれました」
雪まみれになって偵察から戻ってきたハンスが、絶望的な報告を告げた。
彼の睫毛や髭には氷柱が下がり、顔色は土気色だった。
「
私は血の気が引くのを感じた。
その馬車には、時計作りに不可欠な真鍮や鋼材、そして何より、村人たちのための食料や燃料が積まれていたからだ。
工房の暖炉で使う薪も、備蓄は残りわずかだ。
「……いつ、開通しそうなの?」
「分かりません。雪が止んだとしても、除雪には数日はかかるかと……」
工房の中に、重苦しい空気が漂った。
弟子たちも手を止め、不安そうに顔を見合わせている。
せっかく灯った希望の火が、この白い悪魔によって吹き消されようとしている。
私は努めて冷静な声を出し、ハンスに指示を出した。
「分かったわ。まずは村の備蓄を全て管理下に置いて。食料は配給制にします。薪は節約して、工房と集会所だけに火を入れましょう。各家でバラバラに暖を取るより効率的よ」
「は、はい。承知しました」
「大丈夫よ。春が来ない冬はないわ。みんなで乗り切りましょう」
気丈に振る舞い、弟子たちを励ます。
けれど、私自身の腹の虫が、情けなくもギュルルと鳴った。
朝から何も食べていない。
少しでもみんなに回そうと、自分の食事を抜いていたのだ。
誰にも聞こえていないことを祈りつつ、私はコートの前をきつくかき合わせた。
* * *
その日の深夜。
私は一人、工房に残っていた。
火が消えかけた暖炉の前で、帳簿と睨めっこをしていたのだ。
備蓄の残量と、この吹雪が続いた場合の日数を計算する。どう計算しても、ギリギリだ。もし一週間以上続けば、餓死者が出るかもしれない。
恐怖でペンを持つ手が震える。
寒い。
工房の中も冷え切っている。薪を節約するために火力を落としているせいだ。
吐く息が白い。指先の感覚がなくなり、文字が上手く書けない。
「……しっかりしなさい、エリアナ」
自分を叱咤する。
私が弱気になってどうするの。私がみんなを守らなきゃ。
でも、心細さが胸の奥から冷たい水のように溢れ出してくる。
王都にいた頃の孤独とはまた違う、命の危険を感じる孤独。
誰も助けてくれない。全ての責任が私の双肩にかかっている。
カタン、と音がした。
ビクリとして振り返ると、工房の奥の作業部屋から、アルドが出てきたところだった。
彼もまた、遅くまで残っていたらしい。手にはマグカップを持っている。
「……まだ起きてたのか」
「アルド。あなたこそ」
「設計図の見直しだ。寒くて目が冴えちまってな」
彼は私の向かい側の椅子にドカッっと腰を下ろした。
そして、持っていたマグカップを私に差し出した。
「飲めよ。白湯だが、少しは温まる」
「……ありがとう」
受け取ったマグカップは温かかった。
一口飲むと、熱い液体が喉を通り、凍え切った胃袋に染み渡っていく。ただのお湯なのに、涙が出るほど美味しかった。
「……ひどい顔してるぞ」
アルドが言った。
私は慌てて自分の頬を触った。
「そ、そうかしら。少し疲れているだけよ」
「嘘をつけ。腹減ってるんだろ。今日の夕食、自分の分を子供に回したのを見てたぞ」
「……見ていたの?」
「俺の目は節穴じゃない。0.01ミリの誤差も見逃さねえよ」
彼は呆れたように肩をすくめると、ポケットから包みを取り出した。
干し肉と、硬くなったパンの欠片だ。
「ほら。俺の非常食だ。半分やる」
「い、いいわよ。あなただって体力が……」
「いいから食え。雇い主に倒れられたら、俺が困るんだよ」
強引に押し付けられ、私は渋々それを口にした。
硬くて塩辛い。でも、噛み締めると旨味が広がる。
二人で無言のまま、質素な夜食を分け合った。
暖炉の中で、薪がパチリと爆ぜる音が響く。
「……王都にいた時も、よくこうやって一人で夜を過ごしてた」
ふいに、アルドが口を開いた。
彼は燃える火を見つめながら、ぽつりぽつりと語り出した。
「師匠が死んだ後、あの広い工房に一人きり。仕事もなくて、金もなくて、食うものにも困ってた。寒くて眠れない夜は、師匠の残した時計のネジを巻いて、その音だけを聞いて朝を待った」
「アルド……」
「孤独だったよ。世界中で俺一人だけが取り残された気分だった。『お前の時計なんか誰も求めてない』って、世界中から言われてる気がしてな」
彼の横顔に、暖炉の炎が陰影を作る。
その瞳に宿る深い孤独の色を見て、私は胸が締め付けられた。
「……私も、同じよ」
私も、自分のことを話し始めた。
「王都の夜会で、煌びやかな人々に囲まれている時も、私はいつも一人だった。誰も本当の私を見てくれなかった。『貧乏貴族の娘』『地味でつまらない女』……そんなレッテルを貼られて、誰とも心が通じ合わなかった」
「ああ。あんたの元婚約者の言い草を聞けば分かる」
「だから、領地の寒さなんて怖くないと思ってた。でも……今、怖いの。私の判断ミスで、みんなを死なせてしまうんじゃないかって」
弱音が、こぼれてしまった。
震えが止まらない。
寒さのせいなのか、恐怖のせいなのか、自分でも分からない。
私は自分の両腕を抱きしめ、うつむいた。
その時。
視界に、ゴツゴツとした手が差し出された。
「……貸せ」
「え?」
「手が、氷みたいになってるぞ」
アルドは私の返事を待たず、私の両手を自分の両手で包み込んだ。
熱い。
彼の掌は、驚くほど熱かった。
大きくて、硬くて、タコだらけの職人の手。
その熱が、私の冷え切った指先から、腕を伝って、心臓へと一気に流れ込んでくる。
「っ……」
私は息を呑んだ。
男性にこんなふうに触れられたのは初めてだった。
元婚約者のギルバート様でさえ、ダンスの時に手袋越しに触れる程度だったのに。
今は素肌と素肌が触れ合い、彼の脈動がダイレクトに伝わってくる。
「……職人にとって、手は命だ」
アルドは少し顔を背けながら、ぶっきらぼうに言った。
「かじかんでたら、いい仕事はできねえ。あんたは俺の雇い主だろ? あんたがペンを落としたら、俺たちの給料計算ができなくなる」
「……そうね」
「だから、温めてやる。それだけだ」
言い訳のような言葉が、なんだか愛おしかった。
彼は私の手を包んだまま、ゆっくりと擦り合わせてくれた。摩擦熱と、彼の体温が混ざり合い、感覚のなかった指先に血が通い始める。
「アルドの手……温かいわね」
「あんたの手が冷たすぎるんだよ。雪女かと思ったぜ」
「ふふ。……ありがとう」
彼の体温が心地よくて、私は彼の手のひらに自分の指を預けた。
至近距離にある彼の顔。
暖炉の火に照らされたその瞳が、今は私だけを真っ直ぐに見ていた。
外では猛吹雪が吹き荒れている。
世界は凍りついている。
けれど、この掌の中だけは、春のように温かかった。
「……止まない雪はねえ」
アルドが、私を見つめたまま言った。
「あんたが言ったんだろ? 春が来ない冬はないって」
「ええ……言ったわ」
「なら、信じろ。俺も信じる。この吹雪が止んだら、最高の時計を作ってやる。だから……あんたは倒れるな」
彼の言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、今の私を強く支えてくれた。
この人は、私の不安を見抜き、それを溶かしてくれたのだ。
「約束よ、アルド」
「ああ、約束だ」
私たちはしばらくの間、手を繋いだまま、パチパチと燃える暖炉の火を見つめていた。
言葉はなかった。
でも、繋いだ手から伝わる温もりが、互いの鼓動を伝えていた。
それは、ただの主従やビジネスパートナーを超えた、魂の深い場所での共鳴だった。
翌朝。
嘘のように空が晴れ渡った。
朝日に照らされた雪原は、眩しいほどの銀世界だった。
そして昼過ぎには、除雪を終えた輸送馬車が無事に到着した。
歓声を上げる村人たちの輪の中で、私とアルドは目が合い、小さく笑い合った。
私のポケットの中の手は、昨夜の彼の温もりをまだ覚えているような気がした。
冬の試練は去った。
そして私たちの絆は、鋼のように強く、焼き固められたのだった。
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