王都の天才時計師と、銀雪の令嬢 ~「君の領地を時計の聖地にする」と約束した彼は、伝説の師から託された《究極の機構》で国を救い、私と結ばれました~
ぱる子
第1章:泥の中の歯車
第1話:止まった時間と婚約破棄
シャンデリアの光が、目に痛いほど煌めいている。
王都の迎賓館で開催されている夜会は、いつにも増して華やかだった。香水の甘い香りと、貴婦人たちの衣擦れの音、そして上辺だけの笑い声がホールの中に充満している。
私は壁際に立ち、グラスの中の果実水を揺らしながら、ただこの時間が過ぎるのを待っていた。
私の名前は、エリアナ・ベルンシュタイン。
かつては大陸有数の銀山を擁し、隆盛を誇ったベルンシュタイン伯爵家の娘だ。
だが、それも今は昔の話。銀山は枯渇し、領地である北部の山岳地帯は、ただ雪と寒風が吹き荒れるだけの貧しい土地となってしまった。
没落寸前の貧乏貴族。それが、今の私につけられたレッテルだ。
今夜、私が身に纏っているのは、流行のパステルカラーのドレスではない。母が遺した深い藍色のドレスを、自分で仕立て直したものだ。装飾品(ジュエリー)もほとんどつけていない。唯一身につけているのは、ドレスのポケットに忍ばせた、古びた懐中時計だけ。
それさえも、もう動かない。
「……長いわ」
小さく息を吐き出す。
退屈だからではない。この後に起こるであろう出来事が、予測できていたからだ。
ホールの中央で、人だかりが割れる。
まるで劇場の幕が開くように、その男は現れた。
「エリアナ・ベルンシュタイン! そこにいるな!」
よく通る声が、楽団の演奏さえも遮った。
金髪をこれ見よがしに撫で付け、最新流行の刺繍入り燕尾服を着こなした青年。
ギルバート・アークライト子爵。
私の婚約者であるはずの男だ。
彼の隣には、目の覚めるようなショッキングピンクのドレスを着た令嬢が寄り添っている。彼女の腕にも首にも、重そうなほどの大粒の宝石が輝いていた。
周囲の貴族たちが、扇子で口元を隠しながら、好奇の視線を私に向けてくる。
侮蔑、憐憫、嘲笑。
慣れっこだ。私は背筋を伸ばし、一歩前へ出た。
「はい、ここに。ギルバート様」
「ふん、相変わらず陰気な顔だ。まるで葬列の参列者だな」
ギルバート様は鼻で笑うと、大仰な仕草で隣の令嬢の肩を抱いた。
その令嬢――確か、宝石商の娘だったか――が、甲高い声でクスクスと笑う。
「まあ、ギルバート様ったら。エリアナ様に失礼ですわ。これでも精一杯、おめかししていらしたんでしょう?」
「おめかし、ねえ。その古臭いドレスがか? 骨董品屋から引っ張り出してきたのかと思ったよ」
ドッ、と周囲から遠慮のない笑いが起きた。
私は表情を崩さないよう、奥歯を噛み締める。ドレスのことを言われるのは構わない。けれど、母の思い出まで踏みにじられたようで、胸の奥が冷たく凪いでいくのを感じた。
「エリアナ。単刀直入に言おう」
ギルバート様は勝ち誇った顔で、私を見下ろした。
高らかに、宣言する。
「貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
予想通りだった。
驚きはなかった。むしろ、ようやく終わるのだという安堵すらあったかもしれない。
アークライト家は、近年急速に財を成した新興貴族だ。成金と陰口を叩かれる彼らが欲しかったのは、腐っても「伯爵家」という我が家の歴史ある家名だけ。
だが、枯れ果てた鉱山と借金しか残っていない我が家の実情を知り、旨味がないと判断したのだろう。わかりやすい話だ。
「……理由は、お伺いしてもよろしいでしょうか」
形式的に、私は尋ねた。
ギルバート様は待っていましたとばかりに、私の足元から頭のてっぺんまでをねめつけるような視線でなぞり、吐き捨てた。
「理由だと? 鏡を見てみろ。君は君の領地と同じなんだよ。寒々しくて、華がない」
寒々しい。
その言葉が、鋭い氷柱のように突き刺さる。
「女としての魅力も、愛嬌もない。いつも澄ました顔で、機械のように正確に仕事をこなすだけ。そんな可愛げのない女を、誰が妻にしたいと思う? 僕に相応しいのは、このミレーヌのように、美しく華やかな花のような女性だ。枯れ木のような君じゃない」
隣のミレーヌと呼ばれた令嬢が、勝利の笑みを浮かべて私のことを見ている。
私の領地は、確かに寒い。
一年の半分は雪に閉ざされ、色彩といえば雪の白と、針葉樹の深い緑、そして岩肌の灰色くらいしかない。
けれど。
私は、あの静謐な銀世界が好きだった。
ピンと張り詰めた冷気の中で、朝日に照らされた雪原がダイヤモンドダストのように輝く美しさを、この男は知らないのだ。
「……左様でございますか」
反論はしなかった。
何を言っても無駄だという諦めと、私の大切な故郷の美しさを、こんな男に理解してほしくないという拒絶があったからだ。
「納得したか? 慰謝料などは期待するなよ。借金まみれの貧乏令嬢を、今日まで婚約者として置いてやっただけでも、こちらとしては十分な温情だったと思いたまえ」
「はい。異存はございません」
私が淡々と頭を下げると、ギルバート様は拍子抜けしたような顔をした。泣いて縋り付いてくるとでも思っていたのだろうか。
期待外れだったのか、彼は不機嫌そうに舌打ちをすると、自慢げに左腕を掲げた。
そこには、黄金で作られた豪奢な腕時計が巻かれていた。
「見ろ、これを。王都の最高級宝飾店で作らせた特注品だ。文字盤にはダイヤモンド、針はルビーだ。美しいだろう?」
彼は周囲に見せびらかすように腕を振る。
確かに、高価な素材を使っているのだろう。目が眩むほどの輝きだ。
だが、私の目は冷めていた。
宝石の輝きに目が眩んで、肝心の「時間」が見づらい。それに、あんなに重い宝石を針に乗せてしまえば、ゼンマイにかかる負担は計り知れないだろう。すぐに精度が狂うか、止まってしまうに違いない。
――美しくない。
私の審美眼は、それを「醜悪な成金趣味」だと断じていた。
機能美を無視した装飾だけの機械なんて、ただのガラクタだ。
私は無意識に、ドレスのポケットの中にある懐中時計を強く握りしめた。
祖父の形見。真鍮の塗装は剥げかけ、ガラスにも細かな傷が入っている。もう何年も前に動かなくなってしまった、沈黙した時計。
けれど、職人が手作業で削り出した歯車の噛み合わせや、使い込まれて手に馴染む重みは、ギルバート様のその煌びやかな腕時計よりも、ずっと価値があるように思えた。
「おい、何を黙っている。惨めすぎて声も出ないか?」
「いいえ」
私は顔を上げた。
涙など、一滴も流していない。
背筋を伸ばし、真っ直ぐにギルバート様の目を見据える。その視線の強さに、彼の方が一瞬たじろいだように見えた。
「ギルバート様。今まで、ありがとうございました」
「な、なんだその態度は……! もっと悲しむとか、悔しがるとか……!」
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。これにて、私たちは他人同士ということでよろしいですね?」
凛とした声で告げると、ホールが静まり返った。
捨てられたはずの女が、誰よりも堂々としていたからだ。
ギルバート様の顔が赤く染まる。プライドを傷つけられたと感じたのだろう。
「ふん! 強がりを! まあいい、精々その貧しい領地で、雪に埋もれて一生を終えるんだな!」
捨て台詞を吐いて、ギルバート様はミレーヌ嬢と共に踵を返した。
取り巻きたちが慌てて彼を追いかけ、嘲笑うような視線を私に残していく。
私は一人、その場に残された。
孤独だとは思わなかった。むしろ、清々しかった。
これで自由になれた。
家の借金はどうにかしなければならないけれど、あの軽薄な男の妻になり、飾り人形のように一生を過ごすよりは、ずっとマシだ。
私はゆっくりと会場の出口へ向かう。
すれ違う人々が、遠巻きに私を見てひそひそと噂話をしている。
「可哀想に」「でも、あんなに地味ではねぇ」「ベルンシュタイン家もこれで終わりか」
好きに言えばいい。
私は、私の価値を自分で決める。
テラスに出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
王都の空は、地上の明かりにかき消されて、星があまり見えない。
領地で見上げる満天の星空が、無性に恋しかった。
ポケットから、懐中時計を取り出す。
月明かりの下で、古びた銀色のケースが鈍く光った。
蓋を開ける。
白い文字盤。黒く塗られた細い針は、1時51分を指したまま、ピクリとも動かない。
祖父が亡くなった時刻だ。
「……動いてよ」
小さく呟いて、リューズを巻いてみる。
カチリ、とも言わない。内部で何かが噛み合っていないような、虚しい感触だけが指先に伝わる。
何度修理に出しても、どの時計師も首を横に振った。「古すぎて部品がない」「構造が特殊で直せない」「新しいのを買ったほうが安い」と。
でも、私は諦めきれなかった。
この時計には、祖父の、そしてかつての領地の「誇り」が詰まっている気がしたからだ。
これが動かない限り、私の時間も、領地の時間も、止まったままのような気がして。
「直さなきゃ」
誰に言うでもなく、決意を口にする。
ギルバート様に言われた「寒々しい」という言葉を否定するために。
私自身が、前に進むために。
私は時計を両手で包み込むようにして胸に抱いた。
金属の冷たさが、ドレス越しに伝わってくる。けれど、それは決して不快な冷たさではなかった。
質実剛健。
飾りのない、機能美の塊。
私は、私の信じる美しさを証明してみせる。
空から、白いものがちらりと舞い落ちてきた。
初雪だ。
手のひらに落ちた雪片は、一瞬だけ結晶の形を見せて、すぐに体温で溶けて消えた。
明日、王都一番の時計修理店に行ってみよう。
断られるかもしれない。笑われるかもしれない。
それでも、私は探す。
この止まった時間を、再び動かしてくれる人を。
雪が降りしきる中、私は誰の同情も拒絶するように、一人、夜の闇へと歩き出した。
止まった時計の針が、新たな時を刻み始める予感を、まだ私は知らなかったけれど。
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