第2話

 翌日の朝、二年A組の教室はまだ眠そうな空気に包まれていた。

 窓から差し込む光が机の縁を淡く照らし、ところどころで欠伸の音がする。


「……眠っ」


 席に座った瞬間、思わず小さく呟くと、すぐ横から声が返ってきた。


「昨日、夜更かししたろ」


 振り向けば海斗が肘をついて俺を睨んでいた。


「いや、イベント最終日だったから」


「知ってた。絶対やってると思った」


「お前もやってたじゃん」


「俺は途中で寝たんだよ。お前はガチ勢」


 ガチ勢で結構だよと思いながら、プリントを鞄から取り出す。

 教室の空気は少しずつ明るくなっていく。南雲が前の席で友達とふざけ合い、女子たちが机を寄せて髪型の話をしている。


「おはよー、黒川くん」


 軽い声とともに、浅海ひよりがひょこっと顔を出した。

 短めの髪がよく似合う、明るいタイプの女子だ。


「昨日の数学のプリントさ、ここ分かんなくて……ちょっと見てもらっていい?」


「あーここ? 公式当てはめるだけだぞ」


「え、当てはめたんだけど全然違う答え出るんだよね」


「貸して」


 ひよりのプリントを受け取り、ざっと目を通す。

 別に難しい問題じゃない。式の途中で計算が一つだけズレていた。


「ここで符号逆にしてる。だからこうして……」


「あ、ほんとだ! 全然気づかなかった……黒川くんありがと!」


「いや、たまたま見えたからさ」


 俺がプリントを返すと、ひよりは嬉しそうにぺこりと頭を下げて席に戻っていった。


「お前さぁ」


 海斗がわざとらしく溜息をつく。


「なんでそんな自然に女の子と会話できんの」


「普通に話しただけだろ」


「そういうのをできるって言うんだよ」


「知らんがな」


 他愛のない会話を続けながら、何気なく教室の奥を見る。


(あ…)


 白雪澪がいた。


 教室の端の、少し離れた席。

 窓際でも廊下側でもなく、教室全体が見渡せる位置。


 朝の騒がしさの中で、ただひとり落ち着いた雰囲気で教科書を開いている。


 ……さっきまで、こっちを見ていたような気がした。


 ぱっと目が合う。

 白雪はすぐに微笑んで、そっと視線を伏せた。


(……気のせいだな)


 そう思うことにして、前を向く。


 でも、胸の奥で小さな違和感がひとかけらだけ残った。


 


「黒川くん」


 チャイムが鳴る直前、澪が静かに声をかけてきた。

 距離は少し離れているのに、不思議とよく届く声だ。


「朝から楽しそうだったね」


「そうか? 海斗とバカ話してただけだけど」


「……浅海さんと話してたから、じゃなくて?」


「浅海?」


 一瞬だけ考えてから、さっきのプリントのことを思い出す。


「ああ、プリント聞かれただけだよ。ちょっと説明しただけ」


「ふうん」


 澪はほんの一秒だけ、表情を揺らした。

 消えてしまいそうなくらい小さな変化。


「仲いいのかなって、少し思っただけ」


「いや、別に。普通。クラスメイトだよ」


「……そっか」


 澪は小さく息を吐いて、目を細める。


「よかった」


「え?」


「ううん、なんでもないよ」


 いつもの微笑みに戻って、澪は席へ戻っていった。


 何がよかったのか。

 聞くほどのことでもない気がして、そのまま流す。


 


 午前の授業が全て終わり、昼休みになった頃。


「悠、購買行くぞー!」


「行かねえよ。混んでるし」


「じゃあ俺のパン買っといて」


「なんでだよ」


 海斗の適当な頼みにツッコみながら、鞄から弁当を取り出す。

 紙袋を開けた瞬間、澪がまた近くに来ていた。


「お弁当、今日もそれなんだね」


「ん? ああ、まあ毎日これ。楽だし」


「昨日は、デザートついてなかったよね」


「……よく見てんな」


「たまたまだよ」


 そう言いながら、澪は視線を少しだけ逸らす。

 たまたまにしては、細かすぎる気もする。


(やっぱ気のせいじゃなかったな……)


 でも、別に困るほどじゃない。

 誰かに迷惑かけてるわけでもないし。


 俺はそのまま弁当を開いた。


「黒川くんって、自分で作ってるの?」


「いや、冷凍詰めてるだけ」


「えらいね」


「どこが」


「ちゃんと自分でやってるってことだよ?」


 澪は、少し嬉しそうにそう言った。

 褒められるほどのことでもないのに。


「白雪は?」


「私は……お母さんが。朝早いから、なかなか自分では作れなくて」


「それはそれで、楽でいいじゃん」


「そう、かな」


 澪はふわりと笑って、少し離れたところに戻っていった。

 距離はあるのに、会話の余韻だけが近くに残った。


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