第2話 墜落者の孤独

落下は、永遠に続くかと思われた。


 光も音も消えた闇の中、

 上下の概念が曖昧になり、

 俺の身体は“落ちている”というより

 “引きずられている”感覚に近かった。


 だが――急に終わりが来た。


「っ……!」


 硬い地面へ叩きつけられる。

 だが、十五歳に戻った身体は意外なほど頑丈で、骨は折れていない。


(……ここが、最深層……か)


 視界が徐々に慣れていく。


 そこは洞窟のようで、洞窟ではなかった。

 岩に似た壁が、微かに呼吸している。


 まるで生き物の体内だ。


(気味の悪い所だな……)


 鼻に金属と腐臭の入り混じった匂いが刺さる。

 足元の黒い石は冷たく、どこか血管のように赤い紋様が走っていた。


 そして――何より静かだった。


 風も水音も、生命の気配すらない。


 死の静寂。


 この空間全体が、俺を拒絶しているようだった。


(……殺す気満々だな、あの影のやつ)


 還暦の男が、十五の身体でここへ放り込まれた。

 難易度がどうとかいう問題ではない。

 “初期状態で生還は不可能”と断じられたのだろう。


 だが、それでも俺は生きている。


(“錬金術師としての特典”……か)


 意識を集中すると、脳内に術式が浮かぶ。


 物質変換、素材強化、簡易的な合成式。

 持ち物は何もないが、素材があれば何とかなる。


(とはいえ、この空間で“素材”なんて……)


 そう思った矢先、重い足音が響いた。


 ず……ず……


 洞窟の奥から、巨大な影が現れる。


(……魔物……!)


 それは四足の獣のような形をしていたが、

 皮膚は膨れ上がり、目が七つもある。

 口からは紫の糸のようなものが垂れている。


 “異常そのもの”だった。


 俺を見つけると、七つの目全部がぎょろりと動く。


「グォォォアアアッ!!」


 叫び声とともに突進してくる。


(速い……!)


 十五歳の身体でも反応できる限界の速度。

 だが、俺は若い頃と違って、頭だけは老獪だ。


「っ!」


 地面の赤い紋様を瞬時に見て、

 脳内に浮かぶ“変換式”を重ねる。


(これ、素材に使える……!)


 赤紋の部分を掴むように意識を集中し――


《錬成:硬化障壁(シェルド・ウォール)》


 地面の紋様がぐにゃりと形を変え、

 俺の前に半透明の障壁が立ち上がった。


「グォォ!!」


 魔物の体当たりが障壁にぶつかり、

 衝撃が走る。


 障壁は軋むが、破れない。


(持ちこたえろ……!)


 錬金術は万能ではないが、

 “環境を利用する”という点に限れば最強だ。


 魔物は障壁を何度も叩くが、

 その度に自分の体だけが歪んでいく。


 そして――


「ギ、ギャアァ……!」


 とうとう自壊した。


 魔物の体が黒い液体になり、地面に溶ける。


(……勝った……のか)


 心臓が大きく跳ねる。


 息をつくのも忘れて、俺は立ち尽くした。


 戦いなど久しぶりだ。

 いや、戦いなど人生で一度もしたことがなかった。


 会社と戦い、社会と戦い、

 人生にすり潰されただけの男だったはずだ。


 それが今――

 未知の化け物を倒している。


(……これが、召喚特典……)


 少しだけ実感が湧き始めた。

 だが、同時に苛立ちも増す。


(こんな力、望んで手に入れたわけじゃない)


 世界を救いたいわけでも、英雄になりたいわけでもない。


 ただ――


(ふざけた召喚制度に、殺されてたまるか)


 生き延びてやる。

 このふざけた世界を見返し、ぶち壊してやる。

 そのためには、どんな泥でも啜る覚悟はある。


 俺は魔物の黒い残滓へ手を伸ばした。


(素材にする。何に使えるか知らんが、拾えるものは全部拾う)


 触れた瞬間、脳内に情報が走る。


《素材:異形獣の魂滓(ランク・低)》

《用途:精神強化薬・簡易魔力触媒などへ変換可能》


(……これは便利だな)


 錬金術師という職業の価値が少し見えた。


 素材を回収し、洞窟の奥へ進む。


 だが、進んですぐに理解した。


(……広い……)


 洞窟は一本道ではない。

 巨大な迷宮だ。


 左右に枝分かれする通路、

 何十と分岐する空間。

 どれも似たような模様と岩で構成され、

 方向感覚が狂う。


(ここで死ぬのが“当たり前”ということか……)


 心が折れそうな広さだ。

 だが、目に見える敵よりも嫌なのは――


 時折、空気が“揺れる”ことだった。


 風ではない。

 温度変化でもない。


 まるで“誰かが観測している”ような、

 視線の波のようなもの。


(……誰か、いるのか?)


 耳を澄ませる。

 足音はしない。

 声もない。


 だが――

 確かに“意志”がある。


(……生き物じゃない。

 これは……ダンジョンそのものの意志……?)


 そんな馬鹿げた可能性を考えた瞬間、

 脳裏に言葉が響いた。


『――見ている』


「っ!?」


 突然の声。

 だが周囲には誰もいない。


 声は続く。


『墜ちた者よ。

 汝の魂の形、興味深い』


(……これは、テレパシー……?)


 俺は息を呑んだ。


 声の主は、魔物でも人でもない。


 もっと巨大で、古い、

 “何か”だ。


『ようこそ……最深層へ』


 ダンジョンが――喋っている。


(やっぱり……ここ、生きてる……!)


 鼓動が早まり、俺は身構えた。


『汝は“余剰魂”にあらず。

 余剰と断じた者の眼が曇っているだけ』


(影のやつ……主導者が、間違えた……?)


 声は淡々と続ける。


『面白い。

 汝の魂、異界の“第二値”を保持している。

 ならば――生かしてみよう』


(……生かしてみよう?)


 その瞬間、足元の紋様が光り――


 “道”が開いた。


 暗闇が左右に裂け、

 奥へ続く階段が現れる。


(……試されてるのか?)


 息を吸う。


(なら……乗ってやるよ)


 俺は階段へ足を踏み入れた。


(こんな世界……必ずぶっ壊す。そのために、まずは――生きる)


 光のない階段を、

 俺はゆっくりと降りていった。

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