第5話 【緊急】推しVが「泥を飲め」と脅され闇堕ちしそうなので、5万円の太客と全面戦争することにした件

 イージーモードは、唐突に終わりを告げた。



「えー、皆さんに重大発表があります」



 週明けの朝礼。

 軽井沢部長が、満面の笑みで壇上に立った。



「我が社、株式会社ネクスト・アドは……以前より話に出ていたIPO(新規上場)を、本格的に推進させます!

 上場目標は来期!現在申請の準備を進めております!」



 わっと、フロアが沸く。

 拍手。歓声。 「ついに上場か!」「あの自社株が紙くずじゃなくなるぞ!」


 ベンチャー企業にとって、上場はゴールであり、夢だ。

 創業期から泥水をすすってきた古参社員たちは、涙ぐんで手を取り合っている。


 だが。

 俺の隣に立つ氷室課長の横顔は、蒼白だった。



 彼女は知っているのだろうか。

 現場はすでに限界を迎えている。

 この状態で上場審査なんて、耐えられるのか?


 来期って……無茶苦茶だろ。



 一応、見た目上の社内体制は進んでいることになって入る。

 要員としてデカいのは、あの管理本部の馬場さんだ。


 なにしろ他人に厳しいことに定評のある人だ。

 実行するのが自分じゃないと思えば、部内だろうが部外だろうがお構い無しに、駄目だししまくり。

 得意ゼリフは「私が前にいた会社じゃこんなことは考えられなかった!」だ。


 明確な職責のない立場の馬場さんが正規のレポートラインを無視して撒き散らす訂正案は、必ずしも正論ばかりではなかった。

 だが、人格者で評判の管理本部長が諾々として彼女の提案を受け入れ、なんとか形の上ではちゃんとしてるっぽい業務フローチャートをお絵描きし、各部署ではそれを適用してることにしつつも実務では導入前から形骸化しているという有り様だ。



 そもそもIPO推進の社内体制強化のために、社長が上場会社の内部監査室から引き抜いたのが馬場さんだ。

 だが、あくまで噂だが、元々いた企画部では使い物にならずにその会社では閑職である内部監査部に飛ばされ、そこですら腫れ物扱いだったというのが彼女だ。

 止める者のいないこの会社では、歩く核弾頭として今日も蛮勇を奮っている。



 ってなわけで、内部統制については見た目上はちゃんとしてそうな雰囲気で上場審査を乗り切れてしまう可能性があるのでは……?というのが現状だ。



「……それに伴い、今期の売上目標を上方修正します」


 部長が続ける。

 スクリーンに映し出された数字に、歓声がどよめきに変わった。


 そう、それこそが問題だ。



「現行の……150%!?」


「無理だろ、あと2ヶ月しかないぞ……」


「大丈夫、君たちならできる!」



 軽井沢部長は、俳優のような笑顔で言い放った。



「これは『夢』のための試練だ。

 上場すれば、君たちが腐らせている株は大金に化ける。

 お金があって困る人はいるかな?子供の学費、家のローン、老後の資金……今までの全てが報われる瞬間を迎えたくはないか?

 全員で、豊かな未来を掴み取ろうじゃないか!」


 綺麗な言葉だ。

 フロアの空気が、「不安」から「熱狂」へと塗り替えられていく。

 さすがは軽井沢部長。人心掌握に長けている。



 俺もうっかり、素直に拍手をした。

 ……隣の氷室課長が、震える手で自身の腕を抱いていることに気づかないまま。



     ◇




「……話って、何でしょうか。部長」



 その日の午後。

 私は、部長室の重い扉を開けた。



「座りたまえ、氷室くん」



 軽井沢部長は、革張りの椅子に深く腰掛け、柔和な笑みを浮かべていた。

 社内では「仏の軽井沢」なんて呼ばれている。

 いつもニコニコしていて、部下の自主性を重んじる理想の上司。



 ……吐き気がする。



 私は知っている。

 この男の笑顔が、決して目の奥まで届いていないことを。



 自主性を重んじる」と言えば聞こえはいいが、要するに「責任放棄」だ。

 面倒な決断はすべて私に丸投げし、手柄だけを吸い上げる。

 私が「氷の女帝」などと疎まれてまで現場を締め上げなければならなかったのは、この男が甘い顔をして無茶な案件を安請け合いしてくるからだ。



「単刀直入に言おう。……数字が足りないね」



 彼は、書類を放り投げた。

 私のチームの売上予測だ。



「……現場は限界です。全員、既に全力を尽くしています。

 これ以上の受注は、品質低下を招きます」


「品質? そんなものは二の次だ」



 彼は、優しく、しかし冷たく言い放った。



「今は『数字』が必要なんだよ。

 審査を通すための、右肩上がりの美しい成長ストーリーがね」


「ですが……」


「来月計上の案件、今月に前倒しできないか?

 あるいは、関連会社を経由して発注書を回すとか……やりようはあるだろう」


「ッ……!?」


 私は、耳を疑った。  それは『循環取引』……粉飾決算の入り口だ。


「部長! 正気ですか!?

 それは違法行為です!

 そんなことをして上場しても、後でバレたら会社は終わりです!」


「人聞きが悪いなぁ」



 軽井沢部長は、心外だという顔で紅茶を啜った。



「私は『テクニック』の話をしているんだ。

 それに、これは一時的な処置だよ。上場して資金が入れば、正規の取引に置き換えればいい。

 ……私が責任を持って処理するさ」


 嘘だ。

 この男が責任を取ったことなど、一度もない。

 いざとなれば、「氷室課長が独断でやった」と私を切り捨てる気だ。



「できません。

 部下たちに、そんな恥ずかしい仕事はさせられません。

 ……どうか、計画を変更していただけませんか。


 今のクライアントの皆様には、サービス内容に満足いただいています。

 部下のみんなも、成長しています。チームワークも急速に良くなっているんです。

 来期と言わず、5年後、いやせめて3年後に向けて準備をさせていただけませんか。それならば、きっとそんな手に頼らなくても……」


「できるわけがないだろう、あのボンクラ達に」



 ため息混じりの部長の言葉に、流石に耳を疑った。



「部長……今、なんと?」


「できるわけがない、と言ったのさ。

 君の欠点は、自他の境界の曖昧さだな。あのボンクラ達を自分と同じような人間だと思っている。

 確かに営業部の人員が全員君と同レベルの人材ならば、その夢物語も聞く価値があるだろうね。

 でもね、違うんだよ。我々と彼らでは。人種が。能力が。使っている言葉さえ。

 彼らが日本語らしきものを口にしているからって、言葉を理解していると思ってはダメだよ?

 彼らの履歴書を見たことはあるかい?高卒や、聞いたことのない大学ばかりだ。


 この時代にこんな会社に入るようなや人材はまあ、そんなものだろうがね。

 いや、彼らは恵まれているな。私の若い頃とは労働市場がまるで違う。雇う側からすればたまったものではないが。

 ああ、旭君。彼だけは多少見どころがあるかな?ええと、大学はMARCHのどこだったか……」


「やめてください!私の仲間にそんな……そんな非道なことを言うのは!」


「おお怖い」



 私の言葉に、部長はアメリカンジェスチャーのような芝居がかった仕草で肩を竦める。


「……氷室くん。  総務の田中さんとは、仲が良かったね?」


「え……?」



 部長の声色が、ねっとりと変わる。



「田中さんのお子さん、中学受験の塾に通い始めたらしいじゃないか」


「……」


 総務の田中さん。

 私が最年少で課長になり、周囲から「女帝」と陰口を叩かれて孤立していた時、唯一優しく接してくれたベテラン社員だ。


 深夜のオフィスで一人泣いていた私に、「無理しないでね」と飴をくれた、母親のような人。

 この会社で、私が心を許せる数少ない友人だ。


「しかし、ああいうのは随分と学費がかかるらしいじゃないか。私のような地方出身者にはわからない世界だがね」



 彼は、わざとらしく天井を見上げる。



「2週間の夏期講習だけで20万円と言っていたかな?

 彼女の今の給料では、あまりにも痛い出費だ。

 ……辛いだろうね、親として。『ウチはお金がないから、あなたのお友達と同じ塾には通わせられません』と、子供に言うのは」


「ッ……」



 何を、言っているの?



「だが、IPOが成功すれば、そんな悩みもなくなる。

 彼女の持っている自社株だけで、子供を大学まで行かせてやれる。

 3年後?ははは、気の長い話だ。田中さんの御子息にはお勉強を諦めてもらうしかないかな。

 ……わかるだろう、"今"金が必要な人間だっているってことが」



 卑劣。

 あまりにも、卑劣。

 他人の家庭の幸福を人質に取った、悪魔の囁き。



「君のちっぽけな『正義感』のせいで、あの子の未来を閉ざすつもりかね?

 ……君の判断一つで、君の大切な友人の人生が変わるんだよ?」


 私は、唇を噛み締めて俯く。

 反論できない。


 私が断れば、田中さんの、社員全員の夢が潰える。

 その責任を、私一人で背負えと言うのか。



「……君は優秀だ。期待しているよ」



 彼はニッコリと笑い、出口を指差した。

 拒否権はない。

 やれ。

 やらなければ、お前が「みんなの夢を壊した戦犯」だ。



 私は、拳を握りしめ、ふらふらと部屋を出た。

 廊下の冷たい空気が、私の心を少しも冷やしてはくれなかった。



     ◇



 その夜。

 深夜1時。



『……こん、ココ……』



 配信が始まった。

 だが、画面の中の彼女は、死人のようだった。


 アバターの動きが極端に少ない。

 声に、覇気がない。



『みんな……ごめんね。今日は、ゲームできないかも』



 コメント欄がざわつく。 「元気ないな」「また仕事か?」「どしたん話聞こか」



『……私ね。わかんなくなっちゃった』



 彼女が、独白を始める。



『みんなのためを思うなら、汚いことでもやるべきなのかな。 「清く正しく」なんて、子供のワガママなのかな……』



 昼間の、IPO発表の熱狂を思い出す。

 俺は、唇を噛む。

 あの後、氷室課長が給湯室で蹲(うずくま)っていたのを、俺は見ていた。


 おそらく、相当なプレッシャーをかけられている。

 上場準備の激務か、あるいは理不尽なノルマか。



 コメント欄には、「大人の事情ってやつか」「世の中そんなもんだよ」という、諦めに似た慰めが並ぶ。


 俺は、キーボードに手を置く。

 違う。

 そんな言葉で、彼女は救われない。



 俺が、言葉を紡ごうとした、その時。



 ドォォォォン!!



 画面が赤く染まった。

 赤スパチャ。50,000円。

 『会長K』だ。



『会長K:ココさん……(ため息)。

 また、そうやってウジウジしているのですか?貴方のそういう「弱さ」が、ファンを不安にさせていると気づきませんか?』



 俺の背筋が、凍りついた。

 いつもの「全肯定」じゃない。

 まるで出来の悪い娘を諭すような、しかし逃げ場のない、粘着質な説教。



『会長K:私は貴方を責めているのではありませんよ。

 貴方には「覚悟」が足りないと言っているのです。

 社会に出れば、泥水をすするのも大人の嗜みです。綺麗なままで成功したいなんて、それは「幼児のワガママ」ですよ?』


「……なんだよ、それ」



 俺は思わず声を漏らす。


 言っていることは、一見もっともらしい。

 「君のためを思って言っている」という体裁をとっている。



 だが、その裏にあるのは、強烈な「押し付け」だ。

 金を出している私が正しい。大人の私が正しい。

 だから、お前も私の色に染まれ。そんな傲慢さが、丁寧な言葉の端々から滲み出ている。



 しかし、コメント欄は全体的に会長Kに同調的だ。

 「たしかに」「かっけぇ……」「会長は今日も大人だな」「なおV豚」。そんなコメントがパラパラと流れる。



『会長K:さあ、私の言う通りになさい。

 そうすれば、私が守ってあげますからね……?』


『……ごめんなさい。会長……』



 ココちゃん(冬華)が、小さく震えている。

 彼女は真面目だから、身銭を切って大金を差し出している彼の言葉を無下にはできない。


 それに、弱っている今の彼女には、この「毒を含んだ甘さ」が、救いのように見えてしまっているのかもしれない。



 ふざけるな。

 謝るな。

 貴方は悪くない。


 俺は、100円を投げた。


『サトウ:聞かなくていい。

 魂を売ったら、それはもうココちゃんじゃない。

 ココちゃんの部下は、汚れた金なんて望んでないはずだ』


 精一杯の抵抗。

 だが、俺の100円のバーは、会長Kの5万の赤色に押し流され、すぐに画面外へと消えていった。


 ギリギリで視認できた反応は、「はいはい」「かっけぇwww」「漫画の主人公みたいッスね」「今日も100円説教お疲れ様です!いつも本当に助かっています!」というものだったか。



『……うん。ありがとう、サトウさん……。

 でも……もう、疲れちゃったな……』



 画面が、暗転する。

 配信終了。

 逃げるような幕切れだった。



 俺は、暗くなったモニターを見つめる。



 許さない。

 俺の推し(上司)を。

 俺の居場所を。


 ここまで追い詰める「何か」を。



 IPOという名の重圧か。

 会長Kの言うような、社会に蔓延する歪んだ善意か。


 何だっていい。受けて立つ。

 俺たちの「楽園」を壊すなら、徹底的に戦う。



 イージーモードは、終わった。

 ここからは、戦争だ。

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