第12話
十五
目の前にいるのは、やつれた老人であった。かつて憧れ、追いかけた鮮烈で強大なまでの存在感は、最早見る影もない。否、一つだけ変わらないものがあった。その瞳に宿る赤銅のような光だけは、未だに輝きを失っていなかった。
「まあ、座れよ」
男はそう言い、煙草に火を付けた。
匠吾はその言葉に従い、男の前に正座した。
「肺を病んだとお聞きしましたが」
彫金師はその仕事柄から肺を病みやすい。金属を削る過程で出た細かい金属粉を長年に渡り、吸い込み続けることによって、肺に蓄積したそれらによって、
「ふん、もうどうせ長くはない命だ。おれぁ好きにさせてもらうぜ」
こういう粗野な口ぶりも、昔と何一つ変わってはいない。それから男は煙草を吸ったまま、何も口にはしなかった。匠吾はただ彼が煙草を吸い終わるのをまった。
「……お前に忍を紹介したのは、間違いだった」
煙草を吸い終えた男が、ようやくそう口にした。
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」
匠吾が重苦しい口調でそう言うと、男は――伊沢鉄山は「ッハ」と鼻で笑った。
「おれぁ、別にてめぇが伊沢一門を継がなかったことを攻めてるわけじゃないぜ」
ならば、何の事かと、匠吾は訝し気な視線を師に送った。
「お前は鋼だ。ちょっとやそっとのことじゃあ、びくともしねぇ。女に絆されることもなけりゃあ、賭けに狂うことも無い。馬鹿みたいに物を作ることしか考えちゃいねぇ。だけど、俺は一つだけ見誤っていた」
そう言い、鉄山は新しい煙草に火を付けた。
「……お前は他人のために、どこまでも心を削れちまう奴だった。心底愛している女のためなら、それでもよかったかもしれない。だけど、てめぇは何とも思っていない女のためにまで、自分の心を削れちまう奴だった」
「……何が言いたいのでしょうか」
「俺からの最期の忠告だ。お前はそのままじゃ、いつか取り返しのつかないような、大きな失敗をする。きっと、お前はそれくらいじゃ、潰れねえし、折れねえんだろうが、どんだけ良い刀も、刃こぼれしちまえば、ただのなまくらだ。精々、そうなる前に自分の在り方を見つめ直すことだ」
言い終えると、男が酷く咳込みだし、匠吾は直ぐに家人を呼んだが、師の容態を気遣い、彼は師の家を後にした。鉄山の訃報を聴いたのは、それから直ぐの事であった。
匠吾が師の言葉の意味を理解したのは、師が言った通り、全て取り返しがつかなくなった後だった。しかし、間違えたことは分かっても、何を間違えたのか、彼には解らなかった。
分からないまま、誰かのために身を削り、分からないまま全てを失ってしまった。そして、何を間違えたのかさえも、彼には分からなかった。
他人から見ても、匠吾が無理をして、家族ごっこに興じているのは明らかだったのだ。それを間近で見ていた家族からは、一体匠吾はどう映っていたのか。自分達を重荷の様にしか思っていない夫の姿を、父の姿を、彼女等はどんな気持ちで見ていたのだろうか。
きっと匠吾は酷い夫だったのだろう。酷い父親だったのだろう。
しかしだからといって、匠吾はどうすれば良かったのだろうか。病弱な妻とまだうら若い娘を放り出せば良かったのか。はたまた開き直って、家の事を全て丸投げし、仕事一本に打ち込めば良かったのか。
匠吾は匠吾なりに最善を尽くしていたつもりであった。もしかしたら、それがいけなかったのかもしれない。彼は常に偽りで塗り固めた仮面を被り、家族に決して本心を見せようとはしなかった。
匠吾は彫金師である。しかし、家族の前において、彼は果たして何者だったのだろうか。そんな疑問を、歳をとってからよく考えるようになった。
人というものは、生きながら何者かを演じている生き物である。そして演じ続け、いつか人は何者かへとなっていくのだ。だから、自分が何者かなんて、自分が一番よく知っているはずなのだ。それが分からないという事は、何者も演じきれなかったことに他ならない。
彼は欺瞞に満ちた鉄の仮面を被り、何かを演じているつもりになっていた。しかし、実際の彼はというと、道化を演じるどころか、道化師の振りさえできない、哀れな男だった。
なんて滑稽な事だろうか。
居間のソファの上で目を覚ましたのは、何時以来だったか。視線を横に向ければ、中途半端に酒が残ったグラスが眼に入った。恐らく、酔ってそのまま眠ってしまったのだろう。首や肩が多少痛むが、気にするほどのものではなかった。
匠吾は身を起こし、億劫に思いながらも、雨戸を開けるために玄関から外へ出た。室内とは比にならないほどの冷気が、匠吾の身を包む。よく見れば、地面には疎らに薄く雪が積もっていた。十二月に入り、本格的に寒さが増したように感じる。匠吾は白い息を吐きながら、庭へと回り、雨戸を開けていく。
雨戸を開け終えた匠吾が家内に戻ると、既に椿が目覚めており、台所で昨晩作り置きしていた朝食を温めているところだった。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
匠吾は挨拶を返し、炊飯器から茶碗にご飯をよそい、居間へと運ぶそれから二人とも無言で朝食を済ませた後、それぞれ朝の支度を始める。匠吾が皿を洗っていると「いってきます」という声と共に、玄関の戸が開く音がした。匠吾は「いってらっしゃい」と返したが、向こうに聴こえていたかは分からない。
皿洗いを終えた匠吾は、作業部屋へと向かい、仕事に取り掛かった。
つい先日、匠吾の下に面白い依頼が入った。というのも、ギターのピックガードに彫金してくれという依頼であった。そういう依頼があるという話は人伝に聴いていたが、匠吾の下にそのような依頼が来るの初めてのことだった。しかし、依頼を聴いた匠吾は直ぐに面白いと思い、依頼を引き受ける事に決めた。匠吾は昔から面白いと思った依頼は、何でも引き受けてしまう性質の人間であった。そのおかげか、匠吾の下には様々な依頼が舞い込んでくるようになった。しかし、そのような彼の在り方を一部の伝統を重んじる派閥の人間からは「仮にも伊沢の名を継いだ人間が、あまりにも節操がなさすぎる」と反感を持たれ、カラスだ、タヌキだと、揶揄されることが多々あった。
しかし面白いのだから仕方がない。匠吾はこと彫金においては、己の気持ちに対して、どこまでも正直な男だった。仕事を選ばないわけではない。とはいえ、提示された予算が低いものや猟銃など危険な物への彫金は流石に断っていた。
彼はいつだってただ自分の心に従っていた。自分が面白いと思うのなら、どんな物にでも彫金を施した。使えると思った技法や意匠は、古今東西問わず取り入れた。三菱が銀粘土を開発した際には、直ぐに仕入れ、あれやこれやと試してみたものだ。彫金という仕事をしている間だけは、彼は偽らざる自分のまま、どこまでも無邪気で自然体に振舞えた。
彼の心は虫食いだらけで、それを隠すために幾重にも鍍金が施されていた。しかし、何かを作りたいという情熱だけが、唯一にして普遍の核として、彼の心の最奥の中心部で未だ鈍く輝きを放ち続けていた。それだけが、彼の魂を生かし続ける、揺ぎ無く絶対的なものであった。
仕事がひと段落した頃、彼の携帯電話に着信が入った。画面を確認すると、厳時郎からだった。一体何のようだと思いながらも、彼は電話に出る事にした。
「何のようだ?」
「将棋をしないか」
また偉く唐突な誘いであった。しかし匠吾は直ぐに思い出した。今日は時計修理技能士の実技試験が行われる日であった。そのことに思い至ると、匠吾はなるほどと納得した。口では何とでも言えるが、厳時郎もやはり人の子である。本心では、孫娘の試験が順調にいっているのか、気を揉んでいるのだ。なので、匠吾はこう答えた。
「ああ、良いだろう。今から向かう」
電話を終えた後、匠吾は溜息を吐いた。実技試験の結果は学科試験の結果と同時に出る。今から心配していたら、身が持たないだろうに、そう思いつつも、匠吾は厳時郎を馬鹿にする気にはなれなかった。厳時郎という男は、頑固で口の悪い男ではあるが、人一倍家族思いな男であった。
あれは何時の事だっただろうか。厳時郎のところの三男が時計の軸石などに用いる人口ルビーを製造する会社に内的が決まった時のことだ。その時の厳時郎の慌てぶりは凄かった。
軸石工場では、製造した人口ルビー同士が接触しないように、石にタルクを振りかけるという作業を行っていたのだが、かつてそのタルクにアスベストが混入しており、健康被害が出たという話があったのだ。そのことを知っていた厳時郎はこれまでにないほどの慌てぶりで、三男に別の就職先を探すように説得していた。しかしあまりにも取り乱しており、何を喋っているのか容量が得ず、結局厳時郎の妻が冷静に息子を諭したのだった。因みに何故このことを匠吾が知っているかというと、その日の朝、夜通し仕事をしていて疲れて眠ろうとしていた彼の下にいきなり厳時郎がやってきて「息子を説得するの手伝え!」などと訳の分からんことを宣い、碌に事情も説明しないまま時計屋まで連行していったのだ。一件がひと段落した後、厳時郎の妻から平身低頭謝られ、参ったものだ。
余談であるが、源次郎の妻は商店街の和菓子屋で現在も元気に働いているのだが、旦那の糖質制限には厳しく、仕事の合間に甘いものを食べていないか、よく時計屋に監視に来ている。
さて、そんな親バカ、もとい家族思いの源次郎のことだ。孫であり、弟子でもある刻音のことは、尚のこと可愛く思っているのだろう。それは、匠吾には理解し難く、奇妙な感情である。だが、だからこそそれはきっと尊い感情であると、彼は思っていた。自分には出来ないことを、源次郎はずっとやり続けてきた。それだけで、匠吾が厳時郎を尊敬するに十分な理由であった。
商店街へとやってきた匠吾は真っすぐ、厳時郎の店へと向かった。店頭にはclauseと掛かれた掛札が下がっていたが、彼は無視して、店の中へと入った。
「待たせたな」
「いや、急に呼び出して悪いな」
カウンターの向こうでは、厳時郎が不機嫌そうに煙管を吹かしていた。
「そんじゃ、早速一局しようや」
そう言い、彼は店の奥へと向かった。匠吾もその背を追い、店の奥へと進む。
畳が敷かれた六畳ほどの部屋の真ん中に将棋盤を置き、駒を並べていく。並べ終えると、匠吾は煙草に火を付けた。どうせ、吸いたくなるだろうと思い、道すがらに買ってきたのだ。どうにも喫煙者といると、自分も煙草を吸いたくなっていけないと、彼は自嘲しながら、早速対局を開始した。
将棋の腕は、匠吾よりも厳時郎の方がやや実力が上であった。しかし今日の対局では、明らかに厳時郎は集中力を欠いていた。急に長考し出したかと思えば、普段ならしないような悪手をする。ゲームは三局目に入っていたが、匠吾は既に二勝していた。厳時郎が匠吾を誘ったのも頷ける。この有様では、仕事にならないだろう。
「そんなに心配か?」
匠吾は新しい煙草に火を付けながら問うた。
「馬鹿言っちゃいけねえ。あいつの実力なら、一級試験だろうが、直ぐに合格するだろうよ。本当なら、もっと早くに試験を受けさせても良かったほどだ」
「ほう。じゃあ、なんでそうしなかったんだ?」
「あいつは実力はあるが、まだ若い。実力がある人間ほど、直ぐに自惚れて天狗になっちまうもんだ。そして、そういった奴ほど、成長が止まるのも早い」
「まあ、道理だな」
匠吾は言いながら、一人目の弟子の姿を思い出していた。あの弟子の自惚れ癖を矯正するのには、匠吾も苦労した。現在は堅実で真面目な弟弟子と共に仕事をしているため、上手いこと回っているそうだが、もしもあの一番弟子が一人で店を始めていたら、きっとどこかの段階で大きな失敗をしていたことだろう。かといって、この弟弟子の方は少し心配性過ぎる気質があったため、そもそも東京で店を出すなどといった、大きな勝負に出れるような人間ではなかった。今にして思えば、二人でようやく一人前のような弟子達であった。
と、かつての弟子達に思いを馳せていた匠吾だったが、もう随分と前に独立を話した弟子達のことをあれこれ考えても仕方がないと思い、気を取り直して目の前の老人との話に集中することにした。
「だが、あいつはそんな自惚れやすい性質でもないだろう」
刻音は匠吾のかつての弟子とは違い、堅実にこつこつと自分を磨いていくタイプの人間だ。言ってしまえば、匠吾や厳時郎と同じような職人気質な娘である。
「ああ、分っているさ。だが、万が一にでも、あいつの才能を腐らせる様な事があったら、俺は祖父としてではなく、職人として自分が許せねえ。慎重にもなるさ」
「ふう……それじゃあ、今回の杞憂の原因もそれか?」
「だから、おれァ、何も心配してねぇって行ってるだろうが」
源次郎は紫煙と共に吐き捨てるように言った。
「ふん、頑固者め」
「何だと、クソジジイ⁉」
「おお、やるか、ハゲジジイ⁉」
将棋盤越しに身を乗り出し、睨み合う二人だったが、源次郎は直ぐに気の抜けたような溜息を吐き、腰を下ろした。
「なんだ、張り合いのない……ッゴホッ、ゲホ!」
匠吾は大きく煙を吸い込むも、久々の煙草という事もあり、少しむせてしまった。それから彼は煙草を灰皿に押し付け、もみ消した後に新しい煙草を取り出し、火を付けた。それにつられるように、厳時郎も煙管の灰を落とし、新しい煙草の葉を詰めていく。
「とうとう塵肺にでもなったか?」
燐寸を擦りながら、厳時郎が馬鹿にするように言った。
「馬鹿野郎、こちとら、それなりに良い集塵器使ってんだ。そう簡単に塵肺になんかなってたまるか」
「ッハ、どうだか……ところで、今はどっちの手番だったか?」
「ハン、お前さんこそ、認知症が始まってんじゃねえのか……あ? どっちだ?」
「ギャハハハ! てめえこそ、ボケてんじゃねえか⁉」
「てめえも同じだろうが‼」
と怒鳴り合ったところで、二人同時に盛大に咳込んだ。
「……ああ、ダメだ。短気はいかん、短気はいかん」
「……ああ、ただでさえ、医者に高血圧って言われてんのに……」
「はあ……この対局どうする?」
「ああ、どうせ、お前の勝ちだ。俺の負けでいい」
「そうかい」
何故だか、どっと疲れが押し寄せてきた二人は、そのまま将棋の駒を片付け始めた。それが終ると、二人はじっと黙って、煙草を吸っていた。
「……実際よう、おれあ、あいつが落ちるとは思っちゃいねぇんだ」
中空に紫煙くゆらせながら、源次郎が言った。
それには答えず、匠吾はただ煙を吸っていた。
「俺が心配してんのは、その後のことだ。……あいつには才能がある。それを腐らせないだけの努力も出来るやつだ」
ならば、何が不安なのだ、と匠吾は視線だけで問い掛けた。
「刻音は口じゃあ、そんなことは言わねぇが、きっとこの店を継ぐ気でいる。その気持ち事態は嬉しいが、おれぁそれであいつの未来を閉ざしたくねえんだ。あいつはまだ若い。こんな寂れた町の時計屋だけじゃなくて、もっと広い世界を見て、学ぶべきだ」
その言葉を聴き、匠吾は厳時郎が何故この町の時計職人になったのかを思い出した。彼は元々、時計屋の倅として生まれた。しかし中学を卒業した彼は、父ではなく別の時計職人の下へと弟子入りをした。それは彼の父が、倅に期待していたからだ。きっと厳時郎は自分を越えると信じ、より多くの者に師事し、見聞を深め、一流の時計職人に育て上げようとしたのだ。そして厳時郎自身も、そのつもりであった。師から独立を許された暁には、国内外問わず、優れた時計職人の下へ赴き、その技術を学び、見識を広めたいと、彼は昔よく酒の席で溢していた。しかし彼が独立するよりも早く、彼の父が急死した。死因は脳溢血であった。結果として厳時郎は、若くして父の店を継ぐこととなった。歳老いた母や、まだ若い弟達の面倒を見るためには、そうせざるを得なかったのだ。
「……昔の自分と重ねているのか?」
「そうかもな。だが、そうじゃねえかもしれない」
その曖昧な言葉の意味を、匠吾が理解することはなかった。
「……スイスに俺の古い知人がいる。刻音が一級試験に受かったら、そいつに紹介状を出そうと思っている。いや、迷っているというべきか。どんな理由を並べたところで、あの子の人生を決めるのは、あの子自身だ。俺が勝手に決めていい事じゃない。それに、俺自身も、まだあの子に何かを教えてやりたい、そんな思いがあるのも確かだ。だが、整った環境で、誰かに優しく教わった技術よりも、過酷な環境で自分から食らいついて、捥ぎ取った技術の方が身になるもんだ。これがただの弟子だったのなら、こんなにも考え込むこたァなかったろうに。全く、悩ましいものだ」
とっくに煙草の葉が燃え尽きた煙管を加えながら、源次郎は眉間に皺を寄せていた。
「まあ、お前の悩みは分ったが、そいつは言う相手が違うだろう」
「……ああ、全くだ」
「今俺に言ったことを、しっかりあの子に伝えてやるべきだ。その上で、あの子の意見を聞いてやればいい。祖父としても、師匠としてもな」
「言われんでも分っとるわい。分かってるからこそ、悩んでんじゃよ、こっちは」
匠吾には、厳時郎の気持ちの半分しか理解してやれない。彼はその行為が弟子にそれが必要か否か、必要な場合はどうやって言いくるめるか、そのような悩み方しかした事が無い。
しかし、ここまで聞き出しておいて、何も言わずにいるのは違うだろう。せめて、背中程度は押してやろう、彼はそう思い、口を開いた。
「俺はお前の意見に賛成だ。あくまで職人としてだがな。まあ、そうでなくとも、よく言うだろう。可愛い子には旅をさせよ、と」
その言葉を聴いて、厳時郎は眼を丸くした後、苦笑いを浮かべた。
「お前さんが、それを言うか?」
「何を驚いている。明美が出ていったのも、もう随分と前の話だ。とっくの昔に吹っ切れておるわい」
本当は未だに悔やんでいる。もしも、自分がちゃんと親をしていれば、明美は家出などしなかったのではないか。そうすれば、今も明美は幸せに生きていたのではないかと、自分の不甲斐なさを呪い続けている。しかしそのような後悔など、自己陶酔と同じだ。。そしてそんな身勝手な後悔を抱き続けることは、明美の人生を否定するどころか、いま生きている椿の存在すらも否定する行為である。それは許されるべきことではない。
「それに、あいつがどんな人生を送ったかは知らないが、あいつが残した娘を見ていれば分ることもある。きっと俺の知らない間のあいつの人生は、そう悪いものじゃなかったのだろう」
だから、自分に言い聞かせるように、彼はそう付け加えた。
話が脱線し掛けていることに気が付き、匠吾は咳払いし、話を本筋へと戻す。
「まあ、何だ。師にしろ、家族にしろ、人が誰かのためにしてやれることはそう多くない。結局お前がああだこうだ悩もうと、どうするかは、刻音自身が決めることさ。それでも誰かのために、何かをしてやろうと思う事は悪い事じゃない筈だ。ちゃんと向き合いさえすれば、刻音もお前の気持ちを分ってくれるだろう」
娘に何もしてやれず、家族と向き合うことを避けていた人間がどの面下げて言っているのだと、嗤笑したくなったが、そんな自分を押さえつけ、彼は言葉を続ける。
「お前は何も間違っちゃいない。だから、まあ……そう弱気になるな」
「フン、今日はやけに親身じゃねぇか」
「今後もあんなつまらん対局に付き合わされるのは嫌だからな。親身にもなる」
「おう、言いやがったな、てめえ。そんじゃ、もう一局指そうじゃねぇか」
そういう厳時郎の声には、いつもの調子が戻っていた。
だから匠吾もまたいつもの調子で答えた。
「望むところだ」
それから二人は、刻音が返ってくるまでの間、将棋を打ち続けた。最終的な軍配は、厳時郎へと上がった。
帰りの車の中で、匠吾は煙草を吹かしながら、物思いに耽っていた。
孫と向き合う、それは匠吾にも必要な事であった。これまでも、向き合おう向き合おうとは思ってきたものの、それは思うだけであった。彼は未だに孫に対して、深く踏み込むことを恐れていた。しかし、厳時郎にあのような事を言った手前、自分がいつまでも弱腰でいてはいけないだろう。
その日の夜匠吾は、もう一度椿に誕生日とクリスマスのプレゼントに何か欲しいものはないか訊くことにした。
「以前にも訊いたと思うが、本当に何か欲しいものはないのか」
「うん、今は特にないかな」
椿は答えてから味噌汁を飲む。
「そうか。無いのなら、現金で良いか」
「……別に、お小遣いは足りているから、大丈夫」
遠慮しているのか、それとも彼女が本当に何も欲していないのか、匠吾には測りかねた。しかし、ここで遠慮をするな、などと言うのも、何だか違う気がした。それによって、無理やり何かを聞き出すというのは、何だかとても押しつけがましい気がしたのだ。とはいえ、ここで引き下がってしまっては、これまでと何も変わらない。匠吾は意を決して、もう一歩踏み込んでみる事にした。
「お前が何もいらないと言うのなら、実際にそうなのだろう。しかしだ。俺も曲がりなりにも保護者という立場である以上は、その責任を果たさなければならない。衣食住を提供しているだけでも、まあ、その責任を果たしているという見方は出来なくもないが、やはり他の家庭との差異は埋めるべきだ。ジジイの見栄のため、と言ってしまえばそうだが、まあ、大人というものは往々にして、見栄っ張りなものだ。だから、その、なんだ……俺に協力すると思って、何か欲しい物を考えてくれ。とはいえ、今から欲しい物を二つ考えろというのも、難しいだろうし、無かったらなかったで、その時はまあ……現金でも受け取ってくれると助かる」
匠吾が長々と語り終えると、椿はぽかんとした顔をしていた。突然饒舌になった祖父に驚いているようでもあり、あまりにも無茶苦茶なことを言う彼に驚いているようでもあった。
「まあ、とにかくそう言う事だ」
「わか、った……うん」
椿は未だに呆気にとられた様子ではあったが、そう言い頷いて見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます