溜息が多い彫金師と孫
浅沼深作
第1話
序
槌で鏨を打ち、ヤニ台の上に置かれた地金に細かい模様を付けていく。それは匠吾が彫金師となってから、何十年と繰り返してきた作業であった。しかし、最近では思うように指先が動かないことが増えてきた。確かな技術と知識が、今でも彼の頭に残っている。しかし、衰えた身体がそれに付いてこれないのだ。
昔は何時間でも作業台の前に座っていられたのだが、今では長時間の作業をしていると、腰が痛くなる。目も直ぐに疲れるようになり、以前よりも集中力が続かなくなった。
「……老いたものだな」
作業を終えた匠吾が誰に言うでもなく呟き、眼鏡を外すと、目元を揉み、立ち上がった。作業部屋の電気を消して、台所へと向かう。人の気配がしない、薄暗い廊下を歩き、台所につくと、彼は冷凍庫から取り出した氷を入れ、グラスに三つ放り込み、そこにウィスキーを注ぐ。
それをちびちびと飲みながら、彼は煙草に火を付ける。昔は家の中で煙草を吸うと、よく妻に小言を言われたものだが、今では彼を咎める者は誰一人として残っていない。妻はもう何十年も前に亡くなり、娘は高校の頃に家を出てからそれっきり帰ってきていない。特に音沙汰がないという事は、どこかで元気にやっているのだろう。
妻が亡くなった時、不思議と寂しさや悲しさを感じる事は無かった。――ああ、ようやく終わったのか、とただそう思っただけだった。
匠吾には、最後まで自分が妻を愛していたのか分からなかった。別に妻に不満があった訳じゃない、嫌いだったわけじゃない。自分なりに大切にしてきたつもりだ。だが、彼の頭の中には常に、自分はこの人を本当に愛しているのだろうか、そんな疑問が着いて回っった。それは娘に対しても同じだった。
だからなのか、自分の妻や娘にに対する態度は、どこか無関心で冷たかったように思う。頼られたのなら、最大限それを叶えようとはした。家族の誰かが病気になれば、率先して看病をし、家事もこなした。しかし、それは家族というよりは、ただの同居人に対する気遣いのようだった。彼が家族のために行動をする事は有っても、それは愛おしさから来る行動ではなく、全て義務感から来る行動であった。
もしかしたら、匠吾はこの同居人達を、心のどこかで、疎ましく感じていたのかもしれない。実際に、家族といる時間よりも、彼は自身の作業部屋に引きこもっている時間の方が遥かに多かった。だから妻が死んだとき、匠吾は安堵したのだ。そして匠吾はそんな自分を酷く嫌悪した。娘との関係がぎくしゃく始めたのは、この頃からだった。
今にして思えば、あの娘は匠吾の心の内を見透かしていた様に思う。妻が亡くなってからというもの、匠吾に対して、向けられる娘の視線は、どこか攻めるようなものに変わっていた。匠吾はそんな娘の視線から逃れるように、それまで以上に自分の作業部屋に引きこもるようになった。
それ以降、二人の関係は修復されることなく、最後には娘の家出という形で終止符が打たれた。その時ですら、匠吾は心配するよりも先に安心してしまった。そして、そんな自分にやはり匠吾は自己嫌悪を抱いた。
彼の自己嫌悪は未だに彼の中で渦巻いている。匠吾は最近よく思う。自身の腕が衰えたのは、身体の老いよりも、この心を蝕む自己嫌悪にこそ原因があるのではないかと。
しかし、そんなことを考えても仕方がないことだ。今更、何をしても、何かが変わる事はない。何故なら、妻が亡くなった時に彼が思ったように、もう全ては終った事なのだから。
台所のテーブルには小さな鏡が置かれていた。そこに映る匠吾の顔には深いしわが刻まれ、顎は白い髭で覆われていた。切るのが面倒で、伸ばしっぱなしにして、後ろで束ねている髪も、今では殆ど黒い毛は残っておらず、白髪ばかりが目立つようになっていた。
肉体は老い、精神も蝕まれ、最早この老骨には何も残っていないのだ。
ならば、後は朽ち果てるのを待つだけだ。
――そう、思っていたのだ。
翌朝、匠吾はけたたましい電子音で目を覚ました。手探りに目覚まし時計を探し出し、そのボタンを押すも、音は一向に止む気配がない。そこで彼はハタと気づく。これは目覚まし時計の音ではない。
彼が最近よく寝台代わりに使っている居間のソファから起き上がったところで、その音は止んだ。彼は寝ぼけた頭で、先ほどまで聴こえていた音が何の音だっただろうかと、思考を巡らせた。答えは直ぐに分った。それは電話の音であった。
彼は肌寒さに身を縮めながら立ち上がると、のそのそそと歩いて、電話機の下へと近付いた。
受話器を取り、
「はい、もしもし?」
と匠吾が答えると、電話の向こうから若い男の声が聞こえた。
『どうも、こちら○○警察署の者ですが、高坂匠吾さんのお電話で間違いないでしょうか』
知らない地名もさる事ながら、それ以上に警察からの電話が掛かってきたということが、匠吾を困惑させた。
「はい、そうですが……」
訝し気に匠吾が声を発する。この時、彼は詐欺の類だろうかと、警戒していた。
しかし、次に電話の相手が発した言葉が、そんな考えを霧散させた。
『――』
「そう、ですか」
男から伝えられた言葉に対して、彼はそう答えるほかになかった。
『――』
「はい。はい……分りました。直ぐに向かいます」
それから電話の向こうの警察を名乗る若い男は、幾つかの必要事項だけを、通話は切れた。
電話を終えた匠吾には、相手が何を話していたか、自分が相手に対して、何と答えたのか、殆ど覚えていなかった。しかし、確かにはっきりと覚えている部分があった。
電話の相手は、匠吾に対して、こう言ったのだ。
――高坂明美さんが、亡くなりました、と。
それは、匠吾の娘の名前だった。
匠吾が警察署に赴き、受付で事情を説明すると、直ぐに係の者がやってきて、霊安室に通された。薄暗い霊安室に入ると、無機質な寝台の上で、布を被せられて横たわっている人型の像が眼に入った。そして、その横には中学生くらいの少女が、無表情で佇んでいた。
「失礼、あちらのお嬢さんは?」
匠吾は自分を案内してくれた警察官に、小声で問い掛けた。
警察官が訝しげな顔を浮かべながら、問い返す。
「お孫さんではないのですか?」
この言葉に匠吾は驚いた。彼はこの時初めて、自分に孫がいる事を知ったのだ。しかし、いつまでも動揺している訳にも行かないので、彼は絞り出すように言葉を紡いだ。
「……娘とは、もう何年も連絡を取っていなかったもので」
「そう、ですか……それは、失礼致しました」
気まずい沈黙から逃れるように、匠吾は寝台へと近づいた。
「……布を外しても?」
「はい。お辛いなら、無理に見なくとも……」
「いえ、大丈夫です」
どうせ、葬儀などでは見る事になるのだ。なら、早いに越した事は無い。
そう思い、彼は目の前に横たわる人物の顔に掛けられた布を捲った。
そこにいたのは、紛れもなく彼の娘であった。最後に見た時に比べれば、随分と吹けて見えたが、それも当然の事である。何せ、彼が最後に娘の顔を見たのは、彼女が高校生の頃のことだったのだから。それでも、匠吾は目の前で目を瞑り、横たわっている人物が、自身の娘である事が分かった。彼は娘の遺体の前で、沈かに合掌をした後、再び布を被せた。
それから匠吾は彼の正面に立つ少女へと目を向けた。彼の視線に気付いたのか、少女は顔を上げ、匠吾の目を見た。鋭い目つきの少女であった。それが生まれつきなのか、或いは母親の死が、彼女の顔を険しくさせているのか、匠吾には判別が付かなかった。
「俺は高坂匠吾という。高坂明美の父親だ。つまり、君の祖父に当たる人物だ」
匠吾は自分で言っておいて、どこか他人事のような自己紹介であると思った。しかし、今まで会った事すらない相手に、いきなり「君のおじいちゃんだよ」など馴れ馴れしく言われては、向こうも混乱するだろうと思い。彼はそのままの口調で、目の前の少女に問うた。
「君の名前は、何というんだ?」
その問いに、少女は答えるべきか、僅かに逡巡しているような素振りを見せた後、ゆっくりと口を開いた。
「高坂椿、中学一年生……です」
高坂椿、それが匠吾の孫の名前だった。
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