落ちこぼれの剣士はスキルを模写して無双する。
Dr.にゃんこ
第1話
森の中に、一本の丸太が横たわっていた。苔むした表面は長年の風雨に晒されて滑らかになり、ちょうど人が腰掛けるのに良い高さだった。その丸太の上に、一人の若者が座っていた。
彼の名はカイル。年の頃は十八か十九といったところだろうか。制服の袖口はほつれ、膝には擦り傷の跡が残っている。そんな彼は今、頬に手を当て、深いため息を吐いていた。
「はぁ……」
その吐息は、森の静寂に溶けていく。木々の間を抜ける風が、彼の茶色い髪を揺らした。
カイルが通っているのは、この国で最も権威ある教育機関の一つだった。正式名称を「国立剣技学院」という、剣士を育成するための学校だ。そこでは、剣の技術はもちろん、魔法の基礎、戦術理論、そして実戦における立ち振る舞いまで、戦士として必要なあらゆることを学ぶ。卒業生の多くは騎士団に入るか、冒険者として活躍するか、あるいは貴族の護衛として雇われていく。
そんな学院で、今まさに重要な時期が迫っていた。
卒業である。
より正確に言えば、卒業を決める試験が、あと三日後に迫っていたのだ。
この試験は「卒業試験」と呼ばれ、学院の伝統として何十年も続けられてきたものだった。内容はシンプルだが過酷だ。生徒たちは三人一組のチームを組み、他のチームと戦う。勝ち残ったチームだけが卒業できる。敗れたチームは、もう一年学院に残るか、あるいは退学するかの選択を迫られることになる。
つまり、チームメイトを見つけられなければ、そもそも試験にすら参加できない。
そして、カイルには、まだチームメイトがいなかった。
「三日後か……」
彼は再びため息を吐いた。学院の寮では、すでにほとんどの生徒がチームを組み終えている。廊下では、仲間同士で作戦を練る声が聞こえてくる。食堂では、チームごとに集まって食事をする光景が当たり前になっていた。
カイルだけが、一人だった。
それには理由があった。
この世界では、剣を振るえることは当たり前のことだ。幼い頃から木刀を握り、基礎を学び、やがて本物の剣を手にする。それが普通の流れだ。そして学院に入る頃には、誰もが基本的な型を身につけ、簡単な魔法も使えるようになっている。
しかし、カイルは違った。
剣を振ることはできる。力任せに振り下ろすことなら、誰よりも力強くできるかもしれない。だが、基本の型となると、まるで身につかなかった。教師が何度教えても、体が覚えてくれない。足の運び方、腰の入れ方、剣の角度——どれも頭では理解しているはずなのに、実際にやろうとすると体がバラバラに動いてしまう。
魔法に至っては、もっと深刻だった。この世界では、ほとんどの人間が多少なりとも魔力を持っている。炎を灯す程度の簡単な魔法なら、子供でもできる。しかし、カイルにはそれができなかった。魔力がないのか、あるいは使い方が分からないのか。理由は分からないが、結果として、彼は魔法を一度も発動させたことがなかった。
そんな状態で三年間、彼は学院に通い続けた。
周囲からは「落ちこぼれ」と呼ばれ、時には嘲笑され、時には憐れまれた。教師たちも、最初こそ熱心に指導してくれたが、次第に諦めたような顔をするようになった。
そして今、卒業試験を三日後に控えて、誰も彼とチームを組もうとはしなかった。
当然のことだ、とカイルは思う。誰だって卒業したい。誰だって、勝てるチームに入りたい。基本の型もできず、魔法も使えず、これまで一度も魔物を倒したことがない男を、チームに入れたいと思う者などいるはずがない。
「せめて……せめて一匹でも魔物を倒せれば……」
カイルは呟いた。魔物を倒した実績があれば、少しは信頼してもらえるかもしれない。もしかしたら、誰か優しい生徒が声をかけてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、彼は今日、学院を抜け出してこの森にやってきたのだった。
学院の近くには、いくつかの森が広がっている。その中でも、この森は比較的安全だとされていた。現れる魔物も弱いものが多く、初心者の訓練場としてよく使われている。
カイルは立ち上がった。
「いくかー」
自分を鼓舞するように、声に出して言った。しかし、その声には力がなかった。
「まだ間に合うかもだし……」
そう呟いて、自分を宥めるように言い聞かせる。だが、心の奥では分かっていた。三日後に迫った試験に、今さら間に合うはずがない。たとえ今日魔物を一匹倒したところで、それで状況が劇的に変わるわけではない。
それでも、何もしないよりはマシだと思った。
カイルは腰に差した剣に手を触れた。柄の感触が、少しだけ心を落ち着かせてくれる。この剣は、学院に入学した時に支給されたものだ。刃こぼれ一つない、よく手入れされた剣。それが彼の唯一の相棒だった。
森の中を歩き出す。
木々の間を抜ける風が、頬を撫でていく。鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。足元には落ち葉が積もっており、一歩ごとにカサカサと音を立てる。
「魔物さえ倒したことないしな……」
ぽつりと、自嘲気味に呟く。口元には、笑いとも呼べない、歪んだ笑みが浮かんでいた。
学院の生徒の中で、魔物を倒したことがない者など、カイルくらいのものだろう。他の生徒たちは、一年生の時から実習で魔物と戦い、経験を積んできた。二年生になる頃には、一人で森に入って魔物を狩れるようになる。三年生ともなれば、複数の魔物を相手にしても余裕で勝てる。
だが、カイルは違った。
実習では常に足手まといで、いつもチームメイトに守られていた。一人で森に入る勇気もなく、結局、魔物と直接戦う機会を得ることはなかった。
それが、今の彼の現実だった。
「せめて一匹でも……」
再び呟く。その言葉は、祈りに近かった。
森の奥へと進んでいく。日差しが木々の隙間から差し込み、地面に斑模様を作っている。カイルは慎重に周囲を見回しながら歩いた。いつ魔物が現れてもおかしくない。心臓が早鐘を打っている。
その時だった。
すぐ横の茂みが、不意に揺れた。
カイルの体が、反射的に反応した。腰の剣を抜く。金属の擦れる音が、静寂を破った。
茂みは、まだ揺れている。何かがそこにいる。何かが、今にも飛び出してこようとしている。
カイルは剣を構えた。手が震えている。呼吸が荒くなる。これまで訓練では何度も剣を構えてきたが、実戦となると話は別だった。本物の魔物が相手なのだ。
数秒が、永遠のように感じられた。
そして——
茂みから、黒い影が飛び出した。
それは、四本足の獣だった。全身が黒い毛に覆われ、鋭い牙と爪を持っている。大きさは大型犬ほど。目は赤く光り、低い唸り声を上げている。
カイルは、その生き物を知っていた。授業で習ったことがある。
これは、この森に生息する魔物の一種だった。正式な名前は、すぐには思い出せない。だが、その特徴は覚えていた。この魔物は、獰猛で素早く、そして非常に狡猾だと言われていた。
「厄介だから気をつけろよ」
そう教師が言っていたのを思い出す。その時、教師は何という名前を言っていただろうか——
ファングウルフ。
そうだ、その名前だった。牙を持つ狼という意味の名前を持つ、この森では中程度の危険度を持つ魔物。
カイルの心臓が激しく鼓動する。
ファングウルフは、カイルを睨んでいる。しかし、すぐには襲いかかってこない。まるで、獲物の力量を測るように、じっとこちらを観察している。
カイルは剣を構え直した。両手で柄を握る。手のひらに汗が滲んでいるのが分かる。
ファングウルフは、まだ動かない。
緊張の時間が流れる。
そして——次の瞬間、ファングウルフが動いた。
地面を蹴り、一気にカイルへと飛びかかってくる。その速さは、想像以上だった。訓練用の人形とは、まるで違う。これが本物の魔物の動きなのだと、カイルは思い知らされた。
だが、ファングウルフは途中で止まった。カイルの目の前、あと数歩というところで急ブレーキをかけ、横に跳ねる。
フェイントだった。
カイルが剣を振るうのを待っているのだ。隙を見せたところを狙おうとしている。
「……くそ」
カイルは動けなかった。どうすればいいのか分からない。授業で習った戦術が頭の中を駆け巡るが、実際に体を動かすとなると、何一つ思い出せない。
ファングウルフが、また動く。
今度は反対側から接近してくる。そしてまた、途中で止まる。カイルの周りを、まるで踊るように動き回る。
じりじりと、距離を詰められていく。
カイルの額に、汗が滲む。このままでは、いずれ隙を突かれて攻撃を受けてしまう。
動かなければ。
何かをしなければ。
ファングウルフが、三度目の接近を試みた。
そして——今度こそ、本気の攻撃だった。
鋭い爪を振りかざし、カイルの喉元を狙って飛びかかってくる。
カイルの体が、考えるよりも先に動いた。
剣を、振り下ろした。
「今までだるくて——」
剣が、ファングウルフの首筋に食い込む。肉を裂く感触が、手に伝わってくる。
「やらなかったけど——」
ファングウルフが、苦しげに暴れる。爪が空を切り、牙が虚空を噛む。だが、カイルの剣は深く食い込んでいた。
「流石に逃げられねぇよ!」
力を込めて、さらに剣を押し込む。
ファングウルフの動きが、止まった。
そして、地面に倒れ込む。
体が、小刻みに痙攣する。足が、何かを掴もうとするように動く。だが、それもやがて止まった。
完全に、動かなくなった。
カイルは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
息が荒い。心臓が早鐘を打っている。手が震えている。
だが——勝ったのだ。
魔物を、倒したのだ。
「……案外、いけるかも?」
カイルは呟いた。そして、剣についた血を草で拭い、鞘に収めた。
森の静けさが、また戻ってきた。
鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。
カイルは、倒れたファングウルフを見下ろした。これが、彼にとって初めて倒した魔物だった。
小さな一歩かもしれない。
だが、確かな一歩だった。
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