第28話 すれ違った日々に終焉を
泣きながら走った道を、もう一度駆け抜けた。
悲しみや苦しさ、やるせなさはもう残っていない。今度は、あふれる想いをちゃんと伝えるため。
彼に会いたい一心で、つまずきそうになりながら懸命に走る。
──お願い……! まだ、いて……!
風を切る音が耳をかすめて、足音が地面に響く。
そうして走り続けて、視界の先にあの温室の屋根が見えた。その中には──硝子に透けたあの人の姿。
一瞬だけ足がすくむ。けれど。私は、もう逃げないと決めたから。
大きく息を吐いて、扉に手をかけた。
「アレックス様……!」
声を張り上げた瞬間、彼の肩がわずかに動いた。けれど、振り返らない。
温室の中に沈黙が落ちた。
「なんで……戻ってきた」
背中越しの低い声。淡々としているからこそ、胸が締めつけられる。
その言葉の裏には、怒りとも哀しみともつかない感情が滲んでいた。
「……話したいことがあるんです」
「話? あれ以上に、何を?」
アレックス様の背中は、微動だにしなかった。凍てついたような佇まいに、喉がからからに乾く。
それでも、もうこの気持ちから目を逸らすことなんて、できやしない。
「私……嘘をつきました」
「嘘?」
「はい。私は……アレックス様と関係を解消したいなんて、本心では思っていません」
声が震えて、目頭が熱くなっていく。いまにも涙がこぼれそうだ。
でも、それでもいいと思えた。
ずっと憧れていた人も、初めて恋を自覚した人も、この先もそばにいたいと思った人も──全部、アレックス様。
涙が流れるように、私の素直な気持ちも少しずつほどけていけばいい。
「ほんとうは……離れたくなかったんです。身分や立場が違っても、どんなに遠い人でも……あなたと一緒にいたいんです」
ようやくアレックス様が振り返る。
蒼い瞳は今まで見たことのないくらい儚く、そして夜空に瞬く星々のように煌々と輝いていた。
「だから……嘘をついて、ごめんなさい」
その言葉の途端──アレックス様が迷わず私を抱きしめた。
ぎゅっと包まれた温もりに、身体の力が抜けていく。自然と身を預け、彼の胸元に顔をうずめた。
あたたかさに触れた安心と愛おしさが一度に押し寄せて、ついに涙があふれた。
「お前が俺を思って言ったことくらい、わかってた」
「……はい」
「でも、それでも腹が立った。勝手に決められて、置いていかれて……どうしていいか、わからなかった」
彼の声は、怒りでも呆れでもなく──同じ痛みを抱えた人のものだった。
「もう、置いていかないでくれ」
「……はい。もう二度と、離れません」
小さい頃からずっとそばで支えてくれた人が、今も私を抱きしめてくれている。心も身体も、幸せで満たされていった。
「私のことを見ていてくれたのは、アレックス様だったんですね」
「やっと気づいたか」
「遅くなってごめんなさい」
「どうせ、兄と勘違いでもしていたんだろ」
「そっ、それは……」
「見てたらわかる。お前は、わかりやすいから」
アレックス様は少しだけ肩をすくめて、けれど穏やかに笑ってみせた。
「どうして……言ってくれなかったんですか?」
「守りたかったから。シェリルが混乱したり、傷ついたりするのを、あの頃はただ避けたかった。そうしているうちに、言えなくなっていった」
言葉の端に、ほんの少し幼さと真剣さが混じる。
「だから偽装夫婦の話が来たときは、二つ返事で引き受けた。好機だと思ったんだ。やっと向き合えるチャンスが来た、と」
あの頃はまだ私に対して嫌味やいじわるな顔ばかりで、「どうしてこの話を受けたんだろう」と疑問に思っていた。それが、今になって腑に落ちる。
「関係を続けていく中で、絶対にシェリルを振り向かせてみせる。そう思っていたのに……先走っていた。契約の意味も忘れるくらい、浮かれてたんだ」
「そんなの……! 私だってドキドキして、気がついたらアレックス様のことでいっぱいで……!」
言いながら、自分でも顔が熱くなるのがわかった。跳ねる鼓動が、ふたりの間で小さく響く。
身体を離したアレックス様は私の手を握りしめて、ゆっくりと息を吸った。
「引き受けた理由は、もう一つある」
「もう一つ?」
「お前が、俺ではない他の誰かの妻になるなんて許せなかった。たとえ偽装でも。契約でも」
綺麗な蒼い瞳が私を捉えて離さない。嘘偽りのない、まっすぐな告白。彼の想いと、手のひらから伝わる彼の熱が全身を駆け巡った。
「私も……アレックス様以外なんて、考えられません」
あふそうになる想いを言葉に変える。
「私、アレックス様のことが……」
言い切るより早く、アレックス様の指先がそっと私の唇に触れた。
「その続きは、全部終わってからな」
そう囁いた声は、甘やかだけど優しい。触れた指先から伝わる鼓動に、言葉以上の約束を感じた。
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