未来で神様は猫を被った。

 ーー*日野未来*ーー 

 

 ──彼がいる、目の前に…。


「翔楼…」


 ようやく果たした再会に、思わず口角が緩む。

 いやまぁ、数カ月前にも会ってるのだけれど、あのときは猫の姿だったし…神様だって偽ってたし…。

 どうあれ、こうして再会できたことに、私の気分は浮き足立っていた。

 自然と両足は彼を目掛けて、弾むように前進を始める。

 

「翔楼!」


 最中、翔楼に置き去りにされた恨みつらみが、沸々ふつふつと脳裏に蘇る。

 …うおぉぉおお!思い出したら腹立ってきた!

 その激情をぶつけるが如く、私は無意識に拳を突き出した。


「オラッ!」

 

「ぐふっ!?」


 感動の再会は何処いずこへ。

 伸びた私の右ストレートは、油断した翔楼の右頬に綺麗に吸い込まれた。体重の乗った渾身の一撃は、大の男に尻もちをつかせるには十分な威力があった。

 

「ヒノノーン!!?」


 予期せぬ展開に、ミミちゃんは悲鳴にも近い声を上げて絶句。

 茶待君に至っては「あちゃぁ…」っと、額に手を当てて頭を抱えていた。

 前回は猫の姿だったから見逃したけど、前々から次に顔を合わせたときは、こうしてやろうってずっと考えていたんだ。

 その綺麗な顔に一発キツイの食らわせてやるってね。

 多少はスッキリできたけれど、鬱憤は思った以上に溜まっていたらしい。

 私はそのまま馬乗りになって、ぐつぐつに煮えたぎった思いを彼の胸ぐらを掴んで吐き出した。


「なんで!言わなかったんだ!」


 私の言葉、集った面々。

 すべての真実が喝破かっぱされたことを、翔楼は現状から察しただろう。

 ミミちゃん、茶待君、そして彼の記憶では、神様ヒマワリと認識されているであろう無名さん。

 みんなを順に目でなぞっていくと翔楼はしらばくれるでもなく、私の目を見つめてやるせない表情を浮かべた。


「君に…そういう顔をさせたくなかったからに決まってるじゃないか…」


 そういう顔だと?誰のせいでこんなしわくちゃな顔をしてると思ってるんだ。

 

「そんな理由で勝手に一人でいなくならないでよ!」


「仕方ないだろ…こうする以外の方法が、僕には思い浮かばなかったんだ」


「そんなのっ!翔楼は頭がいいんだから、考えればいっぱいあったでしょ!?どうしてよりによって、一人で抱え込んじゃうような真似しちゃったの!ちゃんと私に相談してよ!そうしてたら私はっ──」


「そうしたら未来は、どこまでも僕についてきてしまうだろ…」


 私の言葉を遮って、彼は以前と変わらない冷静な物腰で続けた。

 

「老い先短い僕なんかのために、君の貴重な時間を浪費させたくなかったんだ。だからいさぎよく身を引いた。たとえ未来を傷つけることになったとしても、その先で君が幸せになれるのなら、僕はそれで良かったから…」


「私の幸せのため?ふざけんな!思い上がるな!私の幸せは私が決める!そこには、翔楼もいなきゃダメなんだよ!」


 途端、翔楼はグッと奥歯を噛み締めた。


「だから!それが無理だとわかったから、こういう選択をしたんじゃないか!」


 段々と翔楼のクールな装いは崩れ、その言葉の節々に感情が乗っかっていく。怒りかや哀しみと情けなさやらでぐちゃぐちゃになった思いが、彼の表情から滲み出ていた。


「時間がなかったんだよ…。最後にすべきことしなきゃって…僕なりに精一杯考えたんだ」


「あれが精一杯考えた結果!?残された人のことをなにも考えてないお粗末な案だね。秀才が聞いて呆れるよ」


「仕方ないだろ、僕だって悩んだんだ。もうすぐ死ぬだなんて、どうやって切り出せばよかったんだよ!どう転んだって、君を悲しませてしまうじゃないか!」


 すべては私の幸福を願って。翔楼の行動原理は至極単純だった。

 だけどそこに、私の意思などは考慮されていない。

 終わりよければ全てよし。私を幸せにする力とやらを、翔楼は持ち合わせていなかった。

 だから翔楼は願ったのだろう。彼が去ったあとで、私が早々に新しい幸せを見つけ出すことを。

 

「でもそれで翔楼は満足できた?この選択でいいって、本当に納得できたの?」


 翔楼は歯噛みしながら、首をふるふると横に振った。


「当時はこれでよかったと思った。いや…自分に言い聞かせてたんだ、この選択は間違ってないって…。でも今は凄く後悔してる。だって君は……」


 そこから先の言葉を、翔楼は口にすることを躊躇った。

 言葉にしたくもないだろう。

 彼の思い描いた未来図はヒラリと手を離れて、一切の光が届かない深淵へとあっけなく沈んでしまった。

 翔楼の願いとは裏腹に私に待ち受けていたのは、幸せとは程遠い非業の死だったのだから…。

 あんな展開は誰にも予期できなかった。

 翔楼にも、もちろん私自身にも…。

 だからといって、私が不幸になったかと言うと断じて違う。

 無名ナナシさんと出会えた。雫ちゃんに出会えた。

 それにミミちゃんに茶待君、翔楼とちゃんと再会を果たすことができた。

 奇跡のような二度目の人生。こんなチャンスをもらえた私が、幸福じゃなかったなんて言えようか。

 否…断言する。

 

「それでも、私は幸せだよ。だってこうして、また翔楼に会えたんだから」


「なんでだよ…僕は君を置いていったんだぞ。それなのに、なんでまだ追いかけて来るんだよ…」


「そんなの、大好きだからに決まってるじゃん」


「なんで嫌いにならないんだよ…」


「嫌いになんて…ならないよ」


 翔楼は自身が下した選択を呪っているのだろう。後悔しているのだろう。しかし時間は巻き戻らないし、いまさら結末が覆ることもない。

 それでも揺るがない私の思いに、彼の瞳からは戸惑いの色がこぼれた。

 恨まれてると思っているのかな?そんなわけないじゃないか。

 私の死は自分で招いたもの、誰のせいでもないのだから。

 …それに何だその顔は?こんなに一途な彼女を持って、やっほーい!って喜ぶところでしょうが。…まったくもう…。

 ともあれ落ち着きを取り戻した私は、一呼吸置いて、改めて翔楼に真意を尋ねる。


「ねぇ教えて、翔楼は本当はどうしたかった?私のためとかそういうのじゃなくて、翔楼自身の願いを聞かせてよ」


 

 ーー*木ノ橋翔楼*ーー



 未来が僕を選んでくれたあの日から、たったひとつの目標に向かって生きていくことを胸に誓った。


──未来を幸せにする。


 誰かを幸福にしたいなんていう、至極ありふれた願い。自分でも、慎ましい目標だとは思っている。

 一生に一度の人生、せっかくなら夢はおっきく!なんて言う人もいるけれど、僕はこれで十分なんだ。

 僕がこれほど寡欲かよくなのは、僕の根底に両親の死が大きく影響を及ぼしているのだろう。

 人生は何が起こるかわからない。

 だからこそ、切実に、堅実に、愚直に、実直に、着実に──

 大金なんて望まない。地に足ついた生活ができればそれでいい。

 もともと努力家な僕だ。

 裕福…とまではいかなくとも、未来を養えるくらいには僕が精進するつもりでいたんだ。

 将来設計もそれなりにできていた。

 大学を卒業後、そこそこ有名な企業に就職。生活とお金に余裕がでてきたら、未来にプロポーズして結婚するんだ。当然、子供も欲しいと考えていた。

 少なくとも二人、男の子と女の子が一人ずつ。きっと未来に似て可愛いんだろうな。

 そう考えると、まだまだ先のことだとわかっていても、夢のような生活に心が躍って、思い浮かんだ子供の名前を将来ノートに書き綴っていた。

 将来、僕は親バカになるんだろうな。なんて考えたりもした。

 しかし、そんな些細な望みすら病気をきっかけに潰えてしまった。

 さらにそこに、彼女の死が追い打ちをかける。

 僕の心はパリンッとヒビ割れ、気づけばサラサラな砂塵になるまで砕け、すり潰されていた。


 そうさ。

 僕は自分の下した選択を後悔している。

 死の危険は至る所に存在している、そのことを誰よりも知っていたはずなのに、その脅威から未来を守ることができなかった。

 僕より状況が悪くなることなんてない、だから彼女の未来はきっと明るいはず、そう楽観視してたんだ。

 本当に、自分の愚かさに嫌気が差すよ。

 なにが秀才だ。結局は、この世の不条理を前に、僕という凡人はどうすることもできない、あまりに無力な人間だ。

 どうするのが正解だったのか、に辿り着くまでの間、ずっと苦悩を繰り返していた。

 

──愛しい彼女の鉄拳が、僕の右頬を穿つまで…。


 死んだはずの彼女を前にして、とうとう死後の世界への迎えが来たのだと素直に思った。

 同時に、心の奥底に沈めたはずのかつての思いが、ブクブクと勢いよく浮上を開始して、一瞬で胸が熱くなった。

 殴られたのは仕方ない。未来の表情が険しくなったのを見て、そう来るだろうなとすぐに覚悟はしたよ。それだけのことを僕はしたんだ。この痛みは甘んじて受け入れるよ。

 彼女の様子と口振りから察するに、すべてを知られてしまったようだ。

 おそらく、傍らにいるヒマワリが、すべての秘密を暴いたのだろう。

 ミミと茶待にも、僕が見えていることに驚いた。

 神様の不思議な力とやらで、ヒマワリがなにかしたのかな?


「翔楼自身の願いを聞かせてよ」

 

 口論の末、平静を取り戻した未来にそう言われ、僕は自分自身の心に耳を傾けた。

 思えば病気になってからというもの、彼女の幸福を願うあまり、自分自身のことは二の次にしてきた。

 余命幾ばくの人生故に、自分のことに関しては諦めがついていたんだ。

 願ったところで、どうせ叶うことはない。望んだところで、これ以上は我儘わがままになるだろう、と。

 それでも、ささやかな願望があることにはあったんだ。

 未練にも近い、なけなしの願いが…。

 また質素な願いだと呆れられるかもしれない。

 それでも、胸に秘めたこの思いと、もう一度向き合ってみようと思う。


「僕は…」


 ただ、未来の隣を歩いていたかった。

 君の笑顔を近くで眺めていたかった。君と言葉を交わしていたかった。

 君の手に触れていたかった。君をもっと知りたかった。君の温もりを感じていたかった。

 君とまたゲームがしたかった。君と喜びを分かち合いたかった。 

 君ともっとデートがしたかった。お互いの服を選ぶのもいいよね。

 君とご当地グルメを食べたかった。ふんわりかき氷が食べたいって、君は言っていたね。

 君と結婚がしたかった。君の愛妻弁当を食べてみたかった。

 君と家庭を築きたかった。君と子育てがしたかった。君と子供の成長を見守りたかった。

 君と孫の顔が見たかった。君と感動を共有したかった。

 そして最後には、君と老いて死にたかった。

 生きるという人の基礎の中で、知らないうちに通り過ぎているかもしれない、ありふれた日々の通過点。

 そんな他愛ない日常を、僕は密かに望んでいたんだ。

 すべてを失ったからこそ言える。

 もっと、今を大事にすればよかった、と…。

 

 それでも僕たちは再会を果たした。

 これがヒマワリの力による、泡沫のような淡い奇跡であることくらい、なんとなくわかる。

 どうせ、僕がいなくなった真実は暴かれているんだ。今更、恥も外聞もない。

 ならばすべてを曝け出そう。

 軟弱な男だと思われてもいい。もう後悔はしたくないんだ。

 最後くらい、本心で未来と向き合いたい。

 すべてをひっくるめた純粋な願いを、僕は今…涙と共に言葉にする。

 

「僕は…僕はもっと…ずっと、君と一緒に生きていたかった」

 


 ーー*日野未来*ーー



「うん。私もだよ…」


 翔楼の切望が明かされたことに、私はようやく頬をほころばせることができた。

 結局のところ、私たちの思いも願いも同じ方向を向いていたんだ。

 病気なんて弊害がなければ、翔楼がいなくなることもなかっただろう。

 自分よりも私の未来を案じた末に、お互いにすれ違ってしまったのだ。

 でもこうして、運命は再び交差した。

 残り少ない時間、果たされた再会、吐露された本心。

 もう私に未練はなかった。


「おい…翔楼。お前それ…」


 茶待君の困惑した重い声が、おもむろに背後から響く。

 何事かと辺り見渡すと、淡くきらめく不穏の影が翔楼の周囲に忍び寄っていた。

 不穏の影と言っても、それは正確にまったく反対と言ってもいい淡い光の揺らめきだった。

 死にゆく者の魂を来世へと導く輪廻の理、命海の光が翔楼の周囲をユラユラと漂っていたのだ。

 

「これ、さっきと同じ…」


「ソウカ…。ソウイウコトダッタノデスネ…」


 困惑するミミちゃんの背後から、何か腑に落ちた様子の無名ナナシさんがゆっくりとした足取りで出てくる。

 そして光の前で足を止めると、揺蕩う光の帯をゆっくりと見上げた。


「何故、青年ト雫ダケニ死者デアル彼女ノ声ガ聞コエテイタノカ、ズット不思議ダッタノデスガ。…ヨウヤク合点ガテンガイキマシタ」


「どういうこと?」


 不安の入り交じった怪訝な表情で、ミミちゃんは無名さんを見下ろす。

 無名さんは命海を覗き込むように凝視すると、猫耳をピクリと振るわせてかすかに顔色を曇らせた。


「雫モ彼モ…生キナガラ二、死ノ領域ニ足ヲ踏ミ入レテイタノデショウ。言ウナレバ、死ガ目前ニ迫ッテイタ。ダカラ死者デアル彼女ノ声ヲ、聞クコトガデキタノデス」


 力のない表情で茶待君が聞き返す。


「じゃあもう、翔楼は…」


「エエ……。少シ前カラ、下ノ階ガ慌タダシクナッタノガ聞コエテキマス。恐ラク、彼ノ眠ッテイタ病室カト…。命海ノ濃サヲ見ルニ、彼ノ命ハモウ…」


 そっか…。だから翔楼の元にも、命海の迎えが来たんだね。


「…………」


 そこで私は、翔楼の手が震えている事に気づく。怖いのだろう。恐ろしのだろう。死がゆっくりと手を伸ばしていることを、彼は魂で感じ取っているんだ。


「ほら、立って…」


 私は立ち上がりざま、翔楼の手を取って強引に立ち上がらせた。

 そして、病に奮闘してきた彼が少しでも死に怯えなくて済むように、恐怖を和らげようと彼の手を両手で優しく包み込む。


「大丈夫。私がついているからさ」


「どうしてそこまで…」


 困惑する彼を前に、私は息を整えて覚悟を決める。

 翔楼は本当の願いを口にしてくれた。

 一緒に生きていたかったって言葉にしてくれた。

 ならば私も本当のことを、今この場で打ち明けよう。


「言ったでしょ?」


 ずっと近くにいたんだよって……

 ずっと傍で見守っていたんだよって……

 貴方の思いはあの短い生活の中で、ぜんぶ伝わっていたんだよって、ここで伝えなきゃいけないんだ。

 

って」


 瞬間、翔楼は顔をくしゃくしゃに歪ませ、瞳からはポロポロと涙がこぼれた。

 

「そうか……そうだったのか…。君だったのか……」


 翔楼と日々を過ごした怪猫、ヒマワリ……。

 その正体は真実を探るために、猫の姿を借りて神様に成りすました私…。


未来ヒマワリ神様だったのか…」


 私が猫を被っていた事実に、彼はようやく気づくのだった。

 

「こんな…こんなに近くにいてなんて…。うっ…うぁ、未来ごめん!黙っていなくなってごめん!君を守れなくてごめん!あんな結末になるはずじゃなかったんだ!僕はただ、君に幸せになってほしくて!僕は…僕は!」


「もう、いい年して泣きすぎだよ」


「頑張ったんだ!僕が死んだあと、君に…未来に顔向けできるようにって!頑張ったんだ…」


「はいはい」


 子供のように泣きじゃくり、胸の内をここぞとばかりに吐き出す彼を、私は優しく抱きしめた。

 怒ったり、泣いたり、喜んだり、こんなに感情を表に出した翔楼を見るのは、これが初めてかもしれない。

 今なら、翔楼の考えていたことが少しわかる。

 当時、私を置いていなくなった翔楼に憤りを覚えたけれど、実際はそうじゃなかった。

 置いてけぼりなろうとしたのは翔楼の方だったんだ。

 置いていかれて、忘れ去られて、誰の記憶にも残らない。そういう道を翔楼は選んだんだ。


「わかったから、もう泣かないでよ」

 

 真実を追い求める私の旅路は、ようやく終わりを迎えた。

 改めて思い返してみると、あっという間に感じてしまう。

 翔楼との出会いを皮切りに始まったなんとも奇妙な友人関係。

 一緒にゲームを楽しんで勉強を時折見てもらう、字面だけで見るとありふれた関係だが、私たちの性格上、選択肢がひとつ違えば巡り合うこともなかっただろう。

 それでも、私たちは邂逅を果たした。

 ミミちゃんに茶待君、決して多くはないけれど数多の運命を巻き込んで…。

 偶然が何度も重なれば、人はそれを運命だと錯覚する。

 しかし運命が重なれば、それは必然なのだと確信する。

 そう…。

 私たちのこの結末は、きっと必然だったんだよ。


「翔楼君…」


 翔楼の涙が引いた頃、かすかに震えた声が恐る恐る翔楼を名を呼んだ。

 それは死別の瞬間が刻一刻と迫る中、最後の言葉を交わそうと勇気を振り絞ったミミちゃんだった。

 その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃ、せっかくの美人が台無しになっている。

 そんな彼女の呼びかけに、翔楼は不和を感じさせない、いつもの調子で面と向かう。

 二人は以前の別れ際に、決別と言っても過言ではない深いわだかまりが残ったと聞く。

 ミミちゃんが自責の念に駆られないよう、翔楼は普段通りで接しているんだ。

   

「翔楼君…ごめん。私、酷いこと言ってごめんなさい!」


 翔楼はふるふると首を横に振る。


「いいんだ、本当のことを伝えなかった僕だって悪いんだ。ミミが気に病む必要なんてないよ」


「でも…」


「それに、ミミは僕との約束…守ってくれたんだろ?僕の頼みを反故にせずに、最後まで果たしてくれたじゃないか。僕にはそれで十分さ」


 そう、笑って返す翔楼。

 約束とは何のことだろう?と、私は二人の会話を首を傾げながら聞いていると、不安も憂いも消えた瞳で、ミミちゃんは朗らかに頬を緩ませた。


「あんな約束がなくたって、私はヒノノンの助けたよ。だって…だもん」


 そう言って彼女は涙を拭った。

 約束の詳細はわからなかったけど、おそらく私関連だったのだろう。

 約束をしたしないに関わらず、ミミちゃんは最後まで私の助けになってくれたのだ。

 猫になった私にすぐに気づいてくれて、それからずっと寄り添ってくれて、憂いを抱えながら翔楼に謝るという目的のために、私と一緒にここまで来た。

 そうして彼女は、ようやく願いを成就させた。

 短い会話であったが、二人にはこれで十分だったのだろう。

 二人の間にあった溝は最初から存在しなかったかのように、ミミちゃんは清々しい表情で翔楼と向かい合っている。

 最後に二人が仲直りができて本当に良かった。

 

「茶待にも、いろいろ迷惑をかけたな。すまなかった」


「ホントだぜ、まったく…」


 今回、長きに渡って密謀の片棒を担がされた茶待君は、そのことを翔楼に深く詫びられ、小さく嘆息をついた。

 

「俺なんてヒマの正体を知ったの、ついさっきなんだぞ!まさか日野ッチが化けて戻ってくるなんて思いもいなかったぞ」


「なんだ、茶待も僕と一緒か」


「まあなぁ…。でもこうして、またみんなと顔を合わせることができて、俺は心底嬉しいよ」


「僕もだ」


 そこにミミちゃんは「うん!」と声を上げ、私もコクリと頷き、賛意を示す。

 もう揃うことがなかったはずの四人。それがなんの因果か、再び同じ場所に集うことができた。

 まぁ、私と翔楼は魂だけなんだけどね。

 なんにせよ、こうしてみんなと笑い合えたことが、私はたまらなく嬉しいのだった。


「そういえば女の子を見なかったかい?雫ちゃんって言う名前なんだけれど…」


 ふいに翔楼に尋ねられ、私たちは顔を見合わせる。

 雫ちゃんは翔楼のことを知っていたし、翔楼の口から彼女の名前が出るのはなんら不思議ではない。

 霊体同士、二人は唯一の話し相手だったのだろう。

 私や翔楼が見えるのなら、他のみんなも雫ちゃんが見えると踏んだのだ。

 すると茶待君に「なんだ?浮気か?」と茶化された翔楼は、あたふたと弁明を開始。久しぶりに取り乱した翔楼は、正直見ていて滑稽だった。

 私とミミちゃんは、思わずクスリと笑ってしまう。

 そして、


「雫ちゃんなら…先にったよ」


 私の言葉に翔楼は目を丸めたものの、すぐに彼は目を細めて「そっか…」と安堵の息を吐いた。

 翔楼がいなくなったら、雫ちゃんは一人になっていたのだ。

 翔楼なりに、彼女を気にかけていたんだろう。

 

「雫ちゃんは友達を待ってるって言っていたんだ。雫ちゃんを一人残してしまうことが心残りだったんだけど、友達というのは君たちのことだったんだね」


「そうだよ。それに雫ちゃんが教えてくれたの。翔楼が屋上にいるって」


「そうだったのか…。雫ちゃんは最初から全部知っていたんだね。君たちのことも、僕のことも…。だから僕とおしゃべりするとき、やたらニヤニヤしたり、もどかしい顔をしていたのか…」


 雫ちゃん、本当は言いたくてしかたがなかったんだろうなぁ。

 …最後まで私との約束、守ってくれたんだね。偉いよ!雫ちゃん!

 すると、雫ちゃんとの思い出に浸っていた翔楼がなにかに気づき、おもむろに表情が険しくなった。

 

「ごめん…。どうやら時間がもうないみたいだ」


 周囲を揺蕩う光の帯は一層輝きを増し、翔楼の命の灯火は今まさに終わりを告げようとしていた。

 別れの時が近づく中、名残惜しいと言わんばかりに、みんなは一斉に顔をしかめた。

  

「私はもっとヒノノンと一緒にいられると思ってた。楽しい時間って本当にあっという間だね」


 僅かな沈黙を破って、ミミちゃんはこれまでの旅路をしのぶように言う。

 なんだかんだ言って、猫になった私と一緒にいた時間が長いのは、無名ナナシさんに次いでミミちゃんだ。

 これが二度目の別れになる。辛いはずだ。

 ミミちゃんの物寂しげな表情を見ると、私も寂しくなってくる。

 しかし、今回は突然の別れじゃない。

 私たちは最後の言葉を送り合える。ちゃんと『さよなら』が言えるんだ。

 それだけで、なんの思い残しもなく、新たな一歩を踏み出せる。

 そう…。

 過去に囚われていた私たちは、これでようやく未来へと進めるんだ。

   

「そうだねぇ、私も楽しかったよ。猫になれるなんて経験、一生に一度、あるかないかだしね!」


 そう言って無名さんに視線を向けると、横から「いやねぇだろ…」と茶待君の呆れたような指摘が入る。みんなも、釣られて笑ってしまう。

 たしかに、こんな奇跡を経験できたのは、あのとき私が助けた猫が無名ナナシさんだったからだ。

 猫の恩返しなんて展開は、そう簡単にあるわけがない。

 そんな二度目のチャンスをくれた無名ナナシさんに、感謝の気持ちでいっぱいだ。

 私は膝を折って、足元に座る無名ナナシさんに顔を近づける。


クノデスネ」


「ここまで来られたのも、無名ナナシさんのお陰だよ!ありがとう!」


「私ニ礼ナド不要デス。モトヨリコレハ恩返シ、貴方ノ…タメナラバ……」


 ふいに無名ナナシさんは言葉に詰まる。


無名ナナシさん?泣いてるの?」


 見ると無名さんの小さな瞳から、ポロポロと大きな涙が伝っていた


「年ヲ取ルト、涙脆クナッテ仕方ナイデスネ。ドウヤラ私ハ自分デモ思ッテイタ以上ニ、貴方タチトノ過ゴシタ日々ヲ、楽シイト感ジテイタヨウデス…」


 彼女にとって、私を助けることは恩返しに他ならなかった

 だけど、私たちと共に過ごした日々を経て、無名ナナシさんにも絆が芽生え、この別れを惜しみ、悲しんでくれている。

 それが嬉しくて、私は目頭が熱くなった。


「コノ日々ガ、ズット続ケバイイノニノト思ッテシマウ私ガイマシタ。ナガラク一人ダッタ私ニトッテ、誰カト一緒ニイルコトガ心地良カッタノデショウネ。コンナ気持ヲ抱イタノハ、何百年ブリノコトデショウカ…」


「そんな風に思ってくれて、私は嬉しいよ」


「デスガ、ソンナ楽シカッタ日々モ…終ワッテシマウノデスネ」


「名残惜しいけどね。でもさ、私たちは知ってるでしょ。たとえ生まれ変わって、すべてを忘れてしまったとしても、実はこれが終わりじゃないってことをさ。無名さんは生まれ変わっても、私たちのことを憶えていられるんでしょ?」


「エエ…。デスガ永遠デハアリマセン。命海ノ漂泊ノチカラニ、私モズット抗エルワケデハアリマセンカラネ」


「それでもいいの。私たちのことを少しでも永く、無名ナナシさんに憶えていて欲しいんだ。それでさ、もしまた来世で巡り合うことができたら、私たちに聞かせて欲しいの。私たちは前世で、こんな素敵な出会いを果たした、最高の友達だったんだよっ…て」


 無名ナナシさんは猫髭をしなびかせ、自信なさげにうつむいた。


「ソノ時マデ、貴方タチノコトヲ憶エテイラレルデショウカ…」


「そんなに気負わなくてもいいよ。そだ!私、ずっと考えてたことがあったんだ。少しでも永く、この出来事を……私たちのこと…無名さんが憶えていられるようにって!」


「……?」


 無名さんは顔を上げると、キョトンと首を傾げた。

 私はフフンと鼻を鳴らしながら、得意満面に言う。

 

無名ナナシさんの新しい名前だよ!無名ナナシさんが良ければだけどね!」


「ホウ…。前ニモ言イマシタガ、私ノ審査ハ厳シイデスヨ」


「フフン、ちょっと自身あるだよね」


 無名さんに相応しいと思う、意味があって品のある名前。あの名付け大会のときから、私なりにずっと考えていた。

 生と死の永劫輪廻を繰り返してきた無名ナナシさん。

 生まれては死に、芽吹いては枯れ、始まっては終了する……。

 それは人であったり、あるときは虫であったり、あるときは植物であったり、あるときは竜であったりと大変だったことだろう。

 しかし、根底はどれも変わらない。

 姿が異なろうと、種が違おうと、それはどれも無名ナナシさんなのだから。

 そうやって、彼女は多くの出来事を見届けてきた。そして、これからも数多の奇跡をたりにするのだろう。

 そんな無名ナナシさんの人生を、私は花のようだと思ったんだ。

 自身が何者かわからずとも、衝動のまま懸命に生き、そして朽ちて尚、いずれまた咲き誇る。

 彼女の人生を、私の大好きな花にちなんで──


向日葵ひまわり、なんてどうかな?私が正体を隠すために使っていた名前だけど、この名前は無名ナナシさんにこそ相応しいと思ったんだ。きっと貴方はこれからも、たくさんの人生を見届ける。それはきっと太陽のようにまぶしくて、だけどどこか儚くて…」


「タシカニ人生トイウノハ、美ツクシクモ儚イモノデス。未来トハ先ノ見エナイ暗ガリノヨウナモノ。ダカラコソ、今トイウ確カナ命ノ灯火トモシビヲ懸命ニ燃ヤスシテ、未来トイウ不確カナ暗ガリヲ鮮明ニ照ラソウトスルノデショウ。ソウ…今ノ貴方タチノヨウニ…」


「私はもう、燃え尽きちゃってるけどね」


 無名さんはフルフルと首を横に振る。


「ソンナコトハアリマセン。貴方ノ魂ハ、今モ太陽ノヨウニ輝イテ見エマス。ソノ明カリガ今日ココデ沈厶トシテモ、ソノ黄昏ノ如キ荘厳ノ日没ヲ、私ガ証人トナッテ最後マデ見届ケマショウ。コノ…ノ名ニ恥ジヌヨウニ…」


 私は耳を疑い、思わず「えっ…?」と声を漏らす。


「それってつまり…?」


「エエ…。向日葵トイウ名前…私ハトテモ気ニ入リマシタ」


「え!いいの!?」


「ハイ」


 彼女は躊躇いなく、ニコッと頬を緩ませる。

 私は嬉しさのあまり、無名ナナシさん改め、向日葵を抱き上げた。

 思えば、彼女の存在は私にとって、半身と言っても過言ではない、唯一無二の存在になっていた。

 同じものを見て、同じものを食べて、同じことを経験し、同じことを感じた。たくさんの出来事を共有したんだ。

 そうやっているうちに、私たちはお互いの存在を、間違いなく己の魂に刻み込んだ。

 これから私は、向日葵のことを忘れてしまうのだろう。それでも来世で彼女を前にしたならば、私はきっと直感する。

 『彼女は私の友達だ!』ってね!

 だからこれは、その時までの暫しの別れ。

 

「ありがとう向日葵!私をここまで導いてくれて!」


「コチラコソアリガトウ!未来!孤独ダッタ私ノ人生ニ、マタイロドリリヲトモシテクレテ!」


「また来世で会おうね!」


「エエ!貴方タチノコト、絶対ニ忘レマセン!!」


 胸の内から湧き上がる思いを、互いに伝え合い別れの言葉とし、向日葵の温もりを惜しみながら、ゆっくりと地面に下ろす。

 

「サヨウナラ、未来。私ノ新タナ友ヨ…」


 そして、糸の結び目を解くように、永らく共あった握っていた私のを、向日葵は慈しみながらゆっくりとはなった。

 

「見て!」


 ミミちゃんは瞳を大きく見張らせて、空の彼方を指差した。

 彼女の指差した先へ私たちは反射的に視線を向ける。

 すると、私たちの視線が交差する上空を起点に、たちまち燦々と輝く、暖かい光の奔流が溢れ出し、鮮やかに染まるオレンジ色の空を満遍まんべんなく覆い隠していった。

 まるで、無尽蔵に飛び交う流れ星の群生に、目の前で出くわしたような神秘的の光景。辺り一面に数多の軌跡を残しては、その軌跡を新たな光の筋がなぞっていく。

 私たちは魅入られるように息を呑んだ。


「綺麗…」


「なんだこりゃあ…」


「凄い…」


「光の海だ…」


 先ほどとは比較にならない命海のとばりが、まるで私たちを歓迎するかのように出迎えてくれる。

 これには、向日葵もビックリ仰天。


「コレハイッタイ…。未来ノ魂ヲ隠シテイタカラ、ソノ反動ガ来タノデショウカ?ソレトモ、私ノ魂ガ未来ノ魂二影響ヲ?」


「どっちでもいいよ。私たちのフィナーレを飾るに相応しい、豪勢な演出は大歓迎だからさ」


「ソウデスネ。コレナラバ、記憶ニ鮮明ニ残ルデショウ」


「でしょ?ほらっ!翔楼!何してるの?行くよ!」


 美しい光景に気を取られ、ボーっと突っ立っている翔楼の手を取り、私たちは行くべき道へと進んでゆく。


「あわ…あわっとっ…ありがとう!向日葵!」


 引きずられざま、翔楼は最後に向日葵に礼を言った。さすがの翔楼も、彼女が特別な存在であることを察したのだろう。

 向日葵は、彼に声が聞こえないことをいいことに、散々私たちを振り回した翔楼に対して、「ケッ…」と悪態をついていた。 

 

「フフッ、どういたしまして…だってさ」


「そんな風には見えないなぁ…」


「そんなこと無いって。それよりも心の準備はいい」


「正直、緊張する」


 生者から距離を取った。ここから先は死者の道。

 光の波はゆったりと、私と翔楼を包み込んでいく。

 その間際、一瞬の光の隙間を縫って、ミミちゃんと茶待君の声が飛び込んでくる。

 

「じゃあね、翔楼君!…………未来ちゃん!」


「達者でな!」 


 おお!ミミちゃんが初めて名前で呼んでくれた!

 なら、私も応えなければ!


「うん、またね!楓ちゃん!茶待君!」


「君らも元気で!」


 やがて、光は完全に私たちを飲み込んで、目の前の翔楼以外、何も見えなくなってしまう。

 私は翔楼と向かい合い、お互いの手を取り合った。


「僕たちは天国に行くのかい?」


「ううん、違うよ。世界はたくさんあってね、私たちはそのどれかひとつに、新しい命として生まれ変わるの」


「そっか…。それじゃあ、次も君と同じ世界にいられるかは、わからないんだね」


 翔楼は残念そうに眉をひそめる。

 こればっかりは、私たちの意思ではどうすることもできない。

 なにしろ、相手は世界の法則であり、秩序であり、理だ。

 可能性は決してゼロではないけど、望めるなら、次の世界でも翔楼と一緒が良いなぁ。 


「だったら!次こそ一緒にいられるように!今度はその手!絶対に離したりするんじゃねぇぞ!」


「茶待…?」


 それは、おぼつかない私たちの魂を震わした、友人が送る最後の一喝。

 その叱咤激励に背中を押されるように、翔楼は私を力強く抱きしめた。


「ああ…今度こそ離さないよ…」


 私も翔楼の背中にそっと手を回す。

 次の世界でも、ずっと一緒にいよう。

 そんな誓いを交わすかのように、グッと手に力を込めて、私たちは光に身を委ねていく。

 長くて短いような、あっという間な人生。

 私たちの間違いだらけの選択は、この正解に辿り着くための大きな伏線だったに違いない。

 ここは私たちの終着点にして、新たな旅路への出発点。

 愛する人と寄り添いながら最後の瞬間を共に迎える、ロマンチックなエンディング。

 その終わりを迎えた先で、私たちはいったい、どんな来世人生を送るのだろう。

 そんな考えでいっぱいになり、期待で胸が膨らんだ。


 やがて身体は軽くなり、命海の光が行くべき先を煌々と照らす。

 そして導かれるように、私たちは死の遥か先、未来への一歩を踏み出すのだった。


 

 ーー*向日葵ヒマワリ*ーー

 

 命海は役目を果たし、集結させた光の波をユラユラと紐解ひもといていく。

 霧散していく光の先、屋上から見える彼方の海で、太陽は静かに微睡まどろみに沈んだ。

 

 未来と翔楼。

 一度は別たれたふたつの道、それはこうしてひとつに繋がり、絡み合うように交差した。

 はたして二人は命海が降ろした天幕の向こう側で、どんな表情を浮かべていたのだろう。

 道なかばで生涯を終えたことを、悔しくて歯噛みしただろうか。

 満足のいく結末に涙して、清々しい思いで旅立つことができただろうか。

 命海が彼女たちを包み込み、見えなくなった瞬間から、それが気がかりになっていた。

 もとより私がいなければ、未来の人生はきっとまだ続いていたはずだ。

 友を失った喪失感が、そんな不安を掻き立てる。

 私は本当に、彼女を幸福な未来に導くことができたのでしょうか…。

 

 ところが思いがけずして、私は彼女たちの最後の心境を知ることとなった。


 翔楼の病室。

 そこで私は眉を開いた。

 静寂の中心、多くはない人たちに見守られながら、ベッドに横たわる彼の姿は、


『──満ち足りた人生だった』


 そう言わんばかりの穏やかな表情で、微笑むように、息を引き取っていた。

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