茶待の章

近況報告

ーー*片桐茶待*ーー


 ──近況報告だ。

 最近の楓、また以前のように笑うようになったんだ。

 『お前』と日野ッチがいなくなってからというもの、楓の落ち込み様には俺も胸を痛めていてな。

 まるで『お前ら』と出会う前の友達が誰一人としていなかった頃に逆行したみたいで、俺がなんとかしてやらなきゃと思っていたんだよ。

 でも、どうすればいいかわからなくてさ。

 そんなときにかかってきた『お前』からの連絡メールは、まさに渡りに船だった。

 なんてな、嘘。

 最初は断るつもりでいたんだ。

 なにせ、『期限未定で猫を預かってくれ』なんて、相応の覚悟が必要だろ?

 でも悩んだ挙句、俺は決断した。

 お袋と親父にも頭を下げて仕送りを増やしてもらって、バイトの量も増やした。

 そして『お前』から預かった猫を、俺は家に招き入れた。


──ヒマワリという名の綺麗な黒猫を。


 『お前』さぁ…

 ヒマワリの世話代として封筒に十万を包んで渡してくるとは、さすがの俺も驚いたぞ。

 まぁ、猫の世話なんてやったことないし、これからいろいろと手がかかるだろうから、あれはありがたく受け取っておくよ。


 それでな、ヒマワリが来てからなんだよ、楓がまた笑うようになったのは。

 いくら人付き合いが苦手でも、動物相手なら楓の心も癒されるんじゃないかって考えたんだよ。

 結果、アニマルセラピーの効果は覿面だった。

 さすが俺!って感じ。

 うん、俺の采配は間違ってなかった。

 楓は俺の家に頻繁に通うようになって、俺が不在の間もヒマワリの面倒をみてくれている。それはもう楽しそうな顔をしてな。

 でもな、新たな問題も発生したんだ。

 楓が笑うようになったはいいんだが、元気になりすぎてる気がするんだ。

 ヒマワリとも仲が良すぎて、二人してどこかに出かけることもしばしば。

 最初はヒマワリが脱走するんじゃないかってヒヤヒヤしたよ。でも驚くことにそうはならなかった。

 ヒマワリってスゲー賢いのな、楓の傍を片時も離れようとしないんだ。

 あんなに頭の良い猫は他に見たことがない。

 ともあれ、楓が元気になったことに、俺は心から安堵している。

 ヒマワリは楓の救世主だ。

 一応、『お前』にも礼を言っとくよ。

 ありがとう。


「最近の出来事と言えば、こんなもんか…」


 椅子から重たい腰を上げ、俺は凝り固まった背筋を伸ばした。

 思ったより長く座り込んでいたのだろう、ポキポキと関節が悲鳴をあげた。

 それから俺は、ベッドで眠りこける意識のない友人に背中を向け、


「じゃあ、また来るよ」


 そう言って部屋を出た。

 廊下に一歩踏み出すと、白衣を着た数名の老若男女が右から左へ通り過ぎた。

 邪魔にならないよう俺は咄嗟に一歩引いて、再び空いた廊下を進み始める。

 するとその先で、年配の女性と鉢合わせた。


「あら、茶待君?あの子のお見舞いに来てくれたの?」


「はい。ちょうど近くを通りかかったので」


「嬉しいわぁ。あの子、友達少ないからねぇ」


 女性は渋い顔で小さな溜息をつき、対する俺は苦笑した。

 その後は軽い世間話をして、最後に軽く会釈して別れた。

 

「では、俺はこれで」


「そう、また顔を見せてあげてね。あの子もきっと喜ぶわ」


 女性は俺がさっきまでいた部屋へと姿を消した。

 俺は再び廊下を進み、階段を降りていく。

 四階、三階、二階と、下の階に降りるたびに、人の気配を感じるようになった。

 かすかな人の息遣い、スマホを指で叩く些細な音。

 一階のエントランスホールにたどり着く頃には、右も左も老人や病人、けが人、付き添いでやってきた人、そんな人たちの奏でる音であふれかえっていた。

 都内の有名な病院なら、これも当然の光景だろう。 

 俺はそのままホールを突っ切り、開いた自動ドアを通り抜けた。

 外に出た瞬間、クーラーの爽やかさが充満していた室内の空気は失われ、空高く登る日の光が俺の肌をジッと炙った。

 不思議と苦ではない。

 もうすぐ夏が終わろうとしているのだ。

 辟易させられた夏の暑さは、蝉の煩わしい叫びと共に面影が薄れ、近頃のテレビでは食べ物が旬を迎えるだの、それらしい報道が飛び交っている。

 無論、秋は読書の季節でもある。まぁ、俺にとって読書に季節は関係ないのだが。


 俺は出てきた建物を振り返り、物憂げな気持ちで独りごちる。


「翔楼…もうちょっと頑張れよ。日野ッチの分までさ…。きっとヒマワリも、お前の帰りを待ってるぞ」

 

 ーー


 家でゴロゴロと寛ぎながらラノベを楽しんでいると、そこにスマホの着信音が鳴った。

 楽しい気分は興ざめし、栞と一緒に本を閉じた俺は、何用かとスマホを覗き込んだ。

 そして──


「ヒマえも~ん。見てくれよ~」


「ニャル(誰がヒマえもんだ!)」


 俺は手に持ったスマホを見せつけるように、半泣きでヒマワリにすがりついた。

 というのも、ここ最近の出来事を収めた楓とヒマワリの仲睦まじい写真が、これ見よがしに送られてきたのだ。

 

「ニャー(あっ!この前に撮ったやつだ!)

 ニュー(ミミちゃんが送ってくれたんだね)」


「楓のヤツ、こうやって仲良しマウントを取ってくるんだ。酷いだろ?」


「ニャッ(どんな解釈したの?)

 ニュウ(卑屈すぎない?)」


「なぁヒマ~、俺も仲良し写真取りたいよ~」


「ニャァ(今日の茶待君、キモ面倒臭いなぁ)

 ニャ(ハァ…仕方ない)」


 まるで意思に沿ってくれたかのように、ヒマワリは俺の肩にピョンと飛び乗ると、頭の上にまでよじ登った。


「おお、さすがはヒマワリ!賢い猫だなぁ」


 俺は嬉々としてスマホを構え、カシャリと一枚のツーショットを収めた。

 人の頭を足蹴にした猫という奇妙な構図だが、仲の良さをアピールするには十分すぎる一枚だろう。

 早速スマホを操作して、俺は撮りたてホヤホヤの写真を楓に送信した。

 すると数秒後には、短文のメッセージが返ってきた。


『うわ~、すごい!ご主人様を頭に乗せて『待て』ができるなんて、躾がなってるペットだね!お利口さんだ!(>ω<)』


「主従逆転してんじゃねーか!」


「ニャププ(ウケる!)」


 気疲れを起こした俺は嘆息をつく。

 そして、心の安寧を取り戻そうと再び本に手を伸ばした、が…楓の送ってきた写真がふと気になって、踵を返してスマホを眺めることにした。

 

「結構な量の写真だな」


 スマホ画面をスクロールして、送られてきた写真を閲覧する。

 見てて思ったのだが、ヒマワリの写真写りがやたらと良すぎる気がする。まるで直前にポーズを取ってるかのようだ。

 まぁ、これも楓の撮影センスの賜物なのだろう。


 一枚、また一枚と写真をめくるたび、微笑ましい二人の姿が俺の頬を緩ませていく。

 なにより、楓が笑顔を取り戻したことが、俺の選択の一番の報酬だ。

 

「楓のヤツ、本当に楽しそうだな。なっ、ヒマ」


「ニャフン(うん、楽しかったよ~)」


 浜辺で砂遊びをするヒマワリ。

 森林でカブトムシを手にする楓。

 かき氷を頬張り、二人してアイスクリーム頭痛を引き起こした間抜けなツーショット。

 他にも様々な写真があったが、そこで俺は一枚の背景に目が留まった。


「あれ?ここ病院か?」


 見覚えのある緑の壁とベンチ。そこには当然、楓とヒマワリが映っている。だけど二人の間にもう一人、見知らぬ女の子が楽しそうに挟まっていた。患者衣にニット帽、見るからに入院患者の風貌だ。

 この背景の場所は、間違いなく最近足を運んだ病院のホスピタルパークだった。


「この子…楓の親戚か?いや、でも楓の親戚の話なんて聞いたことねぇよな?」


「ニャフ(雫ちゃんだ~)」


 俺は一瞬頭を捻ったが、こんな偶然もあるもんだなと、特に気にも留めなかった。

 知り合いや友人が入院しているなんてのは、ありえない話でもないだろう。

 しかしこの女の子、何処かで見かけたことがあるような。

 何処だ?何処で見たんだ?


 しばらく天井を仰ぎ、俺は病院で起こったそれらしい記憶を辿った。

 思い出せそうで思い出せない。

 そんな調子で俺はモヤモヤを抱えて記憶の中を浮游した後、雲の切れ間から差し込む光の如く、爽快な気分に包まれた。

 

「ああっ、思い出した!この子、前に俺と翔楼のとこに迷い込んできた子だ!」


「ニャニャ!(なにそれ!いつ!それいつの話!)」


 突然ヒマワリがやかましくなったが、俺はそれを無視して立ち上がり、喉を潤そうと冷蔵庫へ向かった。


「いや~、スッキリした~」


「ナウ(う~ん、言葉が通じないってやっぱ不便…)」

 

 取り出したオレンジジュースをコップに注ぎ、残った分は冷蔵庫に戻す。そうして今度はコップの中身を、自分の口に流し込んでいく。

 この過程を繰り返すたびに、これって二度手間なんじゃなかろうか?と毎回頭を捻る俺。

 まぁ、こういうのって衛生面の問題もあるから、必要な手間もあるのだと最終的には納得するのだが。


「ニャルラー(まぁいい。余裕な顔ができるのも今のうちだよ)」


 水分補給を終えた俺は、再びラノベを手にとって地べたに寝転んだ。

 いつもの寛ぎ体制で読書開始、と…いきたいところだったが、ヒマワリがミャンミャンと喧しくなったので暫し様子見をする。

 

「ミミャ(次にミミちゃんが揃ったとき…)」


 このときの俺には、ヒマワリが不敵に笑ったように見えた。


「ミャラー(オペレーションNを始動させるよ)」


「なんだヒマ、腹減ったのか?プリンでも食べるか?」


「ニャオーン(食べる~♪)」


 ーー*ヒマワリ*ーー


 衝撃の事実を耳にした翌日。

 茶待君の不在時にやってきたミミちゃんに、私はさっそく昨日の出来事の話をした。


「その話、本当なの?翔楼君と雫ちゃんが会っていたかもしれないって……」


「うん。昨日ミミちゃんが送ってくれた写真を見て、茶待君がそう言ってたから間違いないよ。でも、何時いつ……何処どこでの出来事までかは分からなかったんだ」

 

 ミミちゃんにとってもこれは驚くべき話だったようで、彼女は肩を竦めながら目をパチパチとさせて混乱していた。

 すると、そこに無名ナナシさんの冷静な声が通った。


何時イツ… カハワカリマセンガ、何処ドコ…デアルカハ、推測ガデキマス」


 天からのお告げのようなお言葉を、私は有り難く傾聴した。


「それは何処ですか!無名ナナシ様~!」


「恐ラク、アノ少女ガ居ル病院デショウ。彼女ハ病院カラ、ホトンド出タコトガナイト言ッテイマシタシ…」


 私もミミちゃんも納得して頷く。

 だけどミミちゃんは、すぐに怪訝な表情をして頭を横に捻った。

 

「でもさ、翔楼君も茶待も、どうして病院にいたのかな?」


「たしかに…。共通の友人が入院してたとか?」


「それだと、私が知らないのはおかしくない?翔楼君も茶待も大学で知り合ったんだよね?茶待はともかく、翔楼君が私たち以外に仲良くしていた人なんて知らないし、大学でも誰々だれだれさんが入院した…なんて話聞いたことがないよ」


 「そうなの?」と相槌を打った私は、尻尾を丸めて考え込む。

 翔楼の友達が少ないのは事実として、二人が他に仲良くしていた人を、たしかに私も知らない。

 ミミちゃんの情報からしても、翔楼が病院にいた謎が深まるばかり。

 するとそこに、無名ナナシさんの物静かな指摘が入った。

 

「ソモソモ、前提ガ間違ッテイルノデハ?」


「というと?」


 私が聞き返すと、無名ナナシさんはコホンと咳払いを響かせて、落ち着きのある物言いで続けた。


「私タチガ訪レタ病院ニ、最初カラ居タノデハナイノデショウカ」


「翔楼君が?」


「ソウデス。茶ノ青年茶待ハ彼ニ会イニ行キ、ソコニ偶然、雫ガ鉢合ワセタ。モトモト例ノ青年翔楼ハ、何カシラノ秘密ヲ抱エテイタノデスヨネ?コレハアクマデモ、私ノ推測ニ過ギマセンガ、例エバ…病気トカ…」


 凍えるような悪寒が私の背筋を走り、不安を煽った。

 確かに、病院にいた理由なんて限られている。

 医師、看護師、病人、見舞いに来た来訪者。

 病院からすれば翔楼は外部からの人間だ。選択肢としては、後者に絞られる。


「病気…。でも私と会ったとき、翔楼は元気だったよ」


「一見スルト、雫モ元気ニ見エマシタ。デスガソノ笑顔ノ内側ニ、大キナ疾患ヲ抱エテイタノデス。コウイウノハ、見掛ケデ判断シテハイケマセン」


 無名ナナシさんの言う通り、目にしたものすべてが真実だとは限らない。

 私は脳裏に雫ちゃんの笑顔を思い浮かべながら、翔楼が病気である可能性を考慮して思考を巡らせた。

 それも生半可な病などではなく、おそらく命に関わるような大きな病気だ。

 もしそうなら、翔楼が私の前から消えた理由にも説明がつく。

 きっと私のためだ。

 翔楼は誰かの負担になるのを恐れて、自ら私の前から──


「ソンナニ難シク考エナイデクダサイ。言ッタデショウ?コレハ、アクマデモ推測デスト。私ガ提示シタノハ可能性ノヒトツニ過ギマセン。別ノ可能性ダッテアリ得ルノデス」


「そうだね。でも、それも今日で、すべての真実を明るみにできる」


 全身の毛をソワソワと逆立てた私の言葉に、表情を強張らせたミミちゃんが頷く。

 無名ナナシさんの神気は、長い時間をかけてチャージが完了している。

 ほぼすべての準備が整ったと言っていい。

 あとは──


「あとは、茶待が帰って来るのを待つだけだね」


 私が言葉にするよりも早く、少し残念そうに最後のピースを口にするミミちゃん。

 

「はぁ~、私の唯一の取り柄がなくなっちゃうのは嫌だな~」


「ナニヲ言イ出スノカト思エバ……」


 ミミちゃんと同様に、祝福を授かれば茶待君も私と無名ナナシさんの声が聞こえるようになる。

 その特権を持つのは今はミミちゃんだけだ。その特権が茶待君にも渡ってしまうことが、ミミちゃんには残念でならないらしい。

 

「私は早く、また皆と前みたいにお話したいけどね。それより無名ナナシさん、いつでもいける?」


「フフッ。ヤハリ最後ハ、私頼ミ二ナルノデスネ。エエ、万全デストモ、イツデモイケマスヨ!」


 やる気のある発言に、私も覚悟を決め、呼吸を整える。

 数秒前から一定のテンポで近づく、聞き慣れた靴音に私は気づいた。

 ──時が来た。

 そして今、玄関の扉がガチャリと開く。


「作戦通り、オペレーションNナナシ……開始だよ」



 ーー*片桐かたぎり茶待さじ*ーー



 ドアノブに手をかけ、扉を引く。

 すると玄関には、いつもの面子が顔をつらねていた。


「おう、楓も来てたのか」


「おかえり、茶待」


「ニャン(おかえり~)」


 出迎えてくれた楓は、緊張しているのか心なしか挙動がぎこちない。

 ヒマはいつも通り、お気楽なもんだ。

 脱いだ靴を玄関に揃え、俺は居間へと向かった。

 その後ろをたどたどしくついてくる、なにやら怪しい一人と一匹。


「ねぇ茶待、話があるんだけど…」


「どうした?改まって…」


 そうして楓はヒマワリを抱え、神妙な様子で向かいに立った。

 すると──


「ゆ、指を出せ!」


「は?」


 まるで『金を出せ』という恐喝にも似たニュアンスで、楓は突然声を荒げた。

 手には刃物──ではなく、可愛らしいヒマワリが突きつけられている。

 これは見るものによって、悶絶してしまいそうなほどに恐ろしい光景だろう。

 しかし俺には通用しない──そう思っていたのも束の間、ガチンッ、ガチンッと歯を鳴らして、ヒマワリはイタズラのように恐怖心を煽る。


「ガルニャ(オレサマ、オマエノユビ、マルカジリ)」


 ……そこに指を突っ込めと?

 ……凄く怖いんだが…。

 ビビった俺は、スッと手を後ろに引っ込めた。


「ちょっとヒマ!今はふざけちゃダメだって」


「ニャオン(ゴメンゴメン、つい出来心で…)」

 

 楓に諭されたヒマワリは、驚くほどにおとなしくなった。

 そして改まって、楓は「さぁ、指を出せ」と言った。

 これはなにかしらの魂胆があるのだろうと、俺は二人(?)を疑り深く注視した。


「な~んか怪しいな…。いかにもなにか企んでるって顔してる」


「そ、そんなことあるわけないじゃん……」

 

「ニャ……(くっ、感のいいヤツめ……)」


 楓だけに留まらず、ヒマワリまでもが人間味を帯びたように目つきで視線をそらした。

 息ぴったり。本当に仲が良いな、コイツらは。

 それはさておき、楓の魂胆がまるで見えない。

 ヒマワリを使って何をする気なんだ? 


「………………」


 俺は躊躇ちゅうちょした。

 悪ふざけの類だろうし、つき合っても俺になんの得もない。

 むしろ、損をするだろう。

 例えば、俺の指が持ってかれる、とか。

 だけど──


「はぁ、わかったよ…」


 俺は嘆息をつき、人差し指を前に突き出す。

 楓の真剣な眼差しに、どうも背を向けることができなかったんだ。

 

「これでいいんだろ?」


「ああ、うん」


 言う通りにしたのに、何故か残念そうに眉をひそめる楓。

 どういう気持ちなの?それ……。


「じゃあ、覚悟してね」


「うん?」


 なんの覚悟だろう──と考えるよりも早く、差し出されたヒマワリの大口が俺の指をパクリと咥え込んだ。

 

──「汝ニ、祝福ヲ授ケマショウ」


 瞬間、言葉にするのならテレパシーと呼称されるような不思議な声が、俺の脳内に響き渡る。


「なんだ!?」


 驚いた俺は指を引っこ抜き、ドタバタと数歩退しりぞいた。


「聞こえた?無名ナナシさんの声」


「は?ナナシって……」


 困惑する俺を他所に、楓は得意げな顔を浮かべる。

 

「その様子だと聞こえたんだね。じゃあもう、彼女の声も聞こえるよね」


 そう言って、楓は腕の中にいるヒマワリをゆっくりと床に下ろした。

 自由の身になったヒマワリは、トコトコと俺の眼前まで歩み寄る。

 

「やっほ~、茶待君」


 頭に響いた声とは違う、新たな存在の声が鼓膜を叩いた。

 しかし居間には、俺と楓以外の姿なんて何処にも存在しない。

 だけど数秒後には、その発声源を俺は瞬時に把握できた。


「何処見てるの?こっちだよ!こっちこっち~」


「ヒマ……なのか?」


 それは二足歩行で佇んで、これ見よがしに存在をアピールする我が家の預かり猫──ヒマワリ。

 あまりにも理解の追いつかない現状に、俺は尻餅をついてへたり込んだ。


「おっ、びっくりさせちゃったみたいだね。まぁ、無理もないか」


「なん…これ…。いったい、なに…がどうなって……」


 上手く舌が回らなくなった俺は、おもむろに顔を上げ、楓に説明を求めた。


「誰かわかる?」


 俺は首を横に振った。

 そんな情報量でパンク寸前な俺に、楓はお構い無しに言う。


「ヒノノンだよ」


「久しぶり~」


 そう言った楓の言葉に、朗らかに頬を緩ませた怪猫。

 ただでさえ、俺の頭は謎の声に翻弄され、思考がままならない。

 そこへさらに、この世には居ないはずの亡者の名前を出され、俺の脳はオーバーヒート寸前だった。


「お~い、茶待く~ん。聞こえてる~」


 大事な友達を失ったショックで、楓は頭がおかしくなったのかと思った。

 だが、頭に直接響く天の声とニャラニャラと喋るヒマワリの声を、俺たちは確かに共有している。

 いや……頭がおかしくなったのは、俺の方なのか?

 

「大丈夫」


 楓の優しい声が、俺の錆びついた思考力を正常化へ導く。


「私にもちゃんと、聞こえてるから」


「本当に、日野ッチ……なのか?」


「そうだよ。ヒノノンだよ」


 俺はもう一度、その亡者の依代に視線を落とす。

 すると「信じてくれた?」と、それは恐る恐る俺の顔を覗き込んだ。

 信じられない。でも楓がそう言うのなら、そうなのだろう。

 信じるしかない。


「日野ッチ……なんだな」


「そうだよ~。いや~、ここに辿り着くのに苦労したよ~」


 そうあっけらかんとするヒマワリ──いや、日野ッチを前に、いろんな感情が込み上げて来る。

 それは友人と再会を果たせた、言いようのない嬉しさであったりする。

 ヒマワリがやたらと賢かったのも、楓が元気になりすぎたのも、なんとなく腑に落ちた。

 だけど──


「どうして……」


 それ以上に── 

 心の底からは、彼女の帰還を喜べなかった。


「どうして戻ってきたんだよ……」


 胸を抉るような真実が、俺を深い谷底へと突き落としたのだ。

 

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