第4話

やがてマリアとヨセフの家の前には、ナザレの教えを求める人々が行列を作るようになった。

そのおかげで、高揚していたのはマリアとヨセフだった。

彼らは周囲に新しい厩舎を五棟も建て、人々を泊めた。

一泊銀貨十枚。それでも人々は喜んで金を払い、ナザレに会おうとした。

その中には、命の恩人であるナザレに会いに来たシモンの姿もあった。

彼はナザレの前で頭を地面につけた。

「弟子にしてください! 師匠!」

「やだ」

ナザレはきっぱり断った。

だが、このしつこい少年は諦めなかった。

「人ひとり助けると思って弟子にしてくださいよ!

父さんなんて“泳げもしないのにどうやって魚を獲るんだ”って怒鳴るし、

家の恥だって言うし、ポセイドン様への生贄にしたほうがまだ元が取れるって脅してくるんですよ!

海に投げ込むぞって!」

ナザレは“ポセイドンへの生贄”の意味をよく知っていた。

生きたまま海へ放り込むということだ。それもポセイドンの象徴たる白馬に括りつけて。

ナザレは思案に沈んだ。

この子を見殺しにするべきか?

どうせ人間はいずれ死ぬ。明日死のうが六十年後に死のうが、大差ない。

だが、機能的には、彼は人が死ぬことを放置できないように作られている。

そもそも互いに殺し合わずにはいられない動物というのは、一体何の価値があるのか。

ただ喋り、感情を表現できるという理由だけで、生かしておくべきなのか。

ナザレが悩んでいると、マリアが口を挟んだ。

「もう、引き受けてあげなさいよ。可哀想じゃない。

人間が馬に縛りつけられて海水浴するのを見て、あんたは気分がスッキリするわけ?」

「それは嫌だけど、だからって僕が何をしたっていうんだ。弟子なんて……」

「何をしたかって? あの荒くれどもが殴り合う回数を減らしただけでも大したもんよ。

まあ、最近は足でスネを蹴るのが流行ってるみたいだけどね」

ヨセフはパンパンに腫れた脛をさりげなく見せながら言った。

「だから自信持ちなよ、友よ。あんたならきっといい師匠になれるさ」

「それに、そろそろお前も自分の役目を果たす頃だろ!

いつまでも親にご飯食わせてもらってるわけにはいかないんだぞ?

男なら胸に大きな志を抱いて生きろ!」

「僕、ご飯食べないんだけど。電気で動いてるんだけど」

ナザレはマリアを見て舌打ちした。

ここで断ったところで、彼女があきらめるとは思えない。

承諾するまで後をついてきてぶつぶつ言うに違いない。

すでに頭の中でマリアのレパートリーが再生され始めていた。

“あんたはヨセフ似なの? それともロバ似なの?

ほんと、のろのろしてて優柔不断で、やんなっちゃう”

頭の中でマリアが舌打ちすると、ナザレは諦めて息をついた。

「わかった、わかったよ。受け入れる」

ナザレの承諾を聞いたシモンは、死にかけた人間のようなテンションで飛び跳ねた。

彼にナザレは言った。

「いや、僕が言ったのは“とりあえず仮の弟子として”って意味だ。少しは時間を――」

「時間なんていりません、師匠! これから一生お支えします! 絶対後悔させませんから!」

シモンは胸を張って叫んだ。そして親指で自分を指しながら言った。

「それと師匠。弟子になったんですから、弟子としての“新しい名前”をください」

「名前? お前、もう名前あるじゃないか。シモンだろ」

「いや、それは親が勝手につけた名前ですよ。

最近は、師匠が弟子に名前をつけるのが流行りなんですってば」

流行、ね。

まあ、適当に決めても問題ないだろう。

ナザレはうなずき、厩舎の入口に置かれた大きく平たい岩に目をやった。

この地方の言葉で“岩”はケファと言ったはずだ。

「じゃあ、今日からお前は“ケファ”だ」

「ケファ……?」

シモンは顔をしかめた。

どう見ても気に入った表情ではない。

「力持ちの農夫に“ゴン太”とか名付けた」くらいの安直さだった。

しかし、シモンは意外と前向きな少年だった。

彼は手を叩いた。

「ケファ、か。ということは、ギリシア語にすると……ペトロス、かな?

つまり“ペトロ”。悪くない名前ですね。ケファよりペトロのほうが響きがいいや。

ありがとうございます、師匠!」

ペトロは深々と頭を下げ、もう一度礼を述べた。

一方で、ナザレはどこか落ち着かない気分になり、唇を尖らせた。

なぜよりによって、最初の弟子の名前がペトロなんだ?

イエス様の最初の弟子もペトロだったはずなのに……。

だが、その不安もすぐに別の疑問に上書きされた。

「それにしても、師匠みたいに頭のいい人が、どうしてこんな田舎で教えているんです?

エルサレムには行かないんですか?」

「エルサレム? なんでわざわざそこへ?」

「なんでって、あそこは宗教と哲学の中心地ですよ。

僕の家庭教師もエルサレム出身ですし。

師匠があそこで教えを広めたら、世界中の人たちが師匠の言葉を拝みに来ると思います」

ペトロの提案に、ナザレは顎をさすった。

自分の考えが広まること自体は、どうでもよかった。

しかし、このナザレの町で働く木工の中には、“イエス”と名乗りそうな人物は一人もいない。

とはいえ、いつまでもここに留まるわけにもいかなかった。

すでに紀元十三年。

うっかりしていると、イエス様の足跡を見失いかねない。

もしかすると、歴史の記録とは違い、イエス様はナザレ育ちではなく、外国から来たのかもしれない。

今ごろエルサレムで説教をしている可能性もあった。

だが、もしエルサレムへ行ってしまい、その間にこの町にイエス様が現れたらどうする?

ナザレは困った顔で天井を見上げた。

すると、予想外の展開に慌てたマリアが叫んだ。

「ちょっと! あんた、契約忘れてないでしょうね?

あんたはうちの財産を受け取る代わりに、最後まで私たちを看取る義務があるのよ?

もし行ったきり戻ってこなかったらね、その立派な頭の髪の毛を全部引きちぎってやるから!」

「わかったよ、わかったから。

そんなに遠い場所でもないだろ。すぐ行って、すぐ帰ってくるさ」

ナザレが言うと、マリアは今にも泣き出しそうな顔で言った。

「変な場所には行っちゃダメよ。

酒場もなるべく行かないほうがいい。

商人には気をつけなさい。あいつら、平気で値段を三倍にふっかけてくるんだから。

それから通りに立ってる女の人たちは――とにかく、すごく気をつけて……」

マリアはついに涙をこぼした。

ヨセフは彼女の肩をさすりながら言った。

「うちの奥さんは涙もろくてね。前にカラスを飼ってたときも、飛んでいって戻ってこなかっただけで一週間は泣いてたんだ。

よしよし、大丈夫だよ。そんなに遠い場所じゃないんだから。急げば二日で着くさ」

ヨセフが言うと、マリアは彼の頬をぺちぺち叩いた。

そのせいでヨセフの頬には見事な青あざが残った。

だが愛の力か、それともストックホルム症候群か、

ヨセフは蜜が滴るような眼差しでマリアを強く抱きしめた。

そしてナザレに向き直り、堂々と言った。

「マリアのことは俺が守るさ。それに、俺たち二人とも引退するにはまだまだ早い。

だから行ってこい、友よ。行って、お前の考えを存分に広めてこい。

お前が探しているっていう男のことは、こっちで探し続けるから心配するな」

「僕がいなくても、本当に大丈夫か?」

「もちろんさ。むしろ、お前のおかげで今の暮らしがあるんだ。

これまで本当にありがとう、友よ。いや、息子よ。

お前がしてくれたことは絶対に忘れない。だから、どうか無事に行って無事に帰ってこい」

ヨセフの言葉に、ナザレはゆっくりとヨセフと握手を交わした。

それは単なる感謝の印ではなかった。

父と息子という枠さえ越えた、本物の共感の証だった。

ナザレはヨセフの腕を軽く叩き、ペトロの提案を受け入れることにした。

しばらくエルサレムで過ごす必要があったため、マリアとヨセフに別れを告げた。

もちろん、イエス様探しを怠らないよう、念押しするのも忘れなかった。

こうしてナザレは、十五日間にわたり砂漠をさまようことになった。

本来なら二日もあれば着く距離だった。

しかし、有名人と化したナザレには、理由のないトラブルが次々と降りかかった。

たとえば、ある宗教指導者たちはナザレの噂を聞きつけて駆けつけ、助言を求めた。

内容は、姦通した女にどの程度の力で石を投げるべきか――というものだった。

ナザレはしばし考え込んだ。

この十三年間、石ばかり削って暮らしてきたので、律法とはまるで縁のない生活を送っていた。

誰一人、律法の話など持ち出さなかったので、学ぼうという気にもならなかったのだ。

どうしたものかと、彼は棒切れで地面を引っかきながら考えた。

こういう時にでもグーグルがあれば、と彼は心底思った。

だが彼らはナザレに考える時間を与えなかった。

むしろ、いつまで答えを引き延ばすのか、宇宙を支配する“お父上”からまだ連絡がないのかと煽り立てた。

中には、見ただけで痛そうな石を選び始めている者もいた。

「いや、これはまずい」

ナザレは舌打ちしながら、地面に思考を並べた。

投げろと言えば、「投げろと言われた」と言って調子に乗るのは目に見えている。

投げるなと言えば、“姦通推奨の悪党”にされてしまうだろう。

ならば仕方ない。

彼は胸を張って言った。

「こうしよう。お前たちの中で一番“善い”者が、最初に投げればいい」

「一番善い者?」

人々は周りを見回した。

ターバンを巻いた見物人の一人が両手を挙げて言った。

「一番善い、って基準が曖昧すぎるだろ!」

「“善い”って何だよ?」

ナザレは顎に手を当てた。

“善い”、か。

そういえば“善い”とは、一体何のことだろう?

彼は時間稼ぎのように指を振りながら、やがてもっともらしい答えを出した。

「罪がなければ善いってことでいいんじゃないか? 違うか?」

ナザレの言葉に、人々はアザラシのように首を縦に振った。

そして我先にと石を手に取り、女のもとへ歩み寄り始めた。

女たちは尖った石の指輪を何重にも指にはめ、空中にパンチを繰り出した。

男たちは巨大な石槌を握りしめている。

商人たちは鋭い小石を銀貨一枚で売り捌いていた。

どうやら女を特急便であの世に送り出すつもりらしい。

人々の血走った目を見て、ナザレは慌てて叫んだ。

「ちょっと待て。もう少し考えろ。

罪がないっていうのは、誰かに害を与えたことがないってことだろ? 合ってるか?

誰かを苦しめたことがないってことだ」

人々は思わずうなずいた。

そこでナザレは人差し指を立てた。

「でもな、人は生まれるとき、母親をひどく苦しめるだろ?

ってことは、みんな“母親を苦しめて”生まれてきたわけだ。

つまり、人は生まれた瞬間から一つ罪を背負っているってことになるよな? 違うか?」

人々はしばらく顔を見合わせた。

ついでに宗教指導者たちの顔も見た。

ナザレを急かしていた彼らは、互いの顔を見つめるばかりで、言葉を失っていた。

二重顎をピクピクさせることしかできないようだった。

やがて彼らは何ごとか耳打ちし合うと、急に忙しいのを思い出したふりをして、その場を離れていった。

さらに一日歩くと、名もない小さな村に辿り着いた。

そこで今度は、村の入り口から問題が起きた。

石を運んでいた石工の一人が、胸を押さえてその場に倒れたのだ。

人々はその石工が死にかけているのを不安げに見つめた。

そしてまた、ナザレを探した。

「はあ……。余計なことを喋るから、こうなるんだ」

ナザレは舌打ちして、人々をかき分けて患者のもとへ行った。

青ざめた顔と不規則な脈から察するに、心臓発作らしかった。

ナザレはすぐさま心肺蘇生を開始した。

胸骨圧迫三十回と人工呼吸を繰り返すと、石工はほどなくして意識を取り戻した。

死人のように青ざめていた男が咳をして息を吹き返すのを見ると、人々は悲鳴を上げた。

悪魔だと叫ぶ者もいれば、ナザレの首に花輪をかける者もいた。

特に若い石工の妹は香油を持ってきて、ナザレの銀の足と頭に注いだ。

人々が騒ぎ出すと、面倒になったナザレは、再び退屈な講義を始めた。

前回シモンを助けたときのように、途中で全員寝てくれることを期待して。

今回彼が選んだテーマは「心肺蘇生法」だった。

「倒れている人を見つけたら、まず周囲に知らせます。

それから胸骨圧迫を三十回。

胸の上に異物がないか確認して、両手をきちんと組んで……」

ナザレの講義は続いた。

しかし、今回は誰も眠らなかった。

むしろ多くの人が目を輝かせて彼の話に耳を傾けた。

結局、ナザレは村中の人々に心肺蘇生法を教え終えるまで、その村を出ることができなかった。

そんなふうに、あらゆる出来事が行く先々で次々と降りかかってきた。

紅海と呼ばれる海を割ってくれと懇願するエジプト人に会うこともあった。

「近いうちに天罰を受けてもおかしくない連中に雷を落としてほしい」と頼んでくる者もいた。

さらには、カエサルの顔が刻まれた銀貨三十枚と、ただの銀貨三十枚を並べて、「どちらのほうが神聖か」と真剣に尋ねる者までいた。

ローマの百人隊長たちが剣を抜いて、今にも斬りかかりそうな空気の中で、である。

ナザレは、できることはやり、できないことはやらなかった。

その結果、彼とペトロがナザレを旅立ってから、

エルサレムに辿り着くまでに二ヶ月以上を要することになったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る