​第4話:午後一時の逃避行

店を出てタクシーに乗り込むと、玲子さんは深くシートに身を沈めた。

 ドアが閉まり、車内が外界から切り離される。革のシートの匂いと、微かな冷房の風が、会食の熱気を冷やしていく。

​「……青山通りから、246へ抜けてください」

​ 運転手に短く告げる彼女の声には、さきほどまでの張り詰めた緊張感はなかった。

 窓の外を流れる東京の街並み。

 僕たちはしばらく無言だった。けれど、その沈黙は不快なものではない。隣に座る彼女の体温が、数センチの距離を越えて伝わってくるような、重く、甘い沈黙だった。

​「……生意気ね」

​ 不意に、彼女が窓の外を見たまま呟いた。

​「え?」

「さっきの会食よ。盾になるとか、大事な上司だとか……。部下の分際で、偉そうに」

​ 言葉は刺々しいが、声のトーンは柔らかい。

 彼女はふと視線を落とし、自身の左手を見つめた。さっき権田常務に触れられそうになったその手だ。

​「でも……助かったわ。ありがとう」

​ 消え入りそうな声だった。

 いつも完璧で、誰にも弱みを見せない彼女が、初めて素直に礼を言った。

 信号待ちでタクシーが停まる。

 慣性の法則に従うように、彼女の体がカクンと揺れ、僕の右肩に重みが乗った。

​「部長……?」

「……会社に着くまで、十分だけ。このままにして」

​ 慌てて体を離そうとする素振りはない。

 彼女の頭が、僕の肩に預けられている。ふわりと、髪からシャンプーの香りが漂った。

 昨夜の雨の中で嗅いだ匂いと同じだ。

​「重くないですか」

「全然。……もっと、預けてくれていいんです」

​ 僕は自然と、膝の上に置かれていた彼女の手に、自分の手を重ねていた。

 彼女の指先がピクリと震える。

 だが、拒絶はなかった。それどころか、彼女の細い指が、僕の手のひらをぎゅっと握り返してきたのだ。

 その力は意外なほど強く、そして熱かった。まるで、溺れている人が流木に掴まるかのような、必死さを帯びていた。

​「……高村」

「はい」

「今日の夜、空いてる?」

​ 心臓が早鐘を打った。

 それは業務上の確認ではない。上司が部下のスケジュールを確認する声色ではなかった。

 彼女は僕の肩に顔を埋めたまま、囁くように続けた。

​「昨日は……雨が降っていて、疲れていて、私たちはどうかしていたのかもしれない。事故だったと、自分に言い聞かせようとしたわ」

​ 握りしめた手に力がこもる。

​「でも、今は晴れてる。お酒も飲んでない。……シラフの私が、あなたを誘ってるの」

​ 彼女が顔を上げる。

 至近距離で合う視線。その瞳は潤んでいるが、揺るぎない光を宿していた。

​「今夜、うちに来なさい。……断らせないから」

​ それは命令の形をした、愛の告白だった。

 昨夜の「間違い」を「正解」にするための、覚悟の招待状。

​ 僕は彼女の手を強く握りしめたまま、真っ直ぐに彼女を見つめ返した。

​「断る理由なんて、一つもありません。……たとえ部長が帰れと言っても、今夜は離しませんよ」

​ 玲子さんの瞳が大きく見開かれ、やがてふわりと、花が咲くように柔らかく緩んだ。

 それは、社内の誰も見たことのない、三十六歳の「佐伯玲子」という一人の女性の笑顔だった。

​「……バカな子」

​ タクシーが再び動き出す。

 オフィスまでの残り十分間。

 僕たちは強く手を繋いだまま、窓の外の景色が滲むのを感じていた。

 もはや「上司と部下」という境界線は、完全に溶けて消えていた。

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