第9話 破裂

 十和が、迎えに来た武市たちと共にこの城を去ったのは、それから二日後のことだった。

 非道な王を追い出し、順調に国が立ち直ってきているとはいえ、まだまだ先は長く、また他国の後ろ盾をなにも持たない国だ。

 元々国土は広く、先々代の王の治世ではこの大陸の中でも特に強大な国のひとつだったが、先王の代で国中が疲弊し、かつての姿は見る影もなくなった。

 きっと多くの国が攻め落とす機会を狙っていただろう。実際は、戦争が起こる前に内乱によって先王の治世は終わりを告げたが。

 この国の領土を狙っていた近隣の国々からすれば、この国が新しい女王を迎えて立ち直り、かつての栄華を取り戻すことは望ましくないことだ。

 いつ横やりが入るかわからない状況を打開したいとは思っていた。一番有効な方法は、強い力を持つ他国との同盟を結ぶこと。

 ハーティスの申し出に、武市は「自分から父王に掛け合ってみよう」と頷いたし十和も同じだった。

 彼らとしても、この大陸が大きな戦渦に呑まれることを避けたかったのだろう。

 この国を攻め落とすために複数の国が戦を始めたならば、確実に大きな戦争が起こる。それはおそらく、ほかの大陸にとっても他人事ではなくなるからだ。

「そんなことはオレも父も望まないし、それにこのまま順調に立ち直れば遠からず元の栄華を取り戻すだろう強国との繋がりを作っておきたい。

 オレたちにとっても損はありませんからね」

 そう言って笑っていたのは武市だ。

 異なる大陸とはいえ、力のある強国との繋がりが出来ればそう易々と攻め入られる心配はせずに済む。

「また遊びに来るからな。同盟の話もあるし」

 そう言っていた十和には「逃亡だけはやめろよ」と釘を刺しておいた。

 別れ際、彼女が自分を案じるように見ていたのは知らないふりをした。

 あとから、彼女が自分を心配していたのは、自分が悩んでいたからだけではないのではないかと気づいたのだが、そのときにはあとのまつりだった。

 オルバーはあのあと、自分になにも言ってこなかったし、逃げたことに関しても責めたりしなかった。

 ニコラスたちが普段通りだったのは、彼らはなにも知らないからだと思っていた。

 自分はあることを失念していたのだ。

 たとえ異なる世界の別人だとしても、彼らは自分の仲間だった“彼ら”と性格がほとんど同じだ。

 自分がなにか悩んでいることになにも気づかないほど鈍くもバカでもないことも、間違ってもただの善人などではないことも、自分のことをどれほど信頼し必要としていたのかも。


 ―――彼らの態度が“いつも通り”だったのが、“邪魔な客”が帰るのを待っていたからなのだということも、結局、事が終わるまで気づくことが出来なかった。




「お疲れ。

 少し休んだらどうだ?」

「…ああ、悪い」

 十和たちを見送ったあと自室にいたら、ニコラスが来て紅茶をいれてくれた。

 礼を言ってカップを受け取りながらも、どこか心ここにあらずだった自分を見て、ニコラスは少しの間黙ると、こう尋ねた。

「なあ、おまえ、ほんとうに王になる気はない、のか?」

「…なんだおまえまで。

 今更だろう」

「今更でもないだろう…。

 オレらは、ずっとそう望んでたんだから」

 考えることが多くて疲れていたし、らしくなくぐだぐだ悩んでいる自分の弱さに嫌気が差していたから、つい大きなため息が漏れる。

 ニコラスの声にわずかに混ざった悲しげな響きに、気づけずにいた。

「なに言ってるんだ。

 なんのためにオレが今まで教育してきたと思ってる。

 おまえらならもう、オレがいなくても問題ねえだろ」

 この台詞も、結局は“彼らがいなくても問題ない”と自分に言い聞かせたいだけだったのかもしれない。

 そのとき、異論を唱えたり説得しようとしたりせず、一言「そうか」とだけ返したニコラスの様子がどこかおかしいことに、気づいていれば。

 せめて紅茶を口に含む前に、なにかひとつでも違和感を感じていればなにか変わったのだろうか、とあとになって考える羽目になることもそのときの自分は知らず、いつの間にかニコラスが室内からいなくなっていたことも、代わりにほかの男が室内にいたこともすぐには気づけなかった。

 最初の異変は、突如身体を襲った激しい熱とうずきだった。

「…っ、ぁ…?」

 思わず手に持っていたカップを落としてしまう。カップが割れて中に残っていた紅茶が床にこぼれたが、拾う余裕すらなかった。

「…っふ、ん…、」

 身体中がひどく熱くて、身じろぎすれば衣服が肌にこすれただけで堪えられないようなしびれが走って声が漏れる。手が震えて、瞳が潤んで涙がこぼれそうになる。

 不意に大きな手が自分の頬に触れた。

「っゃ…!」

 その感触だけで身体が大仰に跳ねて、鼻にかかったような声があふれる。

「はは。

 おまえ、思った以上にイイ声で鳴くな」

「…っ、ルバー…?

 な、に…?」

「“なにが起こった”か?

 …べつに知らなくていいぜ。

 おまえはオレに好きにされてりゃいい」

「んっ」

 嗜虐的に笑ったオルバーの言葉の意味を尋ねる余裕も暇もなく、唇をきつく重ねられて身体がひくんと震えた。

 逃げられないよう細い身体を抱きしめ、ソファに押しつけてオルバーは何度もくちづける。まるごと喰らおうとするような激しいキスに翻弄されて、抵抗なんてなにも出来なかった。

 そもそも身体を支配する暴力的なほどの熱と快楽に、まともな思考なんて塗りつぶされている。

 なにも出来ずにされるがままになって、気づけば上着も肩から落とされ、中に着ていたシャツもはだけていた。ベルトも外されて、オルバーの手が下着の中に侵入してくる。

「…っや、オルバー…っ、やめ…!」

「やめていいのかよ?

 キスだけでこんなに濡らしておいて、放っておかれて堪えられんのか?」

「っや、いやだ。

 や、めろ。

 やめて、くれ…っ」

 体内を渦巻く狂いそうなほどの快楽と身体を這い回る大きな手の感触に、熱い吐息と涙をこぼしながら、必死にオルバーの腕を掴んで止めようとしても、逆にすがっているようにしか見えなかっただろう。

「オルバー…っ!

 や、」

 自分に起こった異変の理由も、オルバーの行動の意味もわからなくて、それでも拒もうとした唇はすぐにキスでふさがれた。

「ちげぇよ」

「…っシ、」

「ちげぇ。

 オレは、おまえの“オルバー”じゃねえ」

 ひどく苦しげな彼の顔が見えた。それが、まともに記憶に残った最後だった。




 夢も見ないほど深く眠っていたハーティスの意識を、最初に引っ張ったのは身体中に残る鈍痛だった。

「……ん」

 まどろみの中で、なぜこんなに身体中が痛いのかと疑問に思った。

 肌に触れるシーツの感触はやさしく、不快感などはまったくない。ただ、あちこちが痛い。

 それに自分は裸で眠っただろうか?

 どうも、身体に触れるシーツの感触からして、自分はなにも身につけていないようなのだが。

 普段、眠るときに下着は身につけないがそれは女物の下着をつけることに抵抗があったからで、さすがに全裸で寝たりはしていない。まして同じ寝台にはいつもオルバーがいたのに。

 不意に、手首と右の足首に奇妙な感触があることに気づいた。徐々に覚醒してきた意識の中で、動かしてみるとしゃら、とおかしな音が鼓膜をくすぐる。

 いよいよなにかおかしいと気づいて、ハーティスはまだ眠いと訴える脳の指令を払ってまぶたを開けた。

 明かりの灯った室内は、妙に薄暗い。それはカーテンがぴっちりと引かれているからだとすぐに気づいた。

 今まで自分が使っていた部屋では、ない。やたらと広くしつらえも豪華で、綺麗な部屋だ。ただ窓は重厚なカーテンでしっかりと覆われ、ほかの部屋に続く入り口も床まで伸びた扉代わりの長い布で隠されている。

「…なんだ、ここ」

 自分の唇からこぼれた声は、ずいぶんかすれていた。喉がひりひりと痛む。

 身を起こそうとすれば身体の節々が痛んだ。特にひどいのは股関節と腰と、人に言いにくいような部分だ。

 腕を突っ張って起き上がろうとしてやっと気づいた。両手首に、分厚く丈夫そうな枷が嵌まっていた。おまけに右足にも同じような枷があり、長い鎖が太い柱に繋がっている。

 両手に嵌まった枷も、鎖で繋がっている。自由に腕を動かせる程度のゆとりはあるが。「…なんだ、これ」

 もう一度、かすれたつぶやきが漏れたが、今度は先ほどよりずっとか細い。

 はっきり言って自分の身に起こった状況がさっぱりわからず、茫然としたのだ。

 ただ、身体中に残った無数の鬱血の跡や噛み跡を見れば、自ずと推測は出来る。

 でも信じられなかった。信じたくなかった。

 それは、自分がオルバーに“裏切られた”ということにほかならないからだ。

「ああ、起きたのか」

「…っ」

 不意に響いた妙に明るい声に息を呑む。

 視線を入り口のほうに向けると、部屋を遮る布のそばにオルバーの姿があった。

「…これは、なんのマネだ。

 答えろ」

「見てわかんねえのかよ?」

「わからねえから聞いてんだろ。

 これはいったいなんのマネだ。

 どうしてこんな…っ」

 はぐらかすようなことを言うオルバーに苛立って、責め立てるような声が口を吐く。

 しかし言い終わる前に大股で近寄ってきたオルバーに腕を掴まれ、シーツの上に押し倒された。

「わからねえなら答えてやる。

 ――おまえをオレのもんにするためだよ」

「…………は…?」

「ここに閉じ込めて、逃げられねえようにして、おまえをオレのもんにする。

 そのためにこんなことをしたんだ」

「……っんな、バカな、こと。

 だいたい、ほかのやつにすぐバレるに決まって」

 らしくないほどに混乱していたから、気づいていなかった。

 オルバーに嘲笑されるまでは。

「まだ寝ぼけてんのか。

 おまえに催淫剤入りの紅茶をいれたの、誰だと思ってんだ」

 その言葉に、今度こそ衝撃で呼吸すら止まった。

 ああ、そうだ。あの紅茶をいれたのは、ニコラスだ。

 今思えば、彼もどことなく様子がおかしかったような、気がする。

 じゃあ、まさか、これは、オルバーだけの意思ではなくて。

 あまりのショックで、頭の中が真っ白になってすぐになにも言えずにいると、オルバーが口の端を冷たく吊り上げた。

「そんなに帰りたいか?

 おまえを待ってる男の元に」

「……オルバー?」

「知ってるんだぜ?

 オレによく似た“オルバー”って名前の男が、おまえが元いた場所でおまえを待ってるんだってこと」

「…っ」

 思わず目を見開いたのは、息を呑んでしまったのは、純粋に驚いたのだ。

 彼がなぜそのことを知っているのかと。

 しかしオルバーにとっては自分のその反応は、あまりに不愉快なものであったらしい。

 図星だと言わんばかりの反応に見えたからだろう。

 怒りを隠しもせず、嫉妬も執着もむき出しにして、まるで獣のような顔で彼は笑った。

 自分の身体を抑えつけたまま。

「…でも残念だったな。

 おまえはもう永久にそいつの元には帰れない。

 …これからずっと、オレのそばで暮らすんだ」

 うっそりとした笑みを浮かべて、オルバーは自分の腹部をそっと撫でる。

「数え切れないほどオレに犯されて、ここにオレの子供を孕ませられたら、もう、おまえはオレのそばにいるしかなくなるだろう?」

 そう言って自分を見つめて笑う顔は、見慣れた微笑みではなかった。

 仄暗い熱を宿した、どこか歪んだような、悲しげな笑みに見えた。

 自分は催淫剤のせいでろくに記憶に残っていないが、確実に自分は何度も彼に犯されたのだろう。そして身体の奥に、何度も彼の精を注がれた。

「そ、…んな、冗談…」

「そう、冗談じゃねえ。

 オレは限りなく本気だし、正気だぜ」

 愛おしげに自分の頬を撫でる手は、ひどく熱い。それが、これが現実なのだと雄弁に語っていた。

「裏切ったなんて言うなよ。

 …さきにオレを裏切ったのは、おまえじゃねえか」

 オルバーはやはり笑っていた。

 けれどそれは、ひどく傷ついたような、笑おうとして失敗したような、出来損ないの笑みだった。


『おまえがオレを裏切らないと誓うなら、――オレもおまえを裏切らない』


 ああ、そうだった。そうだったな。

 そう誓ったのに、離れようとした。捨てようとしてしまった。

 誤ったのは、自分のほうだった。

 たぶん、彼は聞いていたのだろう。あの夜、十和と交わした会話を。

 自分が彼を「要らない」と言ったことを。


『なあ、おまえ、ほんとうに王になる気はない、のか?』


 自分が紅茶を飲む前に、ニコラスがそう尋ねたのはきっと、本音では自分を裏切りたくはなかったからだろう。

 オルバーは自分を手に入れたくてこんなマネをしたが、ニコラスたちはきっとちがう。

 自分をこの国に留めたくて、オルバーに手を貸したのだろう。

 きっとあのとき、自分が「王になる」と答えていたならば、ニコラスは自分に催淫剤入りの紅茶を飲ませはしなかったはずだ。

 裏切りたくないと願っていた彼らの最後の希望を打ち砕いたのはほかでもない自分だ。


(先に裏切ったのは、オレのほうだ)


「安心しろよ。

 オレはおまえを傷つけたりしねえ。

 ずっと大事にしてやるから」

 その言葉がうそだとは思わなかった。

 自分を疎んじたからこんなマネをしたのではないとわかっている。

 だからこそどうしようもなく悔しかったし苦しかった。許せなかった。

 ほかでもない、自分自身が。

 わずかに碧い瞳ににじんだ涙を、どういう意味だと捉えたのだろうか。

 オルバーはひどくやさしい顔をして、そっと自分の目尻にくちづける。

「なにがあってもオレはおまえを離さない

 おまえがどんな風になっても、…オレはずっと愛してるぜ」

 まるで誓いのような言葉は、むしろ呪いのように心を絡め取った。


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