第3話 意識

 じいっ、とハーティスを見つめたまま動かないオルバーに、ニコラスとレックスは怪訝な視線を向けた。

 ハーティスの執務室の机には相変わらず大量の書類が積み上がっており、ニコラスたちの机も同様だ。まだまだやらなければならないことが山ほどあり、手が足りない。

 なのだが、書類から顔を上げもしないハーティスの横顔をガン見したまま、離れた場所のソファに座って動かないオルバーはなんなのだろう。

 オルバーはハーティスを認めていない“例外”なので、ハーティスを倒す隙をうかがっていると考えるのが普通だが、どうもちがうように見える。

 昨日までは敵意に満ちた視線をハーティスに注いでいたのに、今日は探るような、確かめるようなそんな視線に変わっている。

「…なあ、ハーティス」

「…ん?なんだ…?」

「あいつ、どうしたんだ?」

 きりの良いところまで仕事が片付いたので、ニコラスは立ち上がると先ほどザックが持ってきてくれた紅茶をカップに注ぎ始めた。

「…ああ、一応番犬かな」

「番犬?」

「そう。

 オレを認めたわけじゃねえけど、オレが自分以外のやつに倒されたりヤられたりするのは腹が立つから見張ってるってことらしい。

 やるなら自分がやりたいんだろうな」

 差し出されたカップを礼を言って受け取ると、ハーティスは麗しい笑みを浮かべてこともなげに言う。

 ニコラスとレックスはなんとも言えない顔で視線をオルバーに向けた。

 それ、余計に安心出来ないんじゃ?

 そう思ったけど、オルバーはハーティスの仕事中は近づいてこないし邪魔する気もないらしい。

「…あれは、本気で『自分以外のやつにやられるのが嫌だから』なんかな…?」

「…さあ。

 少なくともハーティスの言うことを聞いてるみたいだし…?」

 未だかつてオルバーが誰かの言うことにおとなしく従ってるところなんて見たことがない、とニコラスもレックスも思う。

 理由がなんであれハーティスに従っているのならば、ほかに理由があるような気も。

「心配すんな。

 ああいう手合いを調教すんのは得意なんだ」

「…なんつーか、ハーティスって猛獣使いみたいだよな」

「言えてる」

 自信たっぷりな笑みで言ったハーティスに、ニコラスとレックスも笑ってしまう。

 ハーティスだったら本気で手懐けそうだ。

「それ、おまえたち込みで言ってる?」

「そうだな」

 悪戯っぽく細められた瞳に見上げられ、ニコラスはまんざらでもない気持ちで頷いた。

 自分たちも彼女に手懐けられたようなものだし、否定はしない。

 いずれオルバーもそうなるだろう、と疑う余地もなく思ってしまった。

「まあ、おまえたちみたいな荒っぽいやつらを手懐けるのは慣れてるんだ」

 ハーティスは椅子に腰掛けたまま、カップを傾ける。

 唯一残された王族。処刑された第二王子の一人娘。

 でも、それ以上のことは自分たちも知らない。

 型破りな姫君なのはわかってたけど、いったい今までになにがあったんだろう。

 辺境の地に軟禁されて、親を殺され、あげく生け贄として城に連れてこられて。

 普通の姫君ならもうとっくに心が壊れていてもおかしくないような人生なのに。

 考えていると、部屋の扉が開いてザックが顔を出し、ニコラスとレックスを呼ぶ。

 あちこち手が足りない状況なのだ。やるべきことはたくさんあるし、仕方ない。

 それでもオルバーと二人きりにしてだいじょうぶだろうか、と若干心配でハーティスの顔をうかがうと、ハーティスは悠然とした笑みを浮かべて「だいじょうぶだ」と軽く手を振った。




「それで?

 またかまって欲しいのか?」

「バカにすんな。

 そんなわけあるかよ」

 ニコラスたちがいなくなったとたんに近寄ってきたオルバーを見上げて、ハーティスは椅子に座って足を組んだまま微笑みかける。

 オルバーはぶすくれた表情のまま、ハーティスのすぐ横に立っていた。

「オレに手伝えとは言わねえよな。

 おまえ」

「だって、おまえに言ってやるとは思わねえし、それに向き不向きもあるだろ。

 努力次第でどうにかなることならオレも言うが、おまえはそもそも努力自体が大嫌いなやつだし、机に何時間もかじりついてるなんて無理だろうしなあ」

「…………よく見てるよな」

 出会ってまだ半月ほどなのにそこまで自分の性格を把握してるのか、とオルバーは複雑な心境になる。

 でもハーティスは人の心理や感情の機微を悟るのがひどくうまい。

 自分たちだけじゃなく、ほかの国王軍のメンバーに関してもすぐに顔と名前を覚えたし、性格や得意分野まで把握している。

 ハーティスのことは認めたわけじゃないし気に入らないとも思ってるが、確かに人の上に立つ器量はあるんだろう。

「少なくともオレのそばにいればもめ事は起こさねえし、それにおまえがいつもオレのそばにいればよからぬことを企むやつも寄ってこないだろうしな」

「…本気でオレ様を番犬代わりにしてんのかよ」

「なに言ってんだ。

 おまえにとってもベストのはずだぜ。

 オレのそばにいれば、いつでも寝首をかけるだろう?」

「…っ」

 椅子に座ったままこちらを見上げて、妖しく目を細めたハーティスに心臓が大きく跳ね上がった。

「オレの信頼を勝ち得れば、それだけ手も出しやすくなる。

 オレを殺すにしろ、犯して支配するにしろ、そっちのほうがずっと勝算が高いじゃねえか。

 おまえのために言ってんだ」

「………本気かよ。

 おまえ」

「もちろん。

 オレは出来ないことは言わない」

 思わずかすれた声が口を吐いた。

 信じられなかった。それが本心ならなぜ、そんなにも不敵に笑っていられる。

「…頭おかしいんじゃねえのか。

 いつ、自分に牙を剥くかもわかんねえやつをそばにおいておくってのか?」

「おまえはほんとうに単細胞だな」

「っな」

「さっき言っただろう?

『ああいう手合いを調教すんのは得意なんだ』

 …オレはな、おまえがオレの寝首を掻くより早く、おまえを手懐けられる自信があるんだよ」

 挑発的に微笑んで言ったハーティスに、今度こそオルバーの呼吸が止まる。

「おまえはオレを支配するためにオレの信頼を勝ち得ようとするが、それはオレも同じだ。

 おまえの目的がなんであれそばにいれば、オレもおまえを手懐けやすくなる。

 おまえがオレを支配するのが先か、…オレがおまえを服従させるのが先か。

 勝負するのも楽しそうだろ?」

「…………」

 ハーティスの表情はこの上なく楽しそうだった。

 本気だ。本気で言っているのだ。この女は。

 自分の命や貞操すら危うい状況を逆手にとって、それすらゲームにして楽しんでいる。

 それだけ自信があるのだ。自分が勝つ、という揺るぎない確信が。

 どんな状況にあっても決して怯まず臆さず、折れることもない、どこまでもしなやかで気高く、恐ろしく強い。

 ニコラスたちが彼女を「女神のようだ」と言っていたが、冗談じゃない。


(こいつは悪魔だ)


 本物の悪魔のように狡猾で凶悪で残忍で、誰より強い。そういう女だ。

 人の心を魅了し、惑わせるそのうつくしさも魔性のようじゃないか。

 ハーティス・ミディアという女の本質を思い知って、わき上がるのは恐怖でも嫌悪でもなく、歓喜に似た感情だった。

 知らず知らず口の端がつり上がる。

 ずっとずっと退屈で苦しくて餓え渇いて仕方なかった。心がひび割れていくような日々だった。

 それが彼女に出会って変わっていくような、そんな予感がした。




 その日の夜だった。

 オルバーは一人、月明かりの照らす廊下を歩いていた。

 ハーティスを探していたのだ。

 ゲームをしよう、なんて言っておいて、気づいたらいなくなっていたのだ。

 あの悪魔みたいな女がほかのやつにどうにかされるとは思っていないが、それでもオレより先にほかの男に倒されるのも、犯されるのも腹が立つ。

 敗北の屈辱も、男に犯され支配される悦びを与えるのも、自分でなければ許せない。

 はじめて自分に敗北を与えたあの女に引導を渡すのは、自分でなければ許せないと思っていた。

 不意に耳に触れた空気を切る音に、オルバーは足を止める。

「…剣の素振りの音、か…?

 鍛錬場…?」

 鍛錬場の方向から風に乗って響くのは剣を振るう音だ。刃がぶつかり合う金属音は一切聞こえないから、誰かが一人で素振りをしているのだろう。

 こんな時間に誰が、と思いながら足を向けたのは、今いる場所から近かったからだ。

 ハーティスの居場所を知っているなら聞いておこう、くらいに思っていた。

 だから月明かりに照らされた石造りの鍛錬場の上で、剣を振るっているハーティスの姿を見つけたときは呼吸を失った。

 神など信じていないようなオルバーですら、目を奪われて動けなくなるほどに神々しく、うつくしい姿だった。

 まるで戦女神のように神秘的で気高く、誰も寄せ付けないほどに高潔で麗しい。

 青白い月光に照らされて剣を振るう姿は、今まで目にしたどんな女よりも鮮烈に、オルバーの心を強く貫いた。

 ひゅん、と空気を切った剣の切っ先が止まる。

 ハーティスはちいさく息を吐くと「そこにいるなら手伝ってくれないか」と自分を見て言った。

 オルバーは少し驚いたがそれだけだ。ハーティスはひどく目が良いらしく、視線を向けていなくてもすぐに気づいてしまう。

「剣術なんか学んでどうするんだ?」

「戦うためだろ?

 守られるだけなんてごめんだからな」

「…マジで型破りだよな、おまえ」

 ため息と一緒に吐き出した言葉は、呆れよりも感嘆の情が強くにじんでしまった。

 どこまでも姫君らしくないハーティスの姿を見るたび、興味を惹かれてしまう。

 もっと知りたいとすら思わされるのだから不思議だ。

 オルバーは軽く地面を蹴ると、地上よりやや高い場所にある鍛錬場の舞台の上に跳び乗った。

「でも手伝うってなにすんだ?

 オレは剣術は我流で、教えられるようなもんは…」

「誰が教えろと言った?

 試合の相手になってくれと言ったんだ」

「…おい、バカ言ってんなよ。

 いくらおまえが強いからってそれはねえだろ。

 だいたい、真剣でやる気なのか?」

 初対面のときは不意を突かれたのもあるし、そのあとも剣で勝負をしたことはない。

 いくらなんでも華奢な女相手に剣を向ける気にはなれなかった。

 しかも鍛錬用の刃先を潰した剣ならまだしも、オルバーは真剣しか持っていないしハーティスの手にあるのも真剣だ。

 なのにハーティスはバカにしたように笑って挑発する。

「なんだ。

 女相手に手加減出来るほどの実力もねえのか?」

「…なんだと?」

「思った以上に腰抜けなんだな。

 マルク・オルバー。

 女にすら勝てる自信がねえとは、オレの見込み違いだったか」

「…ってめえ、痛い目を見ねえとわかんねえみたいだな」

 安い挑発だとわかっていても引き下がれなかった。

 ハーティスは怯む様子なく、むしろ逆に煽るように指先で自分を招く。

「ほら、…噛みついてみせろよ。

 オレを支配したいんだろ?」

 嘲笑うような不敵な笑みは、やはり悪魔のようにひどくうつくしかった。




 夜の澄み切った空気の中に刃がぶつかり合う金属音が響く。

「チッ!」

 足でブレーキをかけ、体勢を直しながらオルバーは舌打ちする。

 いくらハーティスがとんでもなく強くとも、剣を持っていれば自分のほうに分があると思っていた。

 力も足の速さもなにもかも自分のほうが上なのに、ハーティスの剣を弾くことすら出来ない。

 オルバーの太刀筋はことごとく見抜かれ、たやすく弾かれ、避けられる。

 なんだよこいつは。ほんとうに女か。信じられない。受け入れられない、はずなのに。

「…っ面白ぇ」

 いつの間にか唇は隠しきれない興奮につり上がっていた。気分が高揚するのを止められない。今まで感じたことがないほどのスリルと興奮と、それ以上の喜び。

 自分以上に優れた人間なんていていいはずがない。許せないはずだったのに、なぜこんなにも自分は今楽しいのか。

 疎ましいはずの女が相手なのに、どうしてこんなにも目を奪われ、心すら掴まれたような心地で、瞬きすらも惜しんでその姿を焼き付けようとしているのか。

 一瞬すら気が抜けないのに、魅入られて呼吸すら忘れてしまいそうになるほどに、彼女はうつくしかった。

 常人では反応すら出来ないような速度で接近し、剣を振るったがハーティスには通用しなかった。

 高く跳んだハーティスがオルバーの背後に降り立ち、剣を一閃する。オルバーの反応が遅れていれば首が飛んでいただろうが、オルバーはその前に姿勢を低くして剣の軌道から逃れている。

 ハーティスのような目がなくとも、長年の経験と優れた野生の勘がある。そしてそれをわかった上でハーティスも容赦のない攻撃を繰り出してくる。

 オルバーならば必ず避けると確信した上で。それがわかるからこそ、ますます気が昂ぶった。

 姿勢を低くしたまま剣をハーティスに向かって突き出した。当然ハーティスは避けるはずだったが、舞台のわずかな石の継ぎ目に踵が引っかかったのかがくん、と体勢が崩れる。

「っやべ…!」

 ハーティスなら避けると判断した上で全力で放った攻撃だ。一瞬でも反応が遅れれば命取りになる。

 だが途中でブレーキをかけるなんて出来るはずがない。もう片方の手で剣を握る右腕を抑えて止めようとしたが、間に合うとは思えなかった。

 けれど、次の瞬間、ハーティスの姿が視界から消える。

「え」

 息を呑んだオルバーは、視界の端に映った金色の髪に呼吸を失う。

 次いで鳩尾に強い衝撃を受けて、そのまま視界が一転した。

 気づくとオルバーの身体は舞台の上に仰向けに倒れていて、目の前には何事もない様子で立っているハーティスがいる。

 彼女は汗で貼り付いた髪を首を軽く振ってどかし、オルバーに近寄ってきた。

「だいじょうぶか?」

 激しい運動で白い頬は淡く色づき、花びらのような唇から荒い呼吸がこぼれる。汗で濡れた髪がひどく扇情的だった。

 差し出された手は自分に比べて遙かにちいさく華奢だ。

 けれどその手のひらにはいくつもの肉刺が出来ていた。

 なんだかたまらなくなって、オルバーは衝動的にその手を掴むと思い切り彼女の身体を引っ張る。

 ハーティスは驚いて声を上げるが、踏ん張る力がなかったのかそのままオルバーの腕の中に倒れ込んできた。

「…っ…なに、するんだ」

「………いや、なんとなく。

 よくわかんねえが」

「なんだそれ…」

 自分でもよくわからなかった。ただ、無性に触れてしまいたくなった。

 正体のわからない衝動だった。

 自分の腕の中に収まった身体はちいさくてやわらかくて、甘い香りがする。

 ぎゅう、と胸を締め付けるあまやかな痛みが理解不能で、オルバーはかすかに息を吐いた。

「…おまえは、マジでとんでもねえな」

「褒め言葉か?」

「…ああ」

 否定する気はなかった。本心だった。

 敵わない、と心底思わされてしまった。

 バランスを崩した体勢で、避けられるはずがなかったのに。反応出来るはずがなかったのに。

 彼女は驚くべき身体能力であの状態から体勢を素早く立て直し、剣の切っ先を躱すとオルバーの鳩尾に蹴りをたたき込んだ。

 吹っ飛ばされる寸前、彼女の顔が間近に見えた。

 恐怖も焦りもなく、どこまでも真っ直ぐに自分を射貫く碧い双眸。

 あの瞳に、胸を貫かれた気がした。

 オルバーの言葉にハーティスは顔を上げると、はじめて見るようなやわらかな笑みを浮かべた。

 それだけで収まってきたはずの鼓動が速くなる。

「て、おい。

 おまえ、頬に傷が」

「…ああ、べつに気にするな」

 先ほど、剣の切っ先がわずかに頬をかすめたのだろう。

 きめ細かい肌に一筋残った赤い傷跡を、彼女は気にした様子もない。

 なにもかもちがう。今までに会った女たちとは、なにもかもちがうのだ。

 それを思い知って、もっと強く興味を抱いた。

「でもおまえ、顔に」

「だから気にするなよ。

 舐めときゃ治るだろ」

 こともなげに言ったハーティスに、身体が動いたのは無意識だった。

 衝動的にハーティスのちいさな頭を抱き寄せ、頬に出来た傷跡に舌を這わせる。

「っ…」

 ハーティスもまさかそんなことをされると思っていなかったらしく、目を見開いてびくりと身体を震わせた。

「な、にして」

「…いや、だって、舐めれば治るって」

 はじめて自分の前で動揺をあらわにしたハーティスに、オルバーはひどくうろたえた。

 あれ、なんだ、そんな顔も出来んのかよこいつ。なんでこんな、かわいいなんて。

 なんでこんなに、心臓がうるさいんだ。

 ハーティスは自分の言葉に目を見開き、それから恥じらうように頬を染め、視線を逸らす。

「…本気で舐めるやつがあるか。

 この単細胞め」

「…っ」

 吐き捨てる声すらなんだか舌っ足らずでかわいく思えて。

 心臓が収まらない。

 こんなのははじめてだった。


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