第35章 —「守る」と言った口—

面談室の扉が開いた瞬間、廊下の空気が生ぬるく感じた。

 白すぎる部屋から出ると、世界の色が少し濁って見える。


 ラウンジへ戻る途中、湧は無意識に左腕を押さえた。

 採血の痕。絆創膏の下が、じくじく熱い。


 扉を開けると、梨々香が立ち上がりかけて――止まった。

 湧の顔を見た瞬間に、何かを言うのを飲み込んだのが分かった。


「……おかえり」


 声が小さい。

 小さいほど、怖い。


「……ただいま」


 湧はそれだけ言って、椅子に座った。

 座った瞬間、息が浅いことに気づく。

 面談室の中では、呼吸を“させてもらっていた”気がした。


 麻衣が近づいてくる。


「どうだった? ……“大丈夫”って言われた?」


 湧は笑おうとして、失敗した。


「……手順を守れ、って」


 言った途端、喉の奥が鉄の味になる。

 白鷺の声が、耳の奥でまだ鳴っている。


 梨々香が、湧の絆創膏を見た。


「……そんなに血、抜いたの?」


 湧は頷いた。

 頷くしかない。言葉にしたら“確認”が増える。


 そのとき、ラウンジの隅で真砂が本をめくった。

 ページをめくる音が、やけに大きく聞こえた。


 桜子は眼鏡の奥で湧を一度だけ見て、すぐ視線を逸らす。

 “見た”という事実だけが、静かに残った。



 夕方、篠崎がまた紙片を配った。

 面談の時間ではない。短い指示だけが書いてある。


 「本日より:服用後、胃粘膜保護剤(白)を1包」

 「気分不良の方:申告」


 胃粘膜保護剤。

 言い方は柔らかいのに、紙の質感が冷たい。


「これ、昨日までなかったですよね」


 麻衣が言った。

 篠崎は微笑む。


「体調変動が大きい方が出ています。安全のためです」


 またそれ。

 安全のため――その言葉の下に、全部が押し込まれる。


 白い小袋が配られた。

 開けると粉が入っている。薬っぽい甘さはない。

 舌に乗せた瞬間、粉がまとわりついて、苦味が遅れて追いかけてくる。


 湧は咳き込みそうになって、必死で飲み込んだ。

 飲み込んだあとも、喉の奥に粉の粒が残る。


 梨々香が小さく顔をしかめる。


「……これ、やだ……」


 湧は、頷きそうになってやめた。

 うなずきは“反抗”に見えるかもしれない、と面談室で刷り込まれた感覚が残っている。


 篠崎が一人ずつ、口の中をライトで確認する。

 その光が当たるたび、湧は呼吸を忘れそうになる。


 確認が終わったとき、篠崎はいつもの声で言った。


「ありがとうございました。皆さん、とても協力的です」


 “協力的”。

 褒め言葉の形をした、鎖。



 夜の自由時間。

 麻衣が湧と梨々香の間に座り、声を落とした。


「ねえ……面談室さ」


 湧の肩が、わずかに固くなる。


「“質問”されると思うじゃん。違うの」


 麻衣は笑おうとして、やめた。


「吐いたものとか、さ。昨日の夜――袋に入れたやつ。

 あれ、提出って言われた」


「……提出?」


「量と色と、時間。

 “記録が必要です”って。

 で、出せないって言ったら、すぐ“安全のため”が来る」


 麻衣は指先で自分の喉を撫でた。

 その仕草が、口腔確認の記憶と重なって、湧の胃が縮む。


「口も腹も、勝手に触られる。

 “見えますね”って言われて、こっちは画面見えないのに」


 湧は、息を吸って吐いた。


「……俺も、同じだった」


 梨々香が唇を噛む。


「じゃあ御影さんは……」


 その名前が出た瞬間、三人とも黙った。

 黙るのが一番安全だと、もう知ってしまっている。


 麻衣が、さらに声を落とす。


「御影さん、絶対……あの部屋で“折られた”よ。

 戻ってきた顔、見たでしょ」


 湧は見た。

 そして自分も、同じ顔になりかけている気がした。



 その日の深夜、廊下がざわついた。

 看護師の足音。小走り。抑えた声。


 湧はベッドの中で目を開けた。

 覗き穴に寄りたい衝動が、喉まで上がってくる。


 ――見るな。

 見たら、手順が増える。


 それでも耳が拾う。


「……御影さん、立てますか」


 返事は、かすれた音だった。


「……だい、じょうぶ……」


 大丈夫。

 便利な呪文が、今度は割れて聞こえる。


 続いて、吐く音。

 水じゃない粘度。

 息が詰まる音。


 湧は布団の中で拳を握り、爪を食い込ませた。

 自分の部屋で、自分の体を守るためにできることが、それしかない。


 しばらくして、台車の車輪が鳴った。


 きぃ……。


 その音が通り過ぎたあと、廊下は静かになった。

 静かすぎて、逆に怖い。


 梨々香の声が、壁越しに小さく届いた。


「……湧くん、起きてる?」


「……起きてる」


「……もう、やだ」


 湧は返せなかった。

 “やだ”の後に何を足しても、ここでは手順に変わる。



 翌朝の測定室。

 列が動く。金属板が冷たい。


 御影は来なかった。

 欠けた席が、今日も欠けている。


 誰も口にしない。

 口にした瞬間、欠けたものが確定してしまうから。


 真砂が、紙片を受け取る。

 数字を見て、呼吸を一回だけ整える。


 桜子は紙片を折りながら、何気ない口調で湧に言った。


「……昨日、廊下で音、しましたよね」


 湧は返事を迷って、結局小さく頷いた。


 桜子はそれ以上言わず、眼鏡の奥で周囲を見た。

 看護師の配置。扉の位置。カードキーの色。


 真砂は湧の耳に届かないくらい小さく、桜子へ言う。


「……増えてる」


 何が、とは言わない。

 言わないまま、二人は“進んでいる”のを共有していた。


 その無言が、湧には怖かった。

 怖いのに、少しだけ頼もしくもあった。



 昼前、白鷺がラウンジに現れた。

 昨日よりも自然に、そこに立つ。自然なほど不自然。


「皆さん、協力ありがとうございます」


 白鷺は穏やかに言った。


「体調変動が大きい方がいるため、予定を微調整します。

 不安にならないでください。これは安全のためです」


 安全のため。

 その言葉を聞いた瞬間、湧の胃が沈む。


 “予定の微調整”は、延長の言い換えだ。


 白鷺は笑ったまま続ける。


「大丈夫。手順を守れば、問題ありません」


 その言葉に、誰も頷かなかった。

 頷いたら、同意になる。


 白鷺はそれでも微笑んで、最後に言った。


「では、今日も進めましょう」


 進めましょう。

 それは治験を進める言葉じゃない。


 この施設の“次の段階”を進める合図だった。

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