第29章 —説明しないという説明—

ラウンジの席は、いつも通り並んでいた。


 テーブル。紙コップ。朝食の皿。

 同じ配置。

 同じ白い光。


 でも、ひとつだけ違う。


 御影卓の席が空いている。


 椅子の背が、誰にも触られずに立っているだけで、妙に目立った。

 まるで「いなくなった」と主張しているみたいだ。


 麻衣が、いつもより低い声で言った。


「……戻ってきてない」


 梨々香が頷く。

 頷く動きが小さいほど、本気だ。


「……あれから、もう二日だよね。観察って……」


 言い終えたあと、梨々香は紙コップを握りしめる。

 指先が白くなるほど強く。


 湧は何も言えなかった。

 言葉にした瞬間、空席が“現実”になる。


 そこへ、篠崎真弓が入ってくる。

 鍵束の音は、今日も短い。


「本日は採血と健康チェックを先に行います。

 その後、運動プログラムです」


 声は変わらない。

 二日前、御影を“観察”へ連れていったときと同じ調子。


 麻衣が椅子を鳴らして立ち上がった。


「ちょっと待って。御影さんは?」


 篠崎は一拍置き、淡々と答えた。


「体調不良です。必要な処置をしています」


「処置って何?」


「医療判断です」


 医療判断。

 それは説明の顔をしているけれど、説明じゃない。


 麻衣が食い下がる。


「会わせて。顔だけでも見せて」


「面会はできません」


 篠崎の声は優しい。

 優しいまま、線を引く。


 梨々香が、珍しく声を強くした。


「なんでですか。御影さん、二日前までここにいて……!」


「安全のためです」


 安全。

 その言葉が出るたび、空気が狭くなる。



 湧は、喉の奥が乾くのを感じた。

 “安全”と言われているのに、安心できない。


 初日に、前に立った年配の医師の姿が浮かぶ。

 白衣。穏やかな声。

 “責任医師”として紹介された男――南雲。


 そしてもう一人。

 主任研究者として、滑らかな言葉を選んでいた白鷺冴。


 湧は息を吸って、前に出た。


「……すみません」


 自分の声が、思ったより震えていた。


「安全のためって言われても、僕たち納得できません。

 責任医師の南雲先生に会わせてください。

 御影さんがどうなってるのか、医師から説明を受けたいです」


 名前を出した瞬間、ラウンジが静まり返った。

 静まり返った、というより――空気が固まった。


 篠崎の目が、ほんの少しだけ止まる。

 止まって、すぐ“業務”へ戻る。


「南雲医師は常駐ではありません」


「じゃあ白鷺先生は?」


 麻衣が重ねる。

 刃を当てるみたいな声。


「主任研究者なら、説明できるでしょ。

 “安全のため”って言葉だけで、私たち黙れってこと?」


 篠崎は言い返さない。

 否定もしない。肯定もしない。

 ただ、会えないことだけを確定させる。


「白鷺医師も現在対応中です。

 皆さんへの説明は、私が窓口になります」


 窓口。

 それは丁寧な言い方で、閉じられた扉のことだった。


「窓口って……」


 梨々香が言いかけて、飲み込む。

 飲み込んだ言葉が、喉に残って震えている。


「御影さんの“安全”のためなら、なおさら会わせてください」


 湧がそう言うと、篠崎は柔らかい声のまま、硬い言葉を選ぶ。


「医療上の判断です。

 皆さんの安全のためにも、これ以上の混乱は避けてください」


 混乱。

 混乱と呼ばれた瞬間、怒りが“症状”に変えられる。



「星野さん」


 篠崎が麻衣の名を呼ぶ。


「落ち着いてください」


 落ち着いて。

 それは優しい言葉のはずなのに、ここでは命令になる。


「落ち着いてる。落ち着いてるけど、納得できない」


 麻衣が息を吐く。


「人がいなくなって、処置って言われて、面会不可。

 治験って、こんなに“言わない”ものなの?」


 篠崎は表情を変えずに答える。


「治験中の体調変化は想定内です。

 必要な処置は行います。皆さんの安全のために」


 同じ言葉。

 同じ調子。

 同じ“終わらせ方”。


 そのとき、廊下の奥から看護師が二人入ってきた。

 音もなく、篠崎の背後に立つ。


 暴力の気配はない。

 ただ、人数が増えただけ。


 増えただけなのに、空気が“戻れない”形になる。


 列の後ろのほうで椅子がきしんだ。


 真砂亮介が黙って立ち上がり、袖をまくる準備をしている。

 伊達桜子も同じように立つ。眼鏡の奥の視線が、一度だけ掲示板をなぞった。


 騒ぎの中心に入らない。

 入らないまま、見ている。


 湧はそれが少し怖かった。

 でも同時に、どこかで安心してしまう。


(……誰かが、ちゃんと見てる)


 篠崎は穏やかに結論を出した。


「本日から、健康チェックの内容を一部変更します」


 湧は息を呑んだ。


 騒ぐと、手順が増える。

 この施設ではそれが罰で、同時に“正当な対応”になる。


「採血後、服用確認は昼にも行います。

 点滴は全員、時間を延長します」


 麻衣の顔が強張る。


「……なんで全員」


「同一環境下にいる以上、全員の安全確認が必要です」


 必要。

 またその言葉。


 湧は思った。


(これが、“納得できない”って言ったときの形なんだ)


 帰りたい、やめたい、説明してほしい。

 そのどれもが、手順の追加で押し潰される。


 暴力じゃない。

 でも、逃げ道がない。



 採血の列が動き出す。


 誰もが口数を減らした。

 減らしたというより、減らされた。


 湧の番が来て、腕に針が入る。

 抜かれる血は赤い。

 赤いのに、ここでは当たり前の色だ。


 ただ、今日は匂いが妙に濃い気がした。


 消毒液の匂いの奥に、鉄がある。

 湿った鉄。


 列が進む途中、廊下の角の向こうで、白い袋が運ばれていった。

 口がきつく縛られた袋。

 中身の形が、いびつに浮く。


 誰も見ないふりをする。

 見たら、現実になるから。


 湧は目を逸らした。

 逸らしたのに、袋が擦れる音だけが耳に残った。


 布が濡れているときの、重い擦れ方。


 桜子が列の後ろで小さく息を吐いた。

 それだけで、彼女も“気づいている”と分かった。


 真砂は何も言わない。

 何も言わないまま、手の甲の血管を見ている。

 自分の血ではなく、施設の“流れ”を見ている目だった。



 その日の夕方。


 湧たちは点滴室へ回された。

 全員、いつもより長い時間。


 針を刺され、落ちる液体を見つめていると、時間感覚が壊れる。

 壊れるほど、思考が戻る。


(南雲先生は“常駐じゃない”――)


 初日に確かにそこにいたのに、二日目には会えない。

 白鷺先生も“対応中”。

 結局、窓口は篠崎だけ。


 点滴室の奥のドアが一度だけ開いて、すぐ閉じた。

 中から空気が流れてくる。


 鉄の匂いが、ほんの一瞬だけ濃くなる。


 梨々香が湧のほうを見た。

 目が怯えているのに、泣いていない。

 泣けない、という目だった。


 麻衣が点滴の管を見つめながら呟く。


「……説明ってさ」


 声が掠れている。


「してくれないんじゃない。

 “できない”んじゃないの」


 湧は返事ができなかった。

 返事をしたら、その言葉が真実に寄ってしまうから。



 夜。


 昼の服用確認と、夕食後の服用確認。

 “待機”もある。懐中電灯も近い。見回りの距離も近い。


 湧は飲み込む。

 喉に苦味が貼りつく。


 梨々香も飲む。

 唇が震えるのを、目を閉じて誤魔化す。


 麻衣は飲む。

 飲んで、口を開けて、笑った。


「はいはい。ちゃんと“通過”しましたよ」


 笑いが痛い。


 篠崎は何も言わない。

 記録だけをつける。


 湧は一歩だけ踏み出しかけて、止めた。

 また声を上げれば、また手順が増えるのが分かってしまったから。


 責任者は、呼べない。

 呼べないようにできている。


 消灯後。


 廊下の奥で鍵の音がした。

 短く、潔い音。


 鍵が開く。

 閉じる。

 足音が去る。


 その繰り返しのどこかに、御影の夜がある。

 でも、御影の声は戻らない。


 戻らないものが増えるほど、

 この施設は“治験”から遠ざかっていく。


 そして湧は思う。


 初日にいたはずの責任医師も、

 確かに会った主任研究者も、

 今は“いない”ことだけが確かな存在になっている。


 責任者がいない場所で、

 責任だけが増えていく。


 それが、ここで起きていることだった。

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