第27章 —乾きの計算—

 御影は、目が覚めた瞬間から乾いていた。


 口の中がからからで、舌が上顎に張りつく。

 枕元の水を飲んでも、喉の奥の乾きがほどけない。


(……昨日のせいか)


 答えは分かっているのに、認めたくない。

 認めた瞬間、昨日が“たった一回”ではなくなる。


 洗面台で顔を洗う。冷たい水が頬に当たっても、体の内側だけ熱い。

 熱は皮膚の表面ではなく、もっと奥――腹の中心からじわじわ広がる。


 ラウンジへ向かう廊下で、湧は御影の歩き方がいつもと違うのに気づいた。

 速くはない。むしろ慎重。

 “揺れないように”歩いている。


「御影さん、大丈夫ですか」


 湧が小声で訊くと、御影は笑ってみせる。


「大丈夫。寝不足なだけ」


 その言い訳が、昨日より薄い。


 梨々香も御影を見る。

 目が合い、すぐ逸らされる。

 逸らされた視線が、なぜか胸に刺さった。



 朝食はいつも通りだった。

 量も、味も、変わらない。


 変わっているのは、食べる側の体だけだ。


 御影はパンを口に運びながら、何度も水を飲んだ。

 飲むたびに、喉が鳴る。

 その音が、妙に焦って聞こえる。


「……そんなに水飲む人でしたっけ」


 麻衣が軽く言うと、御影は笑って返す。


「汗かくからさ。水、大事だろ」


 言葉は普通なのに、指先が落ち着かない。

 コップの縁を何度も撫で、テーブルを叩き、膝をさする。


 湧は、御影の皿が妙に早く空になるのを見た。

 空になったのに、御影は空の皿を見つめたまま動かない。


 食べたのに、食べた気がしない。

 その顔だ。


 梨々香がそっと声を掛けた。


「御影さん、今日は点滴長めって……昨日、言われてましたよね」


「うん」


 御影は頷いた。

 頷きが遅い。


「だから大丈夫。……たぶん」


 また、たぶん。


 その“たぶん”に、ラウンジの空気が少しだけ硬くなる。

 二週間を少し過ぎた頃から、こういう硬さが増えた。

 数字が甘くなるほど、感情が苦くなる。



 午前の採血。番号順の列。


 湧が医務室から戻ると、廊下の列はまだ途切れていなかった。

 消毒液の匂いと、靴底が床をこする音。誰も大きな声を出さない。


 列の後ろのほうに、見覚えのある背中があった。


 真砂亮介は、いつも通り冴えない顔をしたまま、黙って袖をまくっている。

 採血台の前で看護師が何か言っても、短く頷くだけ。口数がない。

 視線は足元か壁――のはずなのに、篠崎の鍵束が鳴った瞬間だけ、目だけが一度そちらへ滑った。


 その一つ後ろに、伊達桜子が立っていた。眼鏡の奥の表情は読めない。

 針が入っても顔色を変えず、終わると受け取った紙片を丁寧に折り畳む。

 折り目が増えるたび、紙は小さくなって、掌の中に消えていく。


 湧は自分の腕の綿を押さえ直し、列の脇に寄った。


 御影の番が近い。

 そう思っただけで、喉がきゅっと締まる。


 前方で、椅子がきしんだ。

 御影が立ち上がる気配がして、湧は反射的にそちらへ目を向けた。


 針が入った瞬間、御影の肩が跳ねた。

 痛みではない。

 反射的な緊張。


 看護師が「深呼吸してくださいね」と言うと、御影は頷く。

 頷きはするが、呼吸が浅い。


 採血が終わったあとも、御影は椅子からすぐ立てなかった。

 額に薄い汗。唇が乾いている。


 篠崎真弓が近づく。


「御影さん、立てますか」


「立てます。大丈夫です」


 御影は笑う。笑いが軽すぎる。


「今日は点滴を先にします。こちらへ」


 “こちらへ”という言い方が、誘導ではなく移送に聞こえた。

 篠崎の手が御影の背中に触れる。

 触れ方は丁寧だ。丁寧なのに、拒めない角度。


 亮介は視線を落としたまま、何も言わない。

 ただ、篠崎の導線だけが、一度だけ目の端に入った。


 桜子は紙片を折り終えて、掌にしまう。

 その指先の動きが、淡々としているぶんだけ不気味だった。



 点滴室。


 御影は椅子に座らされ、腕に針が入る。

 透明な液体が落ち始める。


 ぽた、ぽた、ぽた。


 いつもより速い気がする。

 実際に速いのか、御影の焦りがそう感じさせるのか。


 御影は目を閉じた。

 額の汗が引かない。

 喉が動く。唾が出ない。


「……水、飲んでいいですか」


 御影の声が掠れていた。


「少しずつどうぞ」


 看護師が言い、水を手渡す。


 御影は一口飲んで、すぐもう一口。

 それでも乾きは消えない。


 湧は隣のベッドで点滴を受けながら、御影の様子を横目で見ていた。

 御影は落ち着かない。

 椅子の背を掴み、腕の位置を何度も変えようとする。

 抑えようとしているのに、体が言うことを聞かない感じ。


 篠崎が来て、記録を確認する。


「気分は」


「……大丈夫です」


「大丈夫ではありませんね」


 篠崎は優しく言った。

 優しく、断言する。


「今日は観察します。点滴が終わっても、少し休んでから戻りましょう」


 観察。

 その単語が、御影の目を揺らした。


「……俺、申告してないですよ」


「申告がなくても、こちらは判断します」


 同じ言葉。

 昨日より冷たい。


 御影は笑おうとして、笑えなかった。


「……俺、ただ、ちょっと気持ち悪いだけで」


「気持ち悪い“だけ”が積み重なると、倒れます」


 篠崎の声は穏やかなまま、御影の逃げ道を削る。


「倒れると、回復に時間がかかります」


 時間がかかる。

 それはこの施設で一番嫌な言葉だ。

 終わりが遠ざかるから。


 御影は唇を噛み、目を閉じた。



 夕食後。服用の時間。


 白いボトルが並び、空気が整列する。

 篠崎が立ち、看護師が近い距離で見回る。


「二錠です。水は規定量。

 本日は服用後、二分間その場で待機してください」


 “待機”。


 それは治験の言葉の顔をしている。

 でも実態は、見張りの言葉だ。


 湧は飲む。苦味が喉に貼り付く。

 梨々香も飲む。目を閉じて、一度だけ眉を寄せる。

 麻衣は乱暴に飲み込んで、すぐ口を開けた。


「ほら。入ってない」


 自嘲みたいな笑い。


 そして、御影。


 御影は二錠を見て、わずかに目を細めた。

 その視線が掌に貼りついたまま動かない。

 湧は胸の奥がざわついた。――昨日から続く何かが、まだほどけていない気がした。


 御影は小さく息を吐き、二錠を口に入れる。

 水で流し込み、すぐ口を開けた。


 篠崎の懐中電灯の光が口腔内を照らす。

 舌の下。頬の内側。喉の奥。


「……結構です」


 しかし篠崎はそのまま言った。


「御影さん、食後は医務室へ」


 御影の顔が強張る。


「え……なんで」


「本日、観察対象です」


 観察対象。

 はっきり言われた瞬間、御影の体が硬くなる。


「……俺、ちゃんと飲みました」


「飲んだかどうかではありません。体調です」


 篠崎は穏やかに言って、穏やかに動かない。


「抵抗しないでください」


 抵抗。


 その単語が、この施設の本性だった。

 従うことが前提で、従わないことが“抵抗”になる。


 御影は椅子の肘掛けを掴んだ。

 掴んで、離した。


「……分かりました」


 その声が、ひどく小さい。


 御影が連れていかれる背中を見ながら、麻衣が呟いた。


「ね。言ったでしょ。終わんないって」


 言い方が、怒りなのか恐怖なのか分からない。


 梨々香は俯いたまま、紙コップを握りしめた。

 湧は息を吸って、吐いた。


 自分の口の中に残る苦味が、いつもより生々しい。



 消灯後。


 廊下の奥で、鍵が開く音がした。

 金属が擦れる、短い音。


 湧はベッドの上で目を開ける。

 音が遠いのに、近い。


 次に聞こえたのは、足音。

 規則正しく、迷いのない足音。


 篠崎真弓の歩幅だと、湧は思った。

 思ってしまうくらい、あの足音はこの施設の“規則”になっている。


 もう一度、鍵の音。


 その音の向こうで、御影は今夜眠れるのだろうか。

 眠れないのは、御影だけではないのに。


 同じ夜。


 空き部屋で亮介は小さな録音機を握っていた。

 桜子が隣で、息を殺している。


「――記録。No.4(御影 卓)、観察対象として移動。

 主任が鍵を使用。観察室らしき区画への導線確認」


 亮介の声は低く、短い。


「明日、残りが出る」


 桜子が小さく頷く。


「拾います」


 亮介は録音を止めた。


 彼らもまた眠れない。

 眠れないまま、夜の音を数える。


 そしてどこかで、御影の喉が鳴った。

 水を飲みたい。

 でも、乾きは消えない。


 乾きは、体の外側ではなく、

 体の内側の“計算”から来ているみたいだった。

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