第19章 —飲み方のルール—

夕食後のラウンジ。


 白いボトルが並ぶ光景は変わらないのに、

 今日は空気がどこか違った。


「本日から、サプリメントの服用は――」


 スタッフが一枚の紙を掲げる。

 いつもより声がはっきりしている。


「この場で、水と一緒に服用していただきます。

 その後、体調確認のため、数分だけ椅子に座っていてください」


「……え、今までと何が違うんですか?」


 御影が眉をひそめた。


「今までも飲んでましたけど」


「ええ。今までも飲んでいただいていました」


 スタッフは笑顔のまま、言葉を選ぶ。


「ただ、変化が早い方が増えてきましたので、

 飲むタイミングや水分量のブレを減らしたいんです。

 “最適な状態”を揃えるための運用変更です」


 “運用変更”。

 その言い方が、妙に事務的で、嫌に耳に残る。


 湧は、ボトルを受け取って蓋を開けた。

 掌に落ちる二錠。

 今日も同じ白い丸。


 梨々香も同じ動作をして、苦笑する。


「……ますます、学校みたいですね」


「学校ならまだいいよ」


 麻衣が、軽く息を吐く。


「学校って、卒業したら終わるけど。

 ここは、終わりの形がまだ見えない」


 冗談の形をしているのに、言葉が重かった。


 湧は、何か返そうとして――やめた。

 今の麻衣には、下手に触れないほうがいい気がした。



「では、どうぞ」


 促されて、全員が一斉に飲む。


 二錠を口に入れ、水を含み、飲み下す。

 喉の奥に苦味が張りつき、胃に落ちた瞬間、胸のあたりがきゅっと狭くなる。


(……慣れない)


 慣れるはずがない。

 “毎日”という回数が、ただ嫌悪を増やす。



 飲み終えて数分、椅子に座らされる。


 看護師が一人ひとりの顔色を見て、脈を軽く確認していく。

 いつもより丁寧だ。


「何かありました? 急に」


 御影が小声で湧に囁く。


「分かんないです」


 湧も同じ声で返す。


「でも、たぶん……」


 言いかけて、止めた。

 “飲めてない人がいた”という推測は、口に出すと形になりすぎる。


 代わりに、湧は梨々香の顔を見た。


 梨々香も同じことを思ったのだろう。

 目が合った瞬間、小さく頷いて、すぐに視線を落とした。


 それだけで十分だった。



 その夜。


 麻衣はベッドの上で、ノートを開いていた。

 体重の推移。運動メニュー。睡眠時間。

 そして、サプリを飲んだ時刻。


 今日の欄に、ペン先が止まる。


(……二錠)


 当たり前のように書けばいい。

 今日も飲んだのだから。


 なのに、文字が出てこない。


 ノートは“自分の記録”のはずなのに、

 書いた瞬間、それが“証拠”になるような気がした。


 昨夜、彼女は二錠を飲んだ。

 今日は、ちゃんと二錠だ。


 それでも、心は落ち着かない。

 あの一回の“ずれ”が、胸の奥にしつこく残っている。


(……だから、監視が増えたの?)


 結びつけるのは早い。

 でも、全く無関係とも思えない。


 麻衣はペンを置き、腹に手を当てた。


 熱い。

 運動のあとの熱とは違う。

 もっと内側で、ずっと続いている熱。


 その熱を、“自分の努力の成果”だと思いたいのに、

 思うたびに、どこかで拒否される。


「……五十五」


 小さく呟く。


 目標の数字を口に出すと、少しだけ気持ちが整う。

 数字は裏切らない。

 そう信じたくなる。


 でも、ここでの数字は――

 自分の努力の結果というより、

 “渡された手順”の結果に近い。


 麻衣はノートの端に、ほとんど見えないくらい小さく書いた。


 「今日から、その場で飲ませる」


 それ以上は書かなかった。

 書けなかった。



 翌朝の運動プログラム。


 踏み台昇降の途中で、御影の動きが一拍遅れた。


「……っ」


 足が、ふらつく。

 踏み台の角を踏み外しそうになって、壁に手をついた。


「御影さん?」


 湧が声をかけた瞬間、

 御影は無理に笑った。


「大丈夫……ちょっと、立ちくらみ」


 でも顔色が悪い。

 汗の質も、いつもと違う。


 看護師がすぐ近寄ってきて、脈を取る。


「少し座りましょう。水分は摂れていますか?」


「……はい、たぶん」


 御影は椅子に座らされ、紙コップの水を渡される。

 水を飲んだ瞬間、喉が焼けるように感じた。


「最近、食欲はどうですか」


「あります」


 御影は即答した。


「むしろ、前より腹は減る。

 でも……なんか、食べた気がしない」


 言ってから、自分で変な言い方だと思ったのか、

 苦笑して肩をすくめた。


「食べてるんですけどね。量も。

 なのに、体が“入った”って感じがしないっていうか」


 看護師は微笑んで頷く。


「代謝が上がっていると、そう感じることはありますよ。

 点滴は本日少し長めにしておきましょう」


「点滴、長め」


 その言葉に、御影の眉がわずかに動いた。


(点滴が長いと楽になるって、どういうことだ)


 考えたくない方向へ、思考が流れかける。

 御影は慌てて水をもう一口飲んで、飲み込んだ。



 運動を抜けた御影を、湧と梨々香が気にして見ていた。


「……大丈夫かな」


 梨々香が小声で言う。


「大丈夫って言ってたけど」


「言うしかない時ってありますよね」


 湧がそう返すと、梨々香は黙って頷いた。


 “言うしかない時”。

 ここでは、それが増えていく気がした。



 午後、医務室。


 桜子は点滴室の前を通りながら、わざと足を止めた。

 看護師が取り替えている点滴の袋が、視界の端に入る。


 透明な液体。

 そして、袋の端に貼られた小さなラベル。


 内容は読めない。

 距離がある。

 それでも、手書きで何かが補足されているのは分かった。


 桜子はそれを、ただ頭に焼き付けた。

 “見た”ことだけを、忘れないために。



 その夜、空き部屋。


 亮介は、昨夜盗み見たファイルの内容を、記憶だけで紙に落としていた。

 家族構成の欄。緊急連絡先の欄。フォローアップ状況。


「……ここ」


 亮介がペン先で線を引く。


「前期のフォローアップ、

 “連絡途絶”が続いてる」


「普通、終わったら“終了”とか“経過良好”とかありますよね」


 桜子が低い声で言う。


「ない。全部、途中で途切れてる」


「つまり、終わってないか、終わらせてないか」


 亮介の言い方は、わざと曖昧だった。

 確定させるのはまだ早い。


「それと、今日……点滴の袋、ラベルがあった」


 桜子が言う。


「中身までは見えない。でも、何か追記してた。手書きで」


「手書きは厄介だな」


「逆に、現場でしか運用してないってことかも」


 桜子の言葉に、亮介は少しだけ頷いた。


「サプリの正式名も、

 点滴の内容も、

 “ここでしか完結しない”形になってる可能性がある」


「外に追われないように、ですか」


「そう」


 亮介は紙を畳み、ポケットに入れた。


「だから、焦らず行く。

 “材料”だけは増やす」


 桜子が一度だけ息を吐いた。


「……何か起きる前に、ってことですよね」


「何も起きないのが一番だ」


 亮介は短く言って、すぐに視線を外した。


 この施設で“何も起きない”という願いが、

 どれほど現実離れしているかを、

 彼自身が一番分かっている顔だった。



 消灯前のラウンジ。


 湧と梨々香は窓際のソファに座って、静かに話していた。

 湯気の薄いハーブティーが、今日は妙に苦い香りに感じる。


「御影さん、心配ですね」


 梨々香が言う。


「うん。

 運動中、あんなにふらつくの見たの初めてです」


「でも、点滴長めにするって言ってましたよね」


「……それが逆に気になる」


 湧がぽつりと言うと、梨々香は少し目を丸くした。


「どういう意味ですか」


「いや、変な意味じゃないです」


 湧は慌てて言い直す。


「ただ、

 点滴が増えると楽になるって、

 じゃあ食事って何なんだろうって思って」


「……」


 梨々香は言葉を探してから、静かに頷いた。


「分かります。

 私も最近、食べてるのに“満たされた”感じが薄いです」


 それは、誰かに言うのが難しい感覚だった。

 胃は膨らむ。味もする。

 でも、体の芯が、ずっと空腹のままみたいな。


「ここが終わったら、何食べたいですか」


 梨々香が話題を変えるように聞いた。


「え、急に」


「急にです」


 梨々香は小さく笑う。


「私、今……アイス食べたいです」


「アイスかぁ」


「溶けるのがもったいなくて、

 いつも急いで食べちゃうんですけど」


 梨々香は、少しだけ照れたように言った。


「次は、ちゃんと味わって食べたいです」


 湧はその言い方が好きだと思った。

 “ちゃんと味わう”という言葉が、ここでは妙に眩しい。


「俺は……」


 湧は考えてから言った。


「ラーメン。

 あと、唐揚げ」


「王道ですね」


「王道がいいんですよ。

 普通の店で、普通に頼んで、普通に食べる」


 “普通”が、今は一番遠い。



 少し沈黙が落ちた。

 その沈黙を、梨々香が破る。


「……約束、覚えてます?」


「覚えてますよ」


 湧はすぐ答えた。


「この一ヶ月が終わったら、また会うって」


「うん」


 梨々香は紙コップを両手で包み込んだ。


「その約束があると、

 ちょっとだけ、今が軽くなる気がします」


「分かります」


 湧も頷いた。


「俺も、誰かと約束すること自体が久しぶりで」


 言ってから、少しだけ笑う。


「だから、

 忘れたくないです」


「忘れたら怒ります」


「怖いな」


「ちゃんと怒ります」


 二人で小さく笑った。


 まだ、“恐怖”は現実になっていない。

 だから、こういう笑いが残っている。


 そのことが、湧にはありがたくて、

 同時に、いつまで続くんだろうとも思った。



 モニタールーム。


 冴は静かに画面を見つめていた。

 各被験者のデータの横に、今日から新しい項目が追加されている。


 ――服用:立会い

 ――服用:確認

 ――服用後:経過観察


「……やっと整ったわね」


 冴が微笑む。


 美玖が、タブレットでチェックを入れていく。


「立会いで揃えると、

 反応の差がはっきり出ますね」


「ええ」


 冴は頷く。


「人間は、手順が緩いと必ず揺れます。

 “忘れたふり”も、“自分なりの調整”もする」


 その言い方は淡々としていて、

 責める色がまるでなかった。


 むしろ――当然、という色だった。


「揺れが怖いなら、揺れないように縛ればいい。

 でも、揺れはデータとしても美味しい」


 冴は画面を切り替える。


 御影の波形。麻衣の睡眠。

 湧の腹部周辺の微細な反応。

 梨々香の心拍の落ち方。


「……」


 冴は小さく息を吐く。


「次は、採血の頻度を少し上げましょう」


「了解です」


 美玖が即答する。


「負担が増えすぎない範囲で、ね」


 冴は優しく言った。


「私たちは“整える”ためにやっている。

 被験者にそう信じてもらうことも、同じくらい大事よ」


 信じてもらう。

 その言葉が、モニターの無機質な光の中で、妙に浮いた。


 画面の中の数字たちは、今日も静かに上下している。

 そして、手順の項目だけが、ひとつ増えた。


 ――“この場で飲む”。


 それは、日常の小さな変更のようでいて、

 誰かの逃げ道を、確実にひとつ塞いでいた。

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