第16章 —ファイルの端と、名前の並び—
翌朝の測定。
湧は、体重計の上で数字が止まるのをじっと待った。
ピッ。
表示された数字を見て、思わず息を呑む。
(マジか)
来たときから考えると、すでにかなり減っている。
スタッフがメモに書き込む。
「順調ですね、加藤さん」
「……はい」
素直に喜びたい数字だった。
でも今は、
昨夜のことも頭の片隅に引っかかっている。
(夜中にあれだけお腹やばかったのに、ちゃんと落ちてるんだ)
数字が、あの違和感を肯定しているようにも見えた。
測定を終えてみんながラウンジに戻ると、
ホワイトボードにはいつものグラフが貼り出された。
「本日も、経過の中間チェックをしていきましょう」
冴が前に立つ。
棒グラフ。
折れ線グラフ。
名前の代わりに番号が並び、
それぞれ体重・体脂肪・筋肉量の推移が描かれている。
「No.1(加藤さん)は、この一週間でここまで変化しています」
冴がペンで示す。
折れ線は、じりじりと右肩下がりに伸びている。
「筋肉量もほぼ維持できていて、非常にバランスのいい変化です」
「……よかったですね」
梨々香が、小声で囁いた。
「うん」
湧は、照れくさくなって視線をそらす。
「No.3(星野さん)も、一時的に少し睡眠の乱れはありましたが」
冴が、別のグラフを指す。
「体重・体脂肪の変化自体はおおむね順調です」
「“睡眠の乱れ”って、そんなのまで分かるんですね」
麻衣が苦笑しながら言う。
「もちろんです」
冴は微笑む。
「皆さんの身体に負担をかけないよう、
すべてのデータを細かくチェックしていますから」
そう言われると、ありがたいような、怖いような。
「ここまでの経過を見て、何か不安な点や気になる点はありますか?」
冴が全体を見渡す。
一瞬だけ沈黙が落ちる。
誰も手を挙げない。
不安がないわけではない。
でも、
どう言葉にしていいか分からない。
“お腹の中が変”と訴えても、
昨日までと同じように
「代謝が活発な証拠」と返される気がする。
「いま大事なのは、“変化を止めないこと”です」
冴は、いつもの口調で続けた。
「途中で恐くなってしまうのは当然です。
ですが、
そこでご自身の判断だけで
サプリメントの服用を変えてしまうのは、
一番危険なタイミングなんですよ」
その言葉に、麻衣の肩がびくりと僅かに揺れた。
「“一錠だけ”“今日だけ”――
そういう小さな変化から、
身体全体のリズムが崩れてしまうケースもあります」
「……」
まるで、昨夜の行動を見透かされているようだった。
実際、
モニタールームでは全部把握されているのだが――
麻衣はそこまで想像が及ばない。
「なにか調整したいことがあれば、
必ず私たちに相談してください。
勝手に変えないこと」
冴は、少しだけ声を硬くした。
「それだけは、約束してくださいね」
たった一言。
「約束してください」。
その言葉が、
まるで首輪のように
全員の胸に引っかかった。
昼下がり。
運動プログラムと昼食のあいだの自由時間。
廊下を歩いていた桜子は、
わざとスタッフの一人に声をかけた。
「あの、すみません」
「はい?」
「昨日、少しお腹の調子が悪くて」
やや控えめな声。
「朝、点滴してもらったらマシになったんですけど、
念のため
自分の検査結果とか
見せてもらうことってできますか?」
「検査結果、ですか?」
「はい。
ここ来る前から、
お医者さんに“内臓ちょっと弱いかもね”って言われてたんで」
嘘ではない。
「潜入用の設定」として
事前に用意したプロフィールの一部だ。
「そんな大げさなものじゃなくていいんです。
血液検査の紙とか、簡単な説明だけでも」
スタッフは少し考えてから、笑顔で答えた。
「白鷺先生に確認してみますね。
問題なければ、
後で診察室にお呼びします」
「ありがとうございます」
頭を下げて、桜子は廊下を離れた。
少し離れた曲がり角で、真砂亮介が待っている。
「どうだった」
「たぶん、診察室までは行けます」
桜子は、声を落として言った。
「そこから先、どこまで近づけるかは分かんないですけど」
「行けるだけ行くしかねぇな」
亮介は短く答えた。
「ファイルの種類だけでも分かれば、外の連中に伝えられる情報が増える」
「“制御剤”の正式名も、ですか」
「ああ」
サプリ。
制御剤。
その本当の名前。
成分。
投与量。
どれもが、外の捜査にとっては重要な鍵になる。
「……にしても」
桜子は、自分の腕をさする。
「さっきの“約束してくださいね”って、結構きつかったですね」
「ああ、聞いてたか」
「“一錠だけ”って単語まで出されると、
ちょっと笑えないですよ」
「そういう揺れ方をする被験者が、
今までも何人もいたってことだろ」
亮介は低く言う。
「それを、全部“想定内”に収めてきたわけだ」
「収めてきた、というより――」
桜子は、言葉を濁した。
“捨ててきた”のかもしれないという考えが、頭をよぎる。
でも今は、まだ口にしない。
午後。
桜子は名前を呼ばれ、診察室へ向かった。
ノックをして入ると、冴が机の向かいに座っていた。
「伊達さんですね。どうぞ、おかけください」
「失礼します」
椅子に座りながら、
桜子はすばやく部屋の構造を確認した。
机。
モニター。
書類棚。
奥の扉は――鍵付き。
(あれが、診療記録室かな)
正面からは見えない角度に
金属の取っ手がひっそりと光っている。
「お腹の調子が悪かった、と伺いましたが」
「はい。
昨日の夜、少し気持ち悪くて」
「嘔吐は?」
「そこまではいかないです。
ただ、
中が落ち着かない感じというか」
「なるほど」
冴は、キーボードを軽く叩いた。
モニターに、昨夜から今朝にかけてのデータが表示される。
「心拍数と睡眠の深さは、
星野さんほどではありませんが
伊達さんも少し乱れていましたね」
モニターを見ながら言う。
「でも、
気にしているのは
そこだけではないように見えます」
冴が視線をこちらに戻す。
「“自分の体がどうなっているか”を
もっと具体的に知りたい、
という感じでしょうか?」
「……正直、そうです」
桜子は、あえて素直に頷いた。
「ここに来てから、
変化してるのは分かるんですけど」
「はい」
「それが全部“いい変化”なのか、
ちゃんと数字で確認しておきたいというか」
この言い方なら、被験者として自然だ。
不信感ではなく、
“自己管理意識が高い”人間のふり。
「いい姿勢ですね」
冴は、少し目を細めた。
「では――」
プリンタにコマンドを送り、数枚の紙を取り出す。
「これは、入所時と今の血液検査の比較です」
「……」
桜子はそれを受け取った。
ヘモグロビン、
血糖値、
コレステロール。
いくつかの項目に
赤いマーカーで丸がつけられている。
「大きな問題はありません。
むしろ、
いくつかの値は改善しています」
「そう、なんですね」
数字を眺めながら、
桜子は視線の端で
冴の手元を追った。
机の片隅に、
厚めのファイルが積まれている。
背表紙には、手書きのラベル。
――今期被験者
――前期被験者
後者のファイルだけ、微妙に色あせて見えた。
「その紙は、お部屋に持ち帰っても大丈夫ですよ」
冴が言う。
「不安になったときに、
いつでも見返してください。
“ああ、自分の体はちゃんと良くなっているんだ”と」
「ありがとうございます」
桜子は頭を下げた。
そのとき、冴の視線が彼女の手元にちらりと落ちる。
「……?」
桜子は無意識に、自分の左手首を押さえていた。
そこには、薄い傷跡が一本あった。
事前の設定どおり、
「過去に自傷行為があった」という
偽の痕。
「その傷は、昔のものですよね?」
「ええ。
学生のとき、ちょっといろいろあって」
桜子は、用意しておいたセリフを口にする。
「今はもう、やるつもりはないです」
「そうですか」
冴は、
その言葉をどの程度信じたのか、
読み取らせない表情で頷いた。
「では、
あまり思い詰めないようにしてくださいね。
“自分で自分を傷つける方法”は、
ここでは必要ありませんから」
その言い方に、うっすらとした寒気が走る。
けれど桜子は、表情を崩さなかった。
「何かあれば、また相談に来てください」
それが合図のように、診察は終わった。
桜子は部屋を退出する。
閉まりかけたドアの隙間から、
机の上のファイルが一瞬だけ見えた。
――前期被験者
その文字が、目に焼き付く。
その日の夜。
消灯のアナウンスが流れたあと。
廊下の灯りが落ち、
小さな非常灯だけが
足元をぼんやり照らしている。
真砂亮介は、決めていた時間どおりにベッドを抜け出した。
扉をそっと開ける。
施設の夜は静かだ。
しかし、
完全な無人ではない。
見回りのスタッフの足音が
ときどき遠くで響く。
亮介は、
あらかじめ頭に入れておいた
“死角ルート”を辿って廊下を進んだ。
階段。
踊り場。
曲がり角。
やがて、医務室の前にたどり着く。
ドアには鍵がかかっている。
だが、
その隣――
診察室のドアは電子ロックではなく普通の鍵だった。
(桜子が見たファイルは、あの奥だ)
亮介は
小さな道具を取り出し、
静かにドアの鍵に差し込む。
カチリ、と鈍い音。
慎重にドアを開け、中へ入った。
診察室の奥には、もう一枚ドアがある。
「関係者以外立入禁止」と書かれた札。
こちらは電子ロックがついていた。
(さすがにここまでは無理か)
亮介は、
電子ロックには手を出さず
手前の書類棚を優先することにした。
机の横の棚を開ける。
中には、いくつものファイルが並んでいる。
―― 今期
―― 前期
背表紙のラベルだけでも、情報はある。
まず「今期」のほうを手に取る。
ただし中身までは開かない。
表紙に貼られた一覧を
暗闇の中で目を凝らして読む。
番号。
仮名。
年齢。
性別。
その横に、「家族構成」の欄があった。
―― 一人っ子
―― 両親死亡
―― 親族との同居なし
(……やっぱり、そういうことか)
全員、
ほぼ同じパターンで埋められている。
兄弟なし。
両親はすでに他界。
緊急連絡先に「親族」の名前がない。
“いなくなっても大騒ぎされづらい人間”だけが、選ばれている。
もう一冊、
「前期」と書かれたファイルをそっと引き出す。
こちらも表紙の一覧だけを見る。
番号。
年齢。
性別。
家族構成。
―― 一人っ子
―― 両親死亡
ほとんど同じだ。
ただ一番右端に、
「フォローアップ状況」と書かれた欄があった。
いくつかの行には、
「連絡途絶」の文字。
また別の行には、
「所在不明」「自宅不在」といったメモ。
どの行にも、
“普通の退院”や“元の生活に復帰”を示す言葉は
見当たらなかった。
(これだけでも、十分だ)
亮介は、頭の中で情報を整理する。
今期・前期ともに、家族条件はほぼ同じ。
前期の被験者たちは、
フォローアップの途中で
次々と消息を絶っている。
(あとで桜子に共有しねぇとな)
電子ロックの向こう――
診療記録室の中には
もっと直接的な情報があるはずだが、
今は手を出さない。
ここで捕まりでもしたら、元も子もない。
ファイルを元の位置に戻し、棚を閉める。
診察室のドアの鍵をかけ直し、
亮介は静かに廊下へ戻った。
遠くで、見回りスタッフの靴音が聞こえる。
足音のリズムを読みながら、自室へのルートを辿る。
ベッドに戻ったときには、心臓が少し早く打っていた。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、天井を見上げる。
誰もいない天井の上――
外のどこかでこの情報が届く日を想像する。
(“一人っ子で両親死亡”。それが共通点)
声に出さずに、頭の中で繰り返す。
(“失踪しても騒がれにくい人間だけを集めた”努力、か)
そう考えると、胸の奥に小さな怒りが生まれた。
翌日の昼。
ラウンジで、湧と梨々香は向かい合って座っていた。
テーブルの上には、薄いハーブティー。
「なんか、最近顔変わりましたね」
梨々香が、ニコっと笑いながら言う。
「え?」
「前より、輪郭がすっきりしてきた、っていうか」
「ああ……」
湧は、耳のあたりをかいた。
「佐伯さんもですよ」
「えっ?」
思わず声が上ずる。
「前より、肌が明るくなった気がします」
「う、うそ」
「ほんとですって。
前より、なんか元気そうっていうか」
その“元気そう”という言葉は
体重の話だけじゃなく、
表情の話でもあった。
ここへ来てから、
梨々香は少しずつ
人と目を合わせられるようになっている。
「……大学戻ったら、
最初誰か気づいてくれますかね」
ぽつりと、梨々香が言った。
「“あれ、痩せた?”とか」
「気づくんじゃないですか?」
湧は即答する。
「いや、気づいてくれなきゃ困るでしょ」
「たしかに」
梨々香も笑った。
「加藤さんは?」
「俺?」
「戻ったら、誰に最初に見せたいですか」
そう聞かれて、湧は少し考えた。
友達。
教授。
ゼミの仲間。
頭に浮かぶ顔はいくつかあるが、
決定的な一人はすぐには出てこない。
「……とりあえず、高校の同窓会とかですかね」
「おお」
梨々香が目を丸くする。
「“誰か分かんない”って言わせたいな、みたいな」
「それ、いいですね」
「まあ、心の中ではちゃんと“俺だよ”ってドヤりたいですけど」
二人で笑い合う。
そんな何気ない会話が、いちばん救いだった。
「ねえ」
笑いがひと段落したあとで、
梨々香が少しだけ真面目な声で言った。
「もし、ここ出てもうまくいかなくなったら」
「うまくいかなくなったら?」
「また、どこかでこういうのに頼りたくなるんですかね」
テーブルの端に置かれた
白いボトルに視線を落とす。
「“サプリ飲めばどうにかなる”って思いそうで、ちょっと怖いです」
「……」
湧は言葉に詰まった。
彼自身、同じことを考えたことがある。
「でも、今それ考えてもしょうがないですよ」
少しだけ考えてから、そう答えた。
「とりあえずは、この一ヶ月をちゃんと走り切るのが先じゃないですか。
ここでやることやって、それから一緒に悩みましょうよ」
「……そうですね」
梨々香は、小さく頷いた。
「もし、またどうしようもなくなりそうになったら」
湧は、笑いながら言う。
「そのときは、 佐伯さんの言い訳にもなるし」
「ひどい」
梨々香も笑う。
その会話の上を、天井のカメラが静かに見下ろしていた。
彼らが知らないところで、
別の部屋では
家族構成の欄が並ぶファイルが
静かに閉じられている。
自分たちが“選ばれた理由”をまだ誰も知らないまま。
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