第13章 —甘い未来と苦い錠剤—
翌朝。
測定を終えた湧は、
自室に戻ってからもしばらく
洗面台の鏡の前から動けずにいた。
(……誰だよ、これ)
頬をつまむ。
顎のラインをなぞる。
丸かった輪郭が、
いつの間にか“顔”の形をし始めていた。
もちろん、雑誌に出てくるモデルみたいに
シュッとしているわけではない。
それでも、
「太っている」と言われれば素直に頷くしかなかった
以前の自分とは、
明らかに違う。
目の下のクマも、前よりは薄くなっている気がする。
(高校のときの顔より、まだちょっとふっくらしてるくらいか?)
そこまで考えて、苦笑した。
(……比べる対象が“昔の自分”ってのも、なんか情けないけどな)
腹に手を当てる。
皮膚の上から触る分には、
確かに薄くなっている。
だけど、その奥――
小腸とか大腸とか、
理科の授業でしか見たことのない器官が
ぐるぐる詰まっているはずの場所は、
やっぱり今日も、
あの妙な“燃えている感じ”を抱え込んでいた。
(これが、全部いいほうに働いてくれてるならいいんだけど)
そう思って、
鏡の前でひとつ深呼吸する。
今日も、
ラウンジでサプリを飲んで、
運動をして、
ご飯を食べて――
その繰り返しの一日だ。
(……でも少なくとも)
鏡の中の自分が、
少しだけ“マシ”に見えるのは、
紛れもない事実だった。
「よし」
小さく声に出して、
湧は部屋を出た。
午前中のプログラムは、
予告なしの「撮影」だった。
「はい、それでは皆さん」
ラウンジの一角。
白い背景パネルの前に、
冴が立っている。
「本日は、
経過観察の一環として
“ビフォー/アフター”用の写真を撮影させていただきます」
ホワイトボードの端には、
“身体変化の視覚化”と書かれていた。
「最初にお撮りした全身写真と比べて、
変化を分かりやすく記録するためです」
(あれか……)
来た初日に撮られた、
あの嫌な全身写真を思い出す。
洗面所の鏡より残酷な、
真正面からのライトとレンズ。
あのときは、
できるだけ表情を殺そうと必死だった。
「服装はこちらでご用意したもので統一しますね」
冴が示したラックには、
ジャージ素材のタイトな上下がかかっていた。
体のラインが分かりやすいように、
少しぴったり目のデザインだ。
「水着……じゃないだけマシか」
麻衣が、小声でほっと息をついた。
「むしろ水着のほうが慣れてるんじゃないですか」
湧が冗談めかして言うと、
麻衣はじろっと睨んだ。
「引退してから、
もう何年も着てないんだから」
「……すみません」
「でもまあ、
ジャージくらいならいいか」
そう言って
彼女は先に更衣室へ向かった。
男女別の簡易更衣室で着替えを済ませ、
順番に撮影ブースへ。
「では、星野さんからお願いできますか」
「はーい」
麻衣は、
慣れた足取りで白い背景の前に立った。
カメラマン役のスタッフが、構図を整える。
冴が横から角度を指示する。
「正面を向いて、足を肩幅に開いてください。腕は体の横に自然に」
「はいはい」
シャッター音。
「横向きもお願いできますか。
顔は正面で」
「こう?」
「ええ、そのまま」
シャッターが連続で切られていく。
麻衣は、
ほんの少しだけ顎を引いた。
プロ時代の癖が、
まだ身体に残っている。
「星野さん」
撮影がひと段落すると、
冴が小さく声をかけた。
「はい?」
「最初に撮影したときと比べて、
今のお気持ちはどうですか?」
「そうですねぇ……」
麻衣は、少しだけ天井を見上げてから答えた。
「“あの頃の私”にやっと近づいてきた、って感じですかね」
「あの頃?」
「仕事してたころの。
カメラの前に立っても、
そこまで怯えなくてよかった頃の」
言葉の端に、少しだけ苦味がにじむ。
「でも正直、
まだ“戻れてない”って感じもあります」
「戻れてない?」
「体は変わってきてるけど、
中身が“引け目”のままっていうか。
何年もかけてこじらせたコンプレックスなんで」
冴は、興味深そうに頷いた。
「“身体が先で、心が後”という状態ですね」
「そう。このギャップ、まだ埋まってない気がします」
「だからこそ、
こうして視覚的に変化を確認することは
大切だと思いますよ」
冴の声は、いつも通り穏やかだった。
「もう少し進んだら、
ぜひご自身の目で“ビフォー/アフター”を見てみてください」
「見るの、ちょっと怖いですけどね」
麻衣は肩をすくめた。
「“昔の私”と“今の私”と、どっちがマシか判断しなきゃいけなくなりそうで」
そのあと、
梨々香と湧も順番に撮影された。
「もう少し、顔を上げてください」
「こ、こうですか」
「はい、そのまま。目線はこちらへ」
レンズの向こう側で冴が微笑む。
梨々香は、
自分がカメラに向かって笑おうとしていることに
撮影の途中で気づいた。
(……私、今、ちゃんと顔上げてる)
最初に撮ったときは、
視線をどこへ置けばいいか分からなかった。
今は、少しだけ怖さが薄れている。
それが、
身体の変化のせいなのか、
ここでの生活に慣れたせいなのかは分からない。
湧の番になったとき。
「加藤さん」
「はい」
「最初の写真と比べて、
肩のラインがずいぶん変わりましたね」
冴がモニターのサムネイルを確認しながら言う。
「本当ですか?」
「ええ。首筋も、少し長く見えるようになりました」
言われて、湧は少しだけ背筋を伸ばした。
(首、短いのずっと気にしてたんだよな)
それが“長く見える”と言われたことが、
思った以上に嬉しかった。
「このまま、無理のない範囲で続けていきましょう」
「……はい」
カメラの前で返事をしながらも、
湧の心のどこかには
「この変化を失いたくない」という欲が
はっきり根を張り始めていた。
撮影が終わって少ししたころ。
各自の部屋には、
サプリメントのボトルが一つずつ置かれていた。
白いプラスチック容器。
ラベルには、
英字の化粧品ブランドみたいな名前が印字されている。
(……減ってきたな)
蓋を開けて中を覗き込んだ麻衣は、
思わず眉をひそめた。
最初は、ぎっしり詰まっていたはずの錠剤。
それが今は、底がちらちら見え始めている。
「そりゃそうか。毎日こんだけ飲んでりゃ」
手のひらに二錠落とす。
白くて、少し表面がざらついている。
匂いは相変わらず、
漢方薬をさらに苦くしたような感じだ。
(これ、もしここ出るときに“はい終わりです”って言われたら、どうすんだろ、私)
急に不安が湧き上がる。
ここまで変われた。
それは事実だ。
でも、
変われた理由の大半が
この苦い粒にあることも、
うすうす自覚している。
(サプリなしで維持できるって、ほんとに思える?)
自問自答の答えは、あまりにも心許なかった。
撮影のあと、
冴に聞こうかと思った質問が
喉の奥に残っている。
――このサプリ、退所後も処方してもらえるんですか?
そう聞きたかった。
でも、
もし「いいえ」と言われたら、
その瞬間に今の体も未来もぐらぐらに崩れそうで。
結局、何も聞けなかった。
(……ほんと、ダサいな私)
自嘲気味に笑う。
モデルをしていたころは、
カメラの前で堂々と笑っていたくせに。
体重のキープに失敗して
あっさり仕事を失った自分は、
今、一本の錠剤にしがみついている。
手のひらの上の二錠を、しばらくじっと見つめた。
ひとつを指先で転がす。
爪で軽く弾いてみる。
(もし、一本だけだったら)
一錠だけ飲んで、もう一錠は飲まなかったら。
そのとき、自分の体に何が起きるのか。
どこまでが“許されるサボり”で、
どこからが“危険なライン”なのか。
そんなことを考えている自分に気づいて、
麻衣は舌打ちした。
「なにゲームみたいな発想してんのよ」
自分に突っ込む。
そのとき、ドアがノックされた。
「星野さん、午後のプログラム、もうすぐ始まりますよー」
「あ、はーい」
スタッフの声に返事をして、
麻衣は慌てて手のひらの錠剤を口に入れた。
舌に触れた瞬間、いつもの強い苦味が広がる。
「……っ」
顔をしかめながらも、水で一気に流し込んだ。
喉を通って胃に落ちる感覚が、
妙に鮮明だった。
(結局ちゃんと飲んでるあたり、私もチキンだな)
でも、
チキンでも生き残れるなら
それでいいのかもしれない。
そう思いながら、部屋を出た。
夕方のラウンジ。
軽い運動プログラムのあと、全員で冷たいお茶を飲んでいた。
テーブルの上には、今日も同じ白いサプリが並んでいる。
「なあ」
御影が、紙コップを両手で包み込むようにしながら言った。
「みんな、考えたことありません?」
「何をですか?」
湧が尋ねる。
「これ」
御影は、テーブルの上のボトルを指差した。
「ここ出るときに、
“はい、今日でおしまいです”って言われたらどうしようって」
「……」
テーブルの空気が、ほんの少しだけ重くなった。
「俺、ここに来る前よりはだいぶマシな体になってると思うんですよ」
自分の腹を軽く叩く。
「もちろん、まだ理想とは程遠いですけどね」
「いえ、前聞いた話よりはずいぶん……」
梨々香が気を遣ったように言いかけると、御影は手を振った。
「ありがとうございます。
でも、
もしこの体が“サプリのおかげ”だとしたら」
そこで言葉を切る。
「それ抜かれたら、あっという間に戻っちゃうんじゃないかって」
「リバウンド、ってことですか?」
湧が言う。
「いや、それだけならまだ我慢しますけどね」
御影は苦笑した。
「“ここに来る前より悪くなったらどうしよう”ってのが、正直、一番怖いです」
その言葉に、麻衣が紙コップを握る手に力を込めた。
「私もそれ、考えてました」
「星野さんも?」
「だって、一回仕事失ってるから」
麻衣は少し笑う。
「せっかくここまで戻っても、
また余計に太ったら、
ほんとシャレにならないなって」
「白鷺先生に聞いてみます?」
梨々香が、おそるおそる提案した。
「ここ出たあと、このサプリどうなるか」
「……」
誰もすぐには賛成しなかった。
聞きたい。
でも、聞くのが怖い。
そんな沈黙が、
テーブルの上にだけ重く積もる。
「何か、質問があるようですね?」
不意に、背後から声がした。
振り向くと、そこには冴が立っていた。
いつの間にかラウンジに入ってきて、
ちょうど彼らのテーブルのそばに来ていたらしい。
「あ……」
全員、少しだけ姿勢を正す。
「お話の内容、なんとなく聞こえてしまいました」
冴は、気まずさをやわらげるように微笑んだ。
「“ここを出たあと、このサプリはどうなるのか”――
というご質問でよろしいですか?」
「えっと……」
御影が言葉につまる。
「率直な疑問だと思いますよ」
冴は続ける。
「今は、皆さんの体を“変化させる段階”です。
ですから、
このサプリメント――制御剤を
毎日きちんと飲んでいただく必要があります」
(制御剤……)
普段は「サプリ」としか呼ばれない薬に、
初めて違う名前がついた気がした。
「ですが、ある程度目標と安定状態に達したあと」
冴は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「“減量と維持のバランス”を
一人ひとりのケースに合わせて考えていくことになります」
「それはつまり……」
麻衣が身を乗り出す。
「ここを出たあとも、薬をもらえるんですか?」
「すぐに“完全にゼロ”にすることは
あまりおすすめしません」
冴はあっさりと言った。
「ただし、
今のような量と頻度のまま
一生飲み続けていただく、というわけにもいきません」
「じゃあ……」
「医療機関としての規定や、
皆さんの生活環境もありますからね」
冴は、少しだけ声を和らげる。
「フォローアップの期間中は、
必要な方には必要な量を処方する形になります」
「フォローアップ……」
「ただ、そのときまでに
“サプリだけに頼らない生活リズム”を
一緒に作っていければと思っています」
きれいな答えだった。
それは、
表面的には何も間違っていない説明だ。
でも――
誰も「安心しました」とは言わなかった。
(“必要な方には必要な量”って……
どこまでが“必要”で、
誰が決めるんだよ)
湧は、心の中でツッコミを入れるだけにとどめた。
「不安になるのは、当然のことです」
冴は、わざと全員の顔を一人ひとり見渡した。
「身体が変われば、
生活も、人間関係も、仕事も、
全部変わっていきますから」
「……」
「だからこそ、
今の段階では“変化を止めないこと”に
集中していただきたいのです」
静かな圧。
「そのために、
サプリメントの服用とプログラムへの参加だけは
続けてくださいね」
そう言い残して、冴は別のテーブルへ向かっていった。
彼女が離れたあとも、
テーブルの上の空気はしばらく重いままだった。
「……結局」
沈黙を破ったのは麻衣だった。
「やめるタイミングも、
やめ方も、
向こうが決めるってことだよね」
「そう、聞こえました」
御影が苦笑する。
「自分の体なのにな」
「自分で決めさせてはくれないってことですね」
梨々香の言葉は、妙に冷静だった。
「でもまあ、今のところは――」
湧は、手のひらの上の錠剤を見つめた。
「自分で“飲む”って決めてる分だけ、
まだマシなのかもしれない」
「どういうことですか?」
「いや、
これ全部“飲まされてるだけ”って思ったら
たぶん耐えられないなって」
「……」
「少なくとも今は、
“痩せたいから飲んでる”って
自分で言えるからさ」
その言葉は、自分自身を納得させるためのものでもあった。
みんな黙って頷き、それぞれの錠剤を口に運ぶ。
苦味と薬臭さが、喉の奥に残る。
甘い未来を期待するほど、
サプリの味は
ひどく苦く感じられた。
夜。
各自の部屋。
梨々香は、ベッドの上に膝を抱え込んで座っていた。
手元には、自分がこっそり持ち込んだ小さなノート。
ページの端には、
これまでの体重の推移が細かくメモされている。
入所前。
初日。
二日目。
三日目――
そして今日。
数字だけ見れば、たしかに「成功」と呼べるものだった。
(五十五キロ、か……)
目で追った数字が、少しだけぼやける。
ノートの余白には、大学の友達の名前が書いてあった。
――麻友。
――千紗。
その下に、小さく
「彼氏:湧と同じ小中高」と走り書きされている。
友達の彼氏が加藤湧と同じ学校だったと聞いた日のことを思い出す。
『あの子さ、なんか、私と同じ状況なんだって』
そう話したとき、
麻友は真面目な顔で
「話しかけてみなよ」と言ってくれた。
結局、
話しかけられないまま、
ここにいる。
(今なら、
少しはましな顔で話しかけられるのかな)
そんなことを考えて、
自分で自分に苦笑する。
ここにいる間は、
大学にも行けない。
友達にも会えない。
“変わった自分”を見てもらう未来は、
まだずっと先だ。
ベッドサイドの棚にある
サプリのボトルに目をやる。
蓋を開けて、錠剤を二つ取り出す。
(これのせいで、ここまで来れたのか)
そう思うと、
感謝と嫌悪がごちゃ混ぜになって
胸の中で暴れた。
(これのせいで、ここから引き返せなくなってるのか)
そう思うと、今度は恐怖が混ざる。
「……」
掌の上の白い粒を、じっと見つめた。
(もし、これがなかったら)
自分は、
大学で相変わらず
「ちょっと太ってる子」として
端っこに座っていたのだろう。
加藤湧のことを「似た境遇の人」として
遠くから気にかけるだけで、
何も変えられなかっただろう。
(それは、嫌だ)
はっきりそう思った。
だったら――
今はまだ、この苦味を飲み込むしかない。
「……いただきます」
誰にともなく呟いて、
梨々香は錠剤を口に入れた。
舌の上で苦味が弾ける前に、
水で一気に流し込む。
喉の奥を通っていく感覚が、
いつもより少しだけ重たく感じた。
(いつか、
これに頼らなくても
ちゃんと歩けるようになりたい)
そう思いながら、胸に手を当てる。
あの夜、
廊下で聞いた御影の息遣い。
倒れたときの音。
自分もそうなるかもしれない恐怖は、
もちろんある。
それでも――
“何もしないで終わる”よりは
ずっとマシだと、
今の梨々香は信じたかった。
電気を消し、布団にもぐり込む。
壁一枚隔てた向こう側には、
同じように眠ろうとしている誰かがいる。
湧も、きっと似たようなことを考えているのだろうか。
(明日、少しだけ話してみよう)
昼間のラウンジで、
「七割くらいは信用してる」と言われたことを思い出す。
あの言葉が、妙に胸の中をあたためていた。
目を閉じる。
腹の奥が、またじわじわと熱を帯び始める。
でも今日は、
あの“掴まれる感じ”は少しだけ弱かった。
(……よかった)
そう思った瞬間、ようやく眠気がやってきた。
梨々香は、
かすかな不安と、
それよりわずかに大きな希望を抱えながら
眠りに落ちていった。
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