第9章 —きしみ始める日常—

フェーズ2が始まった――などということを、

 被験者たちは、もちろん知らない。


 彼らにとっては、

 またいつもと同じ、測定の日々が続いているだけだった。


『おはようございます――』


 天井スピーカーの声で目を覚まし、

 歯を磨き、顔を洗い、廊下に出る。


「おはようございます」


「お、おはよう」


 湧と梨々香は、

 すっかり“顔を合わせれば挨拶を交わす仲”になっていた。


 列に並びながら、

 湧はさりげなく梨々香の横顔を見る。


(やっぱり、シュッとしてきたよな……)


 頬の丸さが削れ、

 首筋のラインがすっきりしている。


 なのに――

 本人はまだ、鏡の中の変化を完全には信じ切れていない顔をしていた。


 

「加藤湧さん、どうぞ」


 呼ばれて、湧が体重計に乗る。


 電子音。

 数字が瞬いて止まった。


「……八四・九キロですね」


 スタッフは淡々としているが、

 湧の方は思わず声を漏らした。


「おとといが八六・七だから……

 え、二キロ近く落ちてるじゃん」


「ここ数日は、

 体が“新しい状態”に慣れてきた影響で、

 変化のカーブが少しだけ急になる方も多いんです」


 スタッフは、当たり前のように説明を続ける。


「血圧も脈拍も安定していますから、

 今のところ心配はいりませんよ」


(……そういうもんなのか?)


 実感が追いつかない。

 自分の足が、自分のものじゃないみたいだ。


 でも――

 階段を上るときの軽さは、

 確かに“身体レベルの事実”としてそこにあった。


 

「佐伯梨々香さん」


「はい」


 梨々香が体重計に乗る。


 数字が弾き出される。


「五五・八キロです。

 目標まで、あと少しですね」


「……」


 梨々香は、一瞬息をするのを忘れた。


(五十五……“台”……)


 ずっとノートの中だけの数字だったライン。

 半分諦めていた、憧れの数字。


「初日から、ちょうど五・四キロ減です。

 変化のペースも、とても良好ですよ」


「……はい」


 声が、少し震えた。


 嬉しさと、怖さと。

 どちらも、同じぐらい強い。


(ほんとに、行けちゃうんだ……)


 目標に“届きそう”になって初めて、

 足元の地面が少し心許なく感じ始める。


 

 麻衣は、

 六二キロ台まで落ちていた。


「よし、“五”が近づいてきた」


 数字を見た瞬間、

 彼女は自分で自分にハイタッチした。


「先生、

 このペースなら一ヶ月でいけますよね?」


「五十五、ですか?」


「そう、それ。

 そこまで行ったら、

 少なくとも“テスト撮影”ぐらいは通る体にはなる」


 元モデルらしい言い方だった。


「今のところ、

 この施設のプログラムに、

 あなたの身体は非常によく反応しているようです」


 スタッフの言葉に、麻衣はにやりと笑う。


「じゃ、あとはこっちの根性次第か」


「無理はされないように、だけお願いしますね」


「はーい」


 返事は軽いが、目は本気だ。


 彼女にとって“五十五”は、

 ただの数字ではない。


 “仕事”と、“居場所”に直結する数字だ。


 

 午前中。

 普段の運動時間の一部が、

 「白鷺先生のグループカウンセリング」に変更された。


 ラウンジに椅子が円形に並べられ、

 被験者たちがぽつぽつと座っていく。


「本日は少し、

 “心”の話をしましょう」


 白いボードの前に立った冴が、

 穏やかに切り出した。


「皆さん、

 ここに来てから、鏡を見る頻度は増えましたか?」


 何人かが小さく笑う。

 麻衣が真っ先に手を挙げた。


「増えました」


「どれぐらい?」


「……一日十回以上」


 ラウンジに笑いが起こる。


「元から多そうですけどね、星野さんは」


 御影が小声で突っ込み、

 また笑いが広がった。


「でも、

 星野さんだけではないと思います」


 冴は、

 椅子に腰掛けたまま一人一人の表情を見渡した。


「今まで鏡が苦手だった人も、

 少しずつ“見てみようかな”と思うようになっていませんか?」


 梨々香の肩が、ぴくりと動いた。


(見透かされてる……)


 ここ数日、

 洗面台の前で鏡を見る時間が、確かに増えている。


 まだ“好き”とは言えないけれど、

 逃げずに見ていられる時間が、少しだけ伸びている。


「身体が変わると、

 必ず心も揺れます」


 冴は、ホワイトボードに丸を描き、その中に「体」と書いた。


「この“体”が変わると――」


 丸から矢印を引き、

 別の丸に「心」と記す。


「“心”は、必ず引っ張られます」


「ポジティブにも、ネガティブにも、ですね?」


 御影が、恐る恐る付け加えた。


「そうです」


 冴はにっこり笑う。


「自信がつく人もいます。

 その一方で、

 “こんな自分は自分じゃない”と戸惑う人もいます」


(……)


 梨々香の胸の奥が、きゅっと縮む。


「今まで“太っている自分”で

 いろいろなことを諦めてきた人ほど、

 急に選択肢が増えると戸惑います」


 冴の言葉は、

 まるで心の中を読み上げているみたいだった。


「そんなとき、

 周りから“そんなに変わってないよ”と言われるのと――

 “すごくキレイになったね”“かっこよくなったね”と言われるのと、

 どちらが怖いと思いますか?」


 誰もすぐには答えられなかった。


「“褒められる方が怖い”という人は、多いんですよ」


 冴は、さらりと言う。


「だって、

 褒められた瞬間に、

 その状態を“維持しなきゃいけない”ように感じてしまうから」


 その一言に、

 湧は無意識に背筋を伸ばしていた。


(……あ)


 もしここを出て、

 “痩せたね”と言われたとしたら。


 その瞬間、

 “また太ったらどうしよう”という不安が

 セットで付いてくる未来が、

 急にリアルに想像できてしまう。


「だからこそ、

 “ここ”にいるあいだに」


 冴は、ラウンジの床を軽く叩いた。


「身体だけでなく、

 “変わった自分をどう受け止めるか”も

 一緒に練習していきましょう」


 その言葉には、

 どこか“ここは安全な場所です”と宣言しているニュアンスがあった。


(……安全、ね)


 桜子は、眼鏡の奥で静かに目を細める。


 この女医の言葉は、

 すべて理にかなっている。


 それが、逆に不気味だった。


 

 午後の自由時間。

 希望者は大浴場の利用が許されていた。


 といっても、

 もちろん男女は別々だ。


 湧は、

 男湯の暖簾をくぐった。


 湯気が立ち込める洗い場。

 湯船は、病院のような白いタイル張りだ。


(うわ……)


 数日前までは、

 この“人前で服を脱ぐ”時間が、何より憂鬱だった。


 なるべく他人の視線を避けて、

 体を隠すようにして洗っていた。


 でも今日は、

 ほんの少しだけ、

 その感覚が薄くなっている気がした。


 もちろん、まだ胸を張れる体型ではない。


 それでも、

 “見られている”という意識が

 以前ほど刺々しくない。


「お、加藤くん」


 洗い場の隅で頭を洗っていた御影が、

 湧に気づいて手を挙げた。


「だいぶスッキリしてきましたね」


「御影さんこそ。

 肩周り、全然違うじゃないですか」


「いやいや。

 まだ“おっさん体型”ですよ」


 そう言いながらも、

 御影の表情はどこか誇らしげだった。


「ここ来る前、風呂入るのも億劫だったんですよね」


「え?」


「湯船に浸かると、

 自分の腹が全部見えるじゃないですか。

 それが嫌で、シャワーだけで済ませること多くて」


「ああ……分かるかも」


 今の湧には、その感覚がよく分かった。


「でも、今日は久々に“湯船、ちゃんと気持ちいいな”って思えました」


 御影は、湯につかりながら、少し恥ずかしそうに笑う。


「そう思えただけでも、来た意味あったかな、って」


「……」


 湧は、湯面に映る自分の輪郭をじっと見つめた。


 胸の厚み。

 腹のふくらみ。

 太ももの太さ。


 まだ“太っている”と自覚するラインだ。


 けれど、

 水面のゆらぎの向こうに見える影は、

 確かに“以前よりは少しマシな自分”になっていた。


(……出られたら、

 ちゃんと温泉も行けるかな)


 そんなことを考えた自分に、

 少し驚く。


 

「……でもさ」


 湯に肩まで浸かったまま、

 御影がぽつりと言った。


「最近、

 腹の中がずっと燃えてるみたいな感じ、しません?」


「燃えてる?」


「なんか、

 体は前より軽いのに、

 奥の方だけ、いつもエネルギー使ってる感じっていうか」


 御影は、自分の下腹部を軽く叩いた。


「空腹とも違うんですよね。

 飯食っても、

 すぐ“また燃料入れろ”って言われてるみたいな」


「あー……」


 湧は、自分の腹に手を当てる。


 確かに、

 何もしていないときでも、

 ときどき中からじわじわ熱が広がるような感覚がある。


「ダイエットの“燃焼モード”ってやつなんだろうな、

 とは思うんですけどね」


 御影は苦笑した。


「でも、

 たまに“燃やされ過ぎてる”気もするっていうか」


「燃やされ過ぎ?」


「体重落ちるのは嬉しいんですけど、

 たまに急に電池切れみたいになるんですよ。

 さっきの運動のときみたいに」


 御影は、自分の太ももをさすった。


「ここが、

 からっぽになったみたいな感覚。

 筋肉痛とかじゃなくて」


「……それ、

 看護師さんには言ったんですか?」


「一応、ね。

 “血圧は少し低めだけど問題ない範囲です”って」


「そっか……」


 湧は、

 湯の中で握った自分の指先に力を込めた。


(燃焼モード……

 そういうもんなのか?)


 痛みではない。

 でも、確かに、

 以前とは違う“テンポ”で何かが動いている気がする。


(考えすぎだ。

 サプリが効いてるだけだ)


 そう自分に言い聞かせ、

 湯に沈んだ。


 ふたりの頭の上で、

 換気扇の低い音だけが、

 一定のリズムで鳴り続けていた。。


 

 夜。

 消灯時間少し前。


 各部屋の照明は落とされ、

 廊下だけが淡い常夜灯に照らされている。


 真砂亮介は、

 ベッドサイドの小さな棚を開けた。


 中には、

 いくつかの日用品が整然と並んでいる。


 電気シェーバー、歯ブラシケース、

 ノートパソコン用の充電器――

 そして、小ぶりのモバイルバッテリー。


(……よし)


 亮介は、そのモバイルバッテリーを手に取る。


 外見は市販品と変わらない。

 ただし、中身はまったく別物だった。


 フタの部分を、

 一見すると分からないコツでスライドさせる。


 カチ、と小さな音とともに、

 内部の基板が露出した。


 小型の送受信機。

 そして、その端に青いランプ。


 ランプは、相変わらず沈黙したままだった。


「……まだダメか」


 妨害電波のフィールドから、

 完全には逃れられていないのだろう。


 それでも亮介は、

 しばらくそのランプを見つめていた。


 もし、このランプが点いたとき――

 この建物の座標と、内部のログが

 一気に本部へ送信されるようになっている。


 それだけではない。


「録音、再生」


 小さなスイッチを押すと、

 ノイズ交じりの低い声が、かすかに部屋に流れた。


《――これを聞いているということは、

 たぶん俺は、そっち側にはいない》


 自分の声だ。

 数日前、この部屋で録音した。


《真砂亮介、四十三歳。

 警視庁捜査一課。

 潜入捜査官として、

 “ダイエット臨床試験施設”に入った》


 そのあとは、

 施設の概要と、知り得る範囲の構造、

 参加者の顔ぶれなどが、簡潔に残されている。


 これは、本部に向けた報告であると同時に――

 もしもの場合、この施設から生きて出た誰かが、

 外の世界に真相を伝えるための“ガイド”でもあった。


《この機械を手にしたやつへ》


 メッセージの終盤。

 亮介は、少しだけ言葉を選びながら話していた。


《ここから生きて出られたってことは、

 お前は、運がいいか……

 もしくは、相当しぶといやつだ》


《どっちにしても――

 俺の代わりに、ちゃんと話をしてくれ》


《“何があったのか”を》


 再生を止める。


 部屋の中に静寂が戻った。


(なるべくなら、

 これが“遺言”にならないのが一番なんだがな)


 亮介は苦笑し、

 モバイルバッテリーのフタを元通りに閉じた。

 


 廊下に出ると、

 ちょうど反対側の部屋から桜子が出てきた。


 パジャマ姿に、カーディガン。

 眠れない患者を装っている。


「……トイレですか?」


「まあな。こっちは中年だから、近くてよ」


 亮介は、

 “被験者らしい冗談”で返す。


 桜子の手には、

 小さなノートとペンが握られていた。


 すれ違いざま、

 ノートの端がぱらりと捲れる。


 そこには、

 急いで書いたメモがちらりと見えた。


 ――「診療記録室 カードキー」「被験者番号の抜け」


(抜け、ね……)


 亮介は、

 歩きながら、その単語だけを頭に刻んだ。


 部屋に戻ると、

 布団に潜り込みながら天井を見上げる。


(こいつは、

 やっぱり普通の“ダイエット合宿”じゃない)


 そんなことはとっくに分かっていた。

 分かっていたが――

 日々、体が軽くなっていく実感が、

 その危機感を少しずつ鈍らせてもいた。


(やべぇな)


 苦笑する。


「痩せて喜んでる場合じゃねぇだろ、俺」


 そう呟いた声は、

 すぐに暗がりに溶けていった。


 

 消灯のあと。


 各部屋の照明は落ち、

 廊下だけが淡い光を保っている。


 時間の感覚が、少し曖昧になる。


 湧は、

 浅い眠りと覚醒のあいだを行ったり来たりしていた。


 体はだるく、

 頭だけが妙に冴えている。


(……また腹が変な感じする)


 痛みではない。

 じわじわと、

 奥の方で何かが燃えているような、乾いていくような感覚。


 寝返りを打とうとしたとき――

 遠くで、何かが聞こえた。


 うめき声のような。

 叫び声のような。


 男女の区別もつかない、かすれた声。


「……?」


 湧は、思わず上半身を起こした。


 耳を澄ます。


 確かに、

 誰かが息を詰まらせるような音が聞こえた気がした。


 続いて、

 足音。


 何人かが急いで廊下を走る音。

 誰かが小声で指示を出すような、低い声。


 そして――

 それらはすぐに、ぴたりと消えた。


(……今の、何だったんだ)


 しばらく待ってみるが、

 再び音が聞こえることはなかった。


 緊急アナウンスが鳴ることもなければ、

 天井スピーカーから説明が流れることもない。


 まるで、

 最初から何も起きていなかったかのように。


 その不自然さが、

 かえって耳に残る。


(夢……ってわけでもなさそうだよな)


 胸の奥に、

 小さな棘が刺さったような違和感を抱えたまま、

 湧は再び横になった。


 眠りにつくまで、

 いつもより長い時間がかかった。



 翌朝。

 廊下で顔を合わせた梨々香に、

 湧はなんとはなしに尋ねてみた。


「昨日の夜さ……

 なんか聞こえなかった?」


「え?」


「うめき声っていうか、

 誰か倒れたみたいな……」


 梨々香は、

 首をかしげた。


「ごめんなさい、

 私、ぐっすりでした」


「そっか……」


 御影に聞いてみても、

 首を振るばかりだった。


「寝付き悪いと、

 変な音とか気になっちゃいますよね」


 そう言われると、

 自分だけが神経質なような気がしてくる。



 ラウンジに行くと、

 参加者たちはいつも通りの顔ぶれだった。


 麻衣もいる。

 御影もいる。

 梨々香も、刑事ふたりも。


 欠けている人間は――

 いない。


(じゃあ、あれは……)


 湧は、昨夜の音のことを誰にも話せなくなった。


 ただ一人。

 モニタールームでその一部始終を見ていた冴だけは、

 モニター画面の隅に映る“ベッドひとつ分の異常値”を

 丁寧にチェックしていた。


「大きなイベントには、まだ早いわ」


 小さく呟きながら。


「今回は、

 あくまで“予行演習”として記録しておきましょう」


 その“予行演習”が、

 この施設で起こる“本番”の惨劇の、

 ほんの入口にすぎないことを――


 被験者たちはまだ、知る由もなかった。

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