第6章 —小さな変化 —

翌朝も、天井のスピーカーから同じ電子音が鳴った。


『おはようございます。

 本日の起床時刻になりました。

 被験者の皆様は、七時三十分までに測定室へお越しください』


 湧は、昨日より少しだけスムーズにベッドから起き上がった。


(……なんか、体が重いんだか軽いんだか、よく分かんねぇな)


 筋肉痛のような、だるさのような感覚が、脚や腰のあたりに薄く残っている。

 昨日やらされたストレッチとウォーキングのせいだろう。


 洗面台で顔を洗い、歯を磨き、

 適当に持ってきたジャージに着替える。


 鏡の中の自分は、やっぱり“太っている大学生”のままだった。

 ただ、ほんの少しだけ、顔色が明るいような気もする。


(気のせいか)


 そう自分で否定しながら、廊下に出た。


 ドアがぱたぱたと開き、

 他の参加者たちも同じように測定室へ向かっていく。


 梨々香は、昨日より少し髪をまとめていて、

 寝起きのはずなのに目の下のクマが薄くなっているように見えた。


(……ちゃんと寝れたのかな)


 声をかける勇気はない。

 湧は、少し距離を保ったまま歩く。


 測定室では、昨日と同じスタッフが準備をしていた。


「おはようございます。

 本日からは、毎朝体重と血圧を測定させていただきます。

 変化を見ていくのが目的ですので、

 できるだけ毎日同じ条件で来てくださいね」


 説明は淡々としている。


「では、昨日と同じ順番で参りましょう」


 次々と呼ばれていく中、

 湧の番が来る。


「加藤湧さん、お願いします」


 靴を脱ぎ、

 体重計に乗る。


 電子音。

 数字が、ぱっと表示された。


「……九十五・九キロ」


 スタッフが読み上げる。


(え? ちょっと待て)


 湧は、思わず表示を覗き込んだ。


「昨日が九十七・六でしたから……

 一・七キロ減ですね」


「い、いや……昨日の夜、めちゃくちゃ食べたわけでもないし……」


 思わず口から出る。


 スタッフは、慣れた様子で微笑んだ。


「導入期に、一時的に体内の水分量が変化することがあります。

 体重の変動は、最初は“水”がメインですから、

 あまり一喜一憂しないでくださいね」


 そう言いつつも、

 記録用紙の「−1.7kg」に、薄く丸印をつける。


(でも……)


 湧は、体重計から降りながら密かに腹をつまんだ。


 昨日より、つかめる脂肪の量が、

 ほんの少しだけ少ないような――

 そんな気がした。


 もちろん、誤差と言われればそれまでだ。

 それでも、“数字が減った”という事実だけで、

 心のどこかがざわめく。


(本当に、効いてる……?)


 次に、梨々香の番が来る。


「佐伯梨々香さん」


「はい……」


 おそるおそる体重計に乗る。


「……五九・九キロ」


 スタッフが、昨日のデータと見比べる。


「昨日が六一・二でしたから、一・三キロの減少ですね」


「……」


 梨々香は、息を呑んだ。


(六十、切ってる……)


 その数字に、

 何年も越えられなかった“一つの壁”のようなものを見ていた。


「最初の数日は、どうしても水分変動が大きくなります。

 でも、モチベーションにはなりますね」


 スタッフの冗談めいた言い方に、

 梨々香は小さく笑った。


 星野麻衣の番。


「六十九・八キロ。

 昨日が七十・四でしたので、〇・六キロの減少です」


「ふうん……

 まあ、誤差かもだけど……」


 麻衣は、どこか疑いながらも、

 記録用紙の数字をまじまじと見つめた。


(そういう“誤差”でもいいから、

 このままずっと右肩下がりでいってほしい)


 御影も、

 真砂も、

 桜子も、

 それぞれ微妙な違いはありつつも、

 昨日より少しだけ軽くなっていた。


 たった一日の差。

 まだ“奇跡的変化”というほどではない。


 それでも――

 “何かが動き始めた”という実感を得るには、十分だった。



 測定が終わると、

 すぐ隣の小部屋に誘導された。


 小さなテーブルの上には、

 昨日見たものとよく似た白い錠剤が、

 被験者ごとに分けて並べられている。


「本日から、朝と夜に“調整用サプリメント”を服用していただきます」


 高科美玖が、

 いつもの笑顔で説明を始めた。


「これは、昨日の導入用とは成分が少し異なりますが、

 皆さんの体内環境を整える役割を果たします。

 食事前に飲んでいただくことで、

 その日の代謝バランスを調整していくイメージですね」


 冗談めかして「お守りだと思ってください」と付け加える。


 湧の名前が呼ばれ、

 紙コップと錠剤を渡された。


 昨日と違い、

 今日は錠剤が二つ。


(……うわ、増えた)


 そう思いながら、

 口に放り込む。


 舌に乗せた瞬間、

 昨日よりはっきりとした苦味が広がった。


(まず――)


 思わず眉をひそめる。


 水で一気に流し込むが、

 喉を通るまでの数秒がやけに長く感じられた。


「味は、そのうち慣れてきますよ」


 美玖が、慣れた調子で言う。


「“おいしかったら飲み過ぎちゃう”って思ってください」


 軽口に、

 周りから苦笑が漏れた。


 梨々香も、

 顔をしかめながら錠剤を飲み込む。


(これを、毎日……朝と夜、二回……)


 その想像だけで、

 ちょっとした憂鬱を覚えた。


 だが、

 六十キロを切った数字を思い出す。


(……続けられる。

 続けなきゃ)


 そう心の中で自分に言い聞かせる。


 星野麻衣は、

 飲み終えたあと、舌をべーっと出した。


「っっっっっっっッッッッッッず!」


「そんなにですか?」


 御影が、半分笑いながら聞く。


「今まで飲んだ中で、一番まずいサプリかも。

 でも……効いてくれるなら、我慢する」


 麻衣の顔には、

 わずかな希望と、意地のようなものが浮かんでいた。


 真砂亮介も、

 そのやり取りを横目に見ながら、

 何事もなかったように錠剤を飲み込んだ。


 舌の上に残る苦味を、

 心の中の別の苦味で上塗りする。


(苦いのなんて、今さらだ)


 そうつぶやいて、

 紙コップをゴミ箱に投げ入れた。



 朝食は、昨日と同じ食堂で提供された。


 栄養バランスだけを見て設計されたようなメニュー。

 だが、盛り付けはきちんとしている。


 スクランブルエッグ。

 サラダ。

 少量のソーセージ。

 ヨーグルト。

 全粒粉のトースト。


「……なんか、健康、って感じだよね」


 皿を受け取りながら、麻衣がぼやく。


「これなら、しばらくは飽きずに食べられるんじゃないですか?」


 と、スタッフが笑いながら返す。


 湧は、トレイを載せて空いている席を見回した。

 ラウンジほど広くはないが、

 四人掛けのテーブルがいくつか並んでいる。


 真砂と御影が、

 控えめに一つのテーブルに座っていた。


(……あっちに行ってもいいけど、

 なんか話すこと思いつかねぇな)


 そう思いながら迷っていると、

 視線の先に梨々香の姿があった。


 彼女は一人でテーブルに座り、

 トレーを置いたものの、まだ食べ始めていない。

 周囲を気にしているようにも見える。


(……今しか、ないかもしれない)


 湧は、自分の背中を

 心の中で思い切り蹴飛ばした。


 足が、自然とそのテーブルに向かう。


「あ、あの……」


 声をかけた瞬間、

 梨々香が驚いたように顔を上げた。


「こ、この席、いい?」


「え、あ……は、はい」


 緊張で少し噛みながら答える彼女。

 湧は向かいの席に座った。


 心臓が、

 自分でも引くくらい早くなっているのが分かる。


(落ち着け、落ち着け……普通に食堂で席譲り合っただけだろ)


 トレイの上のスクランブルエッグを、

 わざとゆっくりと口に運びながら、

 なんとか会話の糸口を探した。


「……たしか、」


 先に口を開いたのは、梨々香の方だった。


「あの……

 大学、同じ……ですよね?」


「えっ」


 予想してなかった言葉に、

 湧は思わず声が裏返った。


「えっと、その……

 講義で、たまに、

 見かけたことがあって……」


「あ、あー……」


 ようやく繋がる。


(やっぱり、同じ学科だったのか)


「あの、二〇三教室の、

 心理学の必修のときとか……」


「……あー、はい、はい。

 なんか、いた気がする」


 自分でもひどい返しだと思いながら、

 それしか出てこなかった。


 梨々香は、少しだけ笑った。


「“いた気がする”って……」


「ご、ごめん。

 人の顔覚えるの、そんなに得意じゃなくて」


 本当は、覚えていた。

 何度か視界の端に入ってきた、

 ノートを真剣に取っている彼女の横顔。


 でも、それを正直に言う勇気はなかった。


「えっと、その……

 佐伯さん、だっけ?」


「はい。

 佐伯梨々香、です」


「俺、加藤。

 加藤湧」


 いつもより少し早口になりながら名乗ると、

 梨々香の表情が、ふっと柔らかくなった。


「……知ってます」


「え?」


 思わず手が止まる。


「い、いえ、その……

 友達が、同じ高校で。

 加藤くんと」


「……ああ」


 そこで、ようやく思い出した。


(そういえば前に、

 “大学にさ、湧と同じ中学だった子いるよ”とかって

 誰かが話してた気がする)


「その……

 話、聞いてて。

 なんか、自分と似てるなって……」


 梨々香は、視線をトレーの上に落とした。


「いじめられてた、とか……

 太ってることで、からかわれてた、とか……

 聞いてて。

 勝手に、ですけど、

 ちょっと、気になってました」


 湧の喉が、きゅっと鳴った。


(やめてくれよ……

 そんな話、他人経由で知られてんのかよ)


 恥ずかしさと、

 どこかどうしようもない悔しさが、

 ぐちゃぐちゃに混ざる。


「……あんまり、いい話じゃないけどな、それ」


「す、すみません……

 変なこと、言いました」


 慌てて頭を下げようとする梨々香。


「いや、別に。

 ……事実だし」


 湧は、フォークを回しながら小さく息を吐いた。


「太ってるとさ、

 なんか、存在自体が“ネタ”みたいに扱われるんだよな。

 こっちは全然おもしろくないのに」


 ぽろっと、本音がこぼれた。


 梨々香は、その言葉に

 強く頷いた。


「分かります……」


 彼女の目に、一瞬だけ

 過去の何かがよぎる。


「だから……その……

 変わりたくて、ここに……来ました」


「俺も、同じ」


 湧は、思わず顔を上げた。


「変わりたいけど、自分だけじゃ変われないから。

 なんか、“他力本願”って感じで情けないけど」


「そんなこと、ないです」


 梨々香は、

 はっきりと首を振った。


「ここまで来るの、

 すごく勇気がいると思うから」


 その言葉は、

 湧自身が聞きたかったものに近かった。


「……ありがと」


 そう呟いて、

 トーストの最後の一口を口に運ぶ。


 ほんの少しだけ、

 パンの味が良くなったような気がした。



 同じ頃、別のテーブル。


 真砂亮介と御影卓が、

 向かい合って朝食を取っていた。


 御影は、パンを小さくちぎりながら、

 ちらちらと亮介の様子を窺う。


「あの、

 ここに来るのって……やっぱり、勇気いりました?」


「そりゃあな」


 亮介は、サラダを口に運びながら短く答えた。


「一ヶ月、知らない連中と閉じこもるんだぞ。

 普通の神経してたら尻込みするだろ」


「……ですよね」


 御影は苦笑した。


「僕も……

 正直、来る途中で何回か引き返そうと思って。

 でも、家戻っても何にも変わらないし……」


 言いかけて、言葉を飲み込む。


「まあ、変わりたい奴しか来てねぇだろ、ここには」


 亮介は、

 自嘲とも取れる笑みを浮かべた。


「変わりたい理由は、人それぞれだけどな」


 その目は、

 御影の顔だけでなく、

 彼の手首のIDバンド、肩のライン、

 そしてテーブルの角に置かれた小さな紙ナプキンにまで

 さりげなく視線を滑らせていた。


(……全員、生きて帰れるわけじゃないかもしれない)


 その予感を、

 職業柄どうしても拭い去ることができなかった。


 視界の端で、

 伊達桜子が一人で食事をしているのが見えた。


 彼女もまた、

 周囲に溶け込むように息を潜めている。


(……何かあったら、あいつと協力することになる)


 そう頭の片隅で確認しつつ、

 亮介は、

 自分が“ただの冴えない中年男”に見えるよう、

 わざと背中を丸めてコーヒーを啜った。



 朝食の時間が終わる頃。


 モニタールームでは、

 白鷺冴が、

 複数の画面を静かに見つめていた。


 食堂。

 ラウンジ。

 廊下。


 それぞれの場所で交わされる会話と、

 ささやかな表情の変化を、

 一つも見逃さない目で追っている。


「面白いわね」


 冴は、

 加藤湧と佐伯梨々香が同じテーブルで話している映像の前で指を止めた。


「最初は、完全に他人の距離だったのに……

 もう“共犯者”みたいな空気をまとい始めている」


 その声には、

 少しだけ愉快そうな色が混じっていた。


「人間は、

 同じ“弱さ”を共有する相手には、

 驚くほど早く心を開くのよ」


 背後で、高科美玖が頷く。


「はい。

 孤独な者同士ほど、

 “同じだ”と感じた瞬間に結びつきやすくなる」


「そういう関係は、

 追い詰めれば追い詰めるほど、

 美しいドラマを生むの」


 冴は、どこか恍惚とした表情を浮かべた。


「もちろん、研究データとしても興味深いけれど」


 別のモニターには、

 採血室でスタッフが血液を遠心分離機にかけている様子が映っている。


 小さなチューブの中で、

 赤と透明な層が分かれていく。


「導入サプリメントの反応は?」


「はい、冴様」


 美玖は、手元のタブレットを確認した。


「血糖値、インスリン値とも、

 想定範囲内で“良好な変化傾向”です。

 一部の被験者では、

 すでに基礎代謝の変化を示す兆候も見られます」


「ふふ。

 反応が良い子たちね」


 冴は、梨々香の個室の映像に切り替えた。


 梨々香は、

 ベッドの上でノートを開き、

 朝の測定結果を書き込んでいる。


『二日目

 体重 59.9kg(マイナス1.3)』


 その文字を、

 冴は画面越しに見つめた。


「この子は、どう?」


「佐伯梨々香……

 数値だけ見れば、

 反応は“やや穏やか”です。

 ただ、精神的な依存度は高くなりやすいタイプですね」


「いいわね」


 冴の目が細くなる。


「身体の変化がゆっくりな分、

 心の方が先に変わっていく子は、

 研究対象として、とても興味深いの」


 その言い方には、

 慈しみと残酷さが同居していた。



 数日が経った。


 毎朝の測定。

 朝と夜のサプリ。

 決められた時間の食事。

 適度な運動。

 ラウンジでの自由時間。


 生活のリズムは、

 “合宿”と呼ぶには少し息苦しく、

 “病棟”と呼ぶには自由すぎる、

 奇妙なバランスで進んでいった。


 その間に――

 確かに、体には変化が現れ始めていた。


「マジかよ……

 また減ってる」


 ある朝、体重計から降りた湧が、

 思わず小声で呟いた。


「九十三・二キロ。

 初日から、四キロ以上減ってますね」


 スタッフが淡々と告げる。


(四キロ……)


 数字だけ見れば、

 短期間のダイエットとしては“危険なペース”かもしれない。


 だが、本人の感覚としては

 “不自然なほど順調”という印象だった。


 腹をつまむと、

 明らかに脂肪の厚みが減っているのが分かる。


 顔も、

 少しだけ輪郭がはっきりしてきた気がした。


 鏡に映る自分に、

 ほんの少しだけ、

 “嫌悪”以外の感情が混じる。


「……悪く、ない」


 ぽつりと呟いた声は、

 自分に向けたものだった。


 梨々香も、

 六十キロ台に戻ることなく、

 五十八キロ台まで減っていた。


 ノートのページには、

 毎日の体重と、

 簡単なその日の気分が書き込まれていく。


『・サプリは相変わらずまずい

 ・でも、もう少しだけなら我慢できる

 ・痩せたらやりたいこと、まだ全部叶ってない』


 ページの端には、

 小さなハートマークが書かれていたが、

 そこに名前はまだない。


 


 夜。


 個室のベッドの上で、

 湧は腹のあたりに手を当てていた。


 空腹感は、それほどない。

 むしろ、

 “食べなくても平気”という感覚が強い。


(……なんか、変な感じだよな)


 食事量は、

 外にいたときよりも明らかに少ない。


 なのに、

 極端な空腹感や、疲れで動けなくなるような感覚はない。


 その代わり――

 胃腸の奥の方で、

 微かな“うごめき”のような感覚を覚えることがあった。


 腸が動く音。

 お腹が鳴るのとは違う、

 もっと静かで、もっと粘っこい何か。


(……考えすぎか)


 そう自分に言い聞かせ、

 天井の暗がりを見つめる。


 天井の隅の黒い半球は、

 相変わらず沈黙している。


(どうせ、全部見られてんだよな)


 ため息をひとつ吐き、

 目を閉じた。


 その少し前。

 廊下の角の影から、

 誰かの足音が遠ざかっていくのを、

 彼は気づかない。


 白衣をまとった影。

 静かにノートに何かを書き込みながら歩く姿。



 ある日の午後。

 簡単な運動プログラムが終わった後、

 参加者たちには“中庭自由時間”が与えられた。


 塀に囲まれた小さな中庭。

 ベンチがいくつか置かれ、

 端の方には簡単な花壇がある。


 湧と御影は、

 中庭をぐるりと一周してみた。


「高いですね……塀」


 御影が、見上げながら言う。


「三メートルぐらい、ありますよね」


「もっとあるかもな」


 湧も見上げながら答えた。


 塀の上には、

 外側に向かって傾いた金属の柵。

 登ろうとしても、

 途中で引っかかるような形状だ。


 角には監視カメラがあり、

 黒いレンズがこちらを見ている。


 門らしき場所は、一応見える。

 だが、その前には電子錠らしきものと、

 警告表示がいくつも貼られていた。


『関係者以外立入禁止』

『無断で開閉しないこと』

『警報装置作動中』


「……まあ、簡単には出られないってことですね」


 御影が苦笑いを浮かべる。


「途中で辛くなっても、

 逃げ場はない」


「逃げ場がない方が、

 痩せるにはいいのかもな」


 湧が冗談めかして言うと、

 御影は小さく笑った。


 その背後で――

 中庭の入り口近くに立っている真砂亮介が、

 さりげなく空を見上げていた。


(……GPS、

 ここじゃまだ死んでるな)


 体内に埋め込まれた発信機。

 時々、微弱な振動のようなものを感じるが、

 この施設の中では外部との通信は完全に遮断されている。


(どのくらい囲まれているのか……

 外に出られれば、一気に位置が割れるんだが)


 視線を、中庭の反対側に移す。


 建物の壁面に、

 地下へ続いていそうな小さな扉を見つけた。


 「関係者用」とだけ書かれている。


(……地下があるな)


 心の中でマークだけしておく。

 今は、無理に近づかない方がいい。


 背後で、

 伊達桜子の視線を、

 彼はうっすらと感じていた。


 お互いに目を合わせないまま、

 同じものを、別々の位置から観察している。


 塀。

 扉。

 空。

 そして、自分たちの足元。


(まだだ。

 まだ、仕掛けるには早い)


 亮介は、

 何食わぬ顔で空を見上げたまま、

 ゆっくりと深呼吸をした。


 


 その夜。

 モニタールームで映像を見ていた白鷺冴は、

 ふと笑みを深めた。


「やっぱり、“警察の匂い”がするわね、あの男」


 真砂亮介の映像に、

 指先を軽く滑らせる。


「でも……

 まだ泳がせておきましょう。

 魚は、少し疲れてきた頃が一番おいしいのよ」


 高科美玖も、その言葉に微笑みを返した。


「はい、冴様」


 


 そして、

 被験者たちの体重は、

 日ごとに減っていく。


 理想に近づいているように見えるその変化が――

 同時に、

 彼らを逃れられない場所へと追い詰めていくことに、


 まだ誰も、気づいていなかった。

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