第37話 空谷日香里の夢
空谷日香里
人は一度の人生で、何人を愛して、何人を失うのだろう。
若い頃は、一人だと思っていた。
でも今は、三人。
夫と2人の息子。
小さい頃は私がいなきゃ駄目だった二人も、今は野球というスポーツに夢中で——
主人は未だに、私がいないと駄目みたい。
そんな三人を見続けられることが、私の“幸せ”そのものだった。
……でも。
それは、形が変わっても変わらないのだと、あの日が教えてくれた。
「もしもし。お世話になっています。◯◯高校の本間ですが、空谷君のお母さんですか?」
鍋に火をかける手が止まった。
返事をしたはずなのに、声が自分のものじゃない。
病院に着くまでの景色は、どこも覚えていない。
診察室で告げられた言葉は、耳に入ったのに意味にならなかった。
——歩けない?
そんなはずがない。
だって陸斗は、つい昨日まで、マウンドの話をしていた。
診察室を出ると、泣きじゃくる海斗が目に映った。
その声は、すぐ目の前なのに遠かった。
そして、診察室の前で目を腫らしていた“あの子”が、頭から離れなかった。
泣いている理由が、謝罪なのか、恐怖なのか――
その時の私は、まだ言葉にできなかった。
何とか状況を飲み込もうとして、私は主人の手を握った。
その時、手が震えているのを、初めて知った。
家に帰り、私は陸斗の制服とユニフォームを洗濯機に入れ、希望と一緒に回した。
翌日——
あの子が陸斗の病室を訪れ、言葉を交わしたとき。
私は、胸の奥で小さく何かがほどけるのを感じた。
……この子と海斗が、陸斗を支える。
そんな気がした。
秋の陽射しが柔らかくなる頃、
病室のカーテン越しに差し込む光の中で、
私の不安は、静かにほどけていった。
陸斗を襲うはずだった絶望は、
あの二人と、友達の手によって、遠ざけられていた。
沢山の友達を失った年明け。
いつものように着替えを持って行き、強がる陸斗の表情が胸を締め付け、何度も廊下に出て本当の自分の気持ちを流した。
次の日曜日。
陸斗は外出許可を取り、萌々ちゃんと2人で亡くなった人達に花を手向けに行った。
陸斗は強がってなんかいなかった。
逃げないことを、選んだだけだった。
その成長が、私の目を熱くした…
数ヶ月後ーー
陸斗が退院。
この日まで、萌々ちゃんが何度かご両親を連れて
陸斗の見舞いに来てくれた時に、私は萌々ちゃんのお母さんと意気投合し、毎日連絡をとるようになっていた。
退院当日、萌々ちゃんのお母さんが私に祈りのような言葉をこぼした。
「迷惑でなければ、あの子を週に何度かでもいいので陸斗君に会わせてくれませんか?」
「そちらがいいのであれば、毎日でもいいですよ。」
この日から、愛する人が1人増えた。
萌々ちゃんは無事、卒業。
大学に進学が決まり、私と萌々ちゃん母からの
入学祝と言う形で私達との同居を彼女に告げた。
彼女は自分の涙で眼鏡を洗う程喜んだ。
その日から私はキッチンの半分を萌々ちゃんに譲った。
野球をしない陸斗に、こんな幸せが待っていたなんて、あの日は想像もしなかった。
やはり、私は間違ってはいなかった。
主人も天を仰ぐ事もなくなった。
形はかわったが、この幸せが永遠に続くと思っていた。
本気でそう信じていた。
あの日までは…
甲子園決勝当日ーー
萌々ちゃんが起きる時間よりちょっと早く起きて、3人のお弁当を作っていると、萌々ちゃんが慌ててキッチンへ来た。
「お母さん。ごめんなさい。もうほとんど出来てま
すね。何か他手伝えることありますか?」
「いいのよ。萌々ちゃんはこれから長旅で運転する
んだから。」
「でも…お母さんも毎日疲れているじゃないです
か。」
「じゃあ、家の事もっと楽したいから、早く萌々
ちゃんが娘になってくれないかな~?」
「えっ?」
「その指輪。陸斗にもらったの?」
「そうなんです。実はプロポーズされて…」
「いいの?こんな鬼姑で。」
「喜んで!」
「本当に… 今までありがとう…
これからも、陸斗を宜しくお願いします。」
「こ、こちらこそっ!」
この言葉を、私は何度も思い出すことになる。
あの時の私は、
「これで、この家は大丈夫だ」と――
本気で信じていた。
深夜ーー
主人に起こされ、現実が理解できないまま車に乗り、3人が無事である事、主人が聞き間違えた事を祈りながら助手席に座っていたその時。
今まで感じた事のない衝撃が身体を貫き、気づいた時には大怪我をした主人が手を伸ばしていた…
雨が痛い…
私… もう… ダメなんだ…
「……あなただけでも……
陸斗の……そばに……」
お願い…
「今日の料理 萌々ちゃんが作ったのか?
いや~、娘が出来るってこんな感じか?」
「萌々、美味しいよ。」
「萌々ちゃん、料理のセンスあるね。」
「ありがとう。早くお母さんの味になるように頑張
りますね。」
「楽しみねぇ。
私は期待せずに待ってるから、無理しないで
よ?」
「母さん、意地悪いわないでよ。」
暖かい思い出が、私の体温と一緒に、冷たい雨に消されていった。
私は、全てを愛していたーー
第38話へ続く
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