第11話 スパルタのスープ (1)

 ナルテークスとアクシネの家は、非常に簡素なたたずまいであった。


「だんなさまからお許しも出ておりましたので、どうぞ、お入りください」


「あ、じゃあ、失礼し……」


 テオンにうながされ、一歩、家の中に踏み込んだところで、カルキノスは、口を開けたまま絶句した。

 一瞬、自分自身の目を疑う。

 まさか。

 こんなことがあってよいものか。

 だが、目の前に広がる光景は、まぎれもない現実だ。


「テオン……大変だ」


 動揺をできるかぎり押し殺し、それでも、声がうわずることまではとうてい抑えきれず、カルキノスは叫んだ。


「この家、泥棒に入られてるぞっ!」


 室内には、まったく、何もなかった。

 卓も椅子も寝台も、衣装を入れる箱も、壁掛けの織物も、床に敷く敷物やわらさえもない。

 ナルテークスが、任務でアテナイ市におもむいているあいだ、この家には、テオンをはじめとした奴隷たちと、アクシネしかいなかったはずだ。

 そのすきを狙って、何者かが部屋に入り込み、家具調度のいっさいがっさいを持ち去ったに違いない。


(いや、でも……待てよ)


 この犯行は、おそらく、ナルテークスの不在を知っていた者のしわざだ。

 だとすると、内部の者――奴隷たちの中に、犯人がいるという可能性はないか?


(まさか)


 あたりには、人通りがほとんどない。

 真後ろに立っているテオンの存在が、急に不気味に感じられ、カルキノスは反射的に振り返ろうとした。

 これが、奴隷たちによる犯行だとすれば、まさか、テオンも――


「泥棒ですって!?」


 そのテオンが、悲鳴のような声を上げ、カルキノスを押しのけて部屋の中へと飛びこんでいった。

 あまりの勢いに、カルキノスは跳ねとばされ、


「ぎゃあああああ」


 再び尻を強打して、地面を転げ回った。

 もはや、誰かが彼の尻を呪っているとしか思えない。


「も、申し訳ありません!」


 カルキノスを悲鳴を聞きつけ、テオンが血相を変えて戻ってきた。


「つい、あわててしまって……! お怪我はありませんか!?」


 お怪我もなにも、大怪我である。

 尻がだ。


「い……いや、いいんだ! それよりも、すぐに、人を呼んだ方がいい!」


「いえ、あの、ですが」


 立ち上がろうともがくカルキノスに肩を貸しながら、テオンは、歯切れ悪く言った。


「申し訳ありません。ですが、その……わたしには、特に、いつもと変わったことはないように見えるのですが……?」


「え!? 何もないけど!?」


「ここは、客間ですので」


 の意味が、まったく分からない。

 客をもてなそうという意識が皆無に見えるのだが、気のせいだろうか。


「ふだんは使っていない部屋なのです。あなたがおいでになるなどとは、考えてもおりませんでしたので、まだ、何の準備もできておりません」


「あ……なんだ、そういうこと?」


「はい。急いで部屋のしつらえをいたしますので、ご安心ください。まずは、風呂の用意をいたしますので、少しお待ちを」


 そう言い残し、テオンは部屋から出ていった。


 開け放した戸から射しこんでくる陽光の中で、細かい埃の粒が、きらきらと光っている。

 尻が痛いせいで地面に座ることもできず、がらんとした部屋のまんなかに立ち尽くしたまま、これはいよいよとんでもないところへ来てしまったぞ、とカルキノスは思った。


(まあ、屋根と壁があるだけ、ありがたいと思うしかないか……)


 カルキノスは、慎重に体のつりあいをとりながら、片手で衣のすそをつかみ、顔や首筋の汗を拭いた。

 肌を突き刺し、熱を叩きつけてくるような直射日光がさえぎられただけで、だいぶ、体が楽になった気がする。

 ずいぶん長いこと、杖にすがったまま、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。


「お待たせしました。風呂の用意がととのいました」


 テオンに呼ばれて中庭へ行くと、そこでは、テオンの他にあとふたり、男女の奴隷が働いていた。

 中庭そのものは、ほぼ長方形で、細い木が一本だけ植わっている。

 そのそばに、大きめの陶器の器が置かれ、三分の一ほど水が溜まっていた。


「どうぞ」


「え!?」


 テオンが丁重にさししめした器を、思わず二度見しながら、カルキノスは声をあげた。

 足を洗うための水かと思ったが、まさか。


「これ……風呂?」


「はい。風呂をお使いになった後は、これを」


 言って、テオンが細い木の枝にかけたのは、色あせた赤い外衣ヒマティオンだった。

 どう見てもナルテークスの古着だったが、もっと気になることがある。


「あの……肌着キトンは?」


「この季節、スパルタでは、多くの市民が外衣ヒマティオン一枚しか身に着けません。あなたも、そうなさったほうが、なじむかと思います」


 そういえば、ナルテークスも、他の若者たちも、長老会の老人たちでさえも、素肌の上に外衣ヒマティオン一枚きりしかまとっていなかった。

 鍛え上げた筋肉を披露したいのかもしれないが、それにしても、あんまりである。


「じゃあ……オリーブオイルは? 肌に塗る……」


「スパルタでは、肌に油を塗るのは、祭りと、戦争のときだけです」


「……俺、帰っていいかな?」


 カルキノスは思わず言ったが、テオンはとりあわず、そのまま立ち去っていった。


(まあ……ひとまず、水を浴びるか)


 ここで呆然としていてもしかたがない。

 カルキノスは、ゆっくりと身を屈めて杖を地面に置くと、左脚だけでつりあいを保ちながら、衣を脱ぎはじめた。

 市民は、奴隷の前で――それが女であっても――裸になることなど、何とも思わない。

 市民の女性の前でいきなり脱いだら大事件だが。


 衣を脱いだカルキノスの体は、色こそ白いが、体つきは、引き締まった無駄のないものだった。

 特に上半身、肩や二の腕が発達している。

 右脚が不自由な分、体を支えるために、上半身を使うからだ。

 左脚は、右と比べて太腿がひと回り、いや、ふた回りは太い。

 その左脚で体重の大部分を支えているため、右肩が上がり、体が全体的に左に傾いている。


「……何か?」


 男と女、ふたりの奴隷たちが仕事の手を止めてこちらを注視していることに気付き、カルキノスは、つとめて鷹揚おうように声をかけた。

 ふたりはびくりとして、あわてて目をそらし、それぞれの作業に戻った。


(うーん……俺、ちょっと、色白すぎるかなあ)


 ふだん運動競技をしないために、裸になる機会がなく、衣におおわれていた部分の色の白さが特に目立つ。

 全身浅黒く日焼けしたスパルタの男たちばかりを見慣れた奴隷たちの目には、カルキノスの色の白さが、いかにも柔弱に映るのかもしれない。

 見た目の押し出しをよくするために、少しばかり、日焼けでもしたほうがいいだろうか。


「よっ、と」


 あまり曲がらない右脚を、円規コンパスの要領でくるりと回し、カルキノスは、水の入った器のかたわらに左膝をついた。

 右手ですくった水を、まずは左腕にかけて、そばに置いてあった垢掻きストレンギスを手に取り、ぞりぞりと肌をこする。


(あぁ……気持ちがいい!)


 五日間の旅路の埃と垢が、疲れとともにこそげ落とされていくようだ。

 思わず一曲できそうな気持ちよさである。

 鼻歌をうたいながら、両手ですくった水を勢いよく左肩にかけたカルキノスは、


「ぎゃああああああ」


 垂れ落ちた水滴が尻に触れた強烈な刺激に、真っ裸のままで、あられもない悲鳴をあげた。

 体をねじって見ると、尻が、真っ赤に腫れ上がっている。

 尻だけでなく、腿の内側もだ。


 涙目になりながら、振り返って見ると、男女の奴隷たちが向こうをむき、ぶるぶると肩を震わせているのが目に入った。

 彼らが注視していたのは、カルキノスの色白さよりも何よりも、この、真っ赤に腫れてふくれあがった尻だったのだ。


(何だ、おまえら! 人の苦労も知らないで、人の尻を笑うなあああ!)


 内心でわめくものの、どうしようもない。

 最初は、男のほうを呼んで背中を流させようと思っていたのだが、真後ろでくすくす笑われたりした日には、腹が立ってぶん殴ってしまうおそれがある。


 結局、尻に極力刺激を与えないよう、すべて自力で、そろそろと水浴びをすませるしかなかった。

 しかも、最後のほうは水が足りなくなり、頭上に持ち上げた器をひっくり返して、ぽとぽとと垂れてくる水滴を頭に受け止めるという情けなさだ。


(やっぱり、俺、帰ろうかなあ……)


 肌に残る水滴を指先ではらい落としながら、カルキノスは、すっかりげっそりとしていた。

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