第8話 大河

 スパルタの男たちは、顔を見合わせた。

 しばらくは互いに目配せを送りあったり、小声でぼそぼそと囁きあったりしていたが、やがて、


「それならば……」


 と一人が口火を切ったとたんに、口々に希望を言いはじめた。


武装行進歌エノプリアをやってもらおうか」


「リュクルゴス頌歌しょうか!」


「カルネイア祭のとき、最後に皆で歌うやつ」


「ヒュアキントス讃歌は?」


「アルテミス・オルティア讃歌」


アポロン讃歌パイアーンがいい!」


(うっ)


 次々と出てきた題名に、カルキノスは、思わず頬を引きつらせた。


(全然、分からん!)


 知っている詩がひとつもない。

 アテナイ市に代々伝わる歌、はやったことがある歌ならば、だいたい何でも吟唱できる自信があった。

 その知識が、いきなり、まったくの役立たずになってしまったのだ。


 当たり前といえば当たり前だが、地峡コリントスを隔てて遠く離れたアテナイ市とスパルタ市とでは、人々が親しむ詩も、歌唱や演奏の旋法も、まったく異なっている。

 アポロン讃歌パイアーンという題名だけは分かったが、アテナイ市で歌っていたものは、アポロン神を讃えつつ、アテナイ市が戦争に勝つことを祈願する内容だった。

 そんなものをスパルタの男たちの前で歌ったら、袋叩きにされかねない。


『何でも、君たちの好きな詩を聞かせよう』


 あんな大きなことを言わなければよかった。

 つい調子に乗った自分を、思いきり殴りたい。

 下手に相手の希望をたずねたりせず、自分の得意な詩ではじめればよかったのだ。

 だが、もしも、それが彼らにとってまったく耳なじみのないものだった場合、散々にこき下ろされて終わったおそれもある――

 いや、待て、落ち着け。

 過ぎたことを考えても仕方がない。

 今、この場をどう切り抜けるか、それが問題だ――


「待て。全員で、口々に言ってもはじまらん。ここはひとつ、ホメーロスの『イリオンの歌イーリアス』でどうだ?」


「おお!」


 集まった中では年長と見える髭面ひげづらの男の提案に、周囲の男たちが、次々と賛同した。


「それならばぜひ、『イリオンの歌イーリアス』から『メネラオス奮戦す』のくだりを!」


「『軍船の表』!」


「『ヘクトルの死』がいい。アキレウスとヘクトルの一騎打ちは、何度聴いても胸が躍る!」


(よ……よっしゃあああ! 助かった!)


 見かけ上は平静をよそおいながら、カルキノスは内心、拳を突き上げて小躍りしたい心境だった。

 『イリオンの歌イーリアス』ならば自信がある。

 彼らが口にした内容から推して、自分が知っている『イリオンの歌イーリアス』と、彼らが知っている詩は、同じもののはず。

 これぞ神助というものだ。

 意見をまとめてくれた髭面の男が、アポロン神の御遣みつかいにさえ見える。


(そこの髭のあんた、本当にありがとう! そのうち、あんたの活躍を立派な詩に作ってあげるから……!)


 心の中で、髭面の男に礼を言ってから、


「では、一曲。『イリオンの歌イーリアス』より『メネラオス奮戦す』を……」


 カルキノスは竪琴をかまえ、そっと弦に指をおいた。

 メネラオスといえば、かの有名なトロイア戦争の発端となった美女ヘレネの夫で、古代のスパルタの王である。

 男たちは、黙ってこちらを見つめている。

 まるで祝い事の前の子供たちのような、わくわくした様子だ。


(これならば)


 すうっ、と息を吸う。

 今、詩歌女神たちムーサイの息吹が、この喉から流れ出す――


「パトロクロスが 激戦の末

 トロイア勢に 討ち取られ――」


(いける!)


 カルキノスの朗々たる声の響きに、スパルタの男たちの顔が、ぱあっと輝いた。

 


「戦神アレスの 寵愛受けし

 アトレウスの子 メネラオス

 それに気付くや 燦然と

 輝く武具に 身をかため――」


『戦陣に立つ おのこらの

 あいだかき分け 突き進み

 パトロクロスの 亡骸を

 うちまたいでぞ 身構える!』


(な!?)


 カルキノスは驚きのあまり、もう少しで違う弦を弾くところだった。

 出し抜けに、スパルタの男たちが声をそろえ、一言一句完璧に、詩の続きを暗唱しはじめたのだ。


「金髪なびかす メネラオス……」


『仔牛を守る 母牛の

 ごとくに亡骸 守り立ち

 盾と槍とを うち構え

 寄らば討つとの 気勢を示す!』


 スパルタの男たちの合唱は、進むにつれてどんどん声量が増し、気分が盛り上がってきたのか、ばんばんと自分の太腿を叩いて拍子をとる者たちまで出てきた。


「されど、とねりこの……!」


『槍振るう

 パントオスの子は 憤然と

 アレスの寵ある メネラオス

 彼に詰め寄り 言うことには――』


 カルキノスの声も、竪琴の音も、もう、ほとんど聞こえていない。


(こいつら……!)



『スパルタの人々は、脳みそまで筋肉でできているが、歌と踊りを好むことは、非常なものがあるという』



 馬鹿にしていた。

 詩人の歌に、ぽかんとして聴きほれ、その声と音色と、力強い物語にただ陶然とする……

 そんな反応を予想していた。

 だが、実際はどうだ。


(上手い!)


 美声である、というのではない。

 だが、詩歌の文句を完璧に覚えていることはもちろん、戦場の緊迫感、戦う王たちの気魄がそのままによみがえってくるような「熱」が、彼らの歌にはあった。

 戦車につけられた馬たちのいななき、討たれる者の悲鳴、勝利の雄叫び、怒号、ぶつかり合う青銅の武具の響きが、まざまざとこの場に立ち上がってくるようだ。


 こちらの吟唱をつぶそうという思惑か、とも、一瞬思ったのだが、そうではない。

 男たちの表情を見ていればわかる。

 彼らは、心の底から合唱を楽しみ、自分たちの声によってよみがえる英雄たちの世界に没入していた。


 物語が進むにつれて、男たちの歌はますます熱を帯び、登場人物のせりふの部分がくると、いつも役割が決まっているとでもいうのか、何の相談もなく誰か一人が朗々と独唱した。

 まるで、メネラオス王その人であるかのような迫真の歌いぶりだ。


 また別の登場人物になると、今度は、例のグラウコスが歌いはじめた。

 先ほどまでの、下品ながなり声とはまったく違う、いしにえの武者になりきった、声音豊かな熱唱だ。


(違う……じゃない! これでは……)


 カルキノスは、もはや合唱の片隅に加わりつつ、竪琴で伴奏をつけているだけ、という状態になっている。


(これでは、俺の力が、何も発揮できていない!)


 だが、うねりながら大地をおし分けてゆく大河のごとく、男たちの合唱は否応いやおうのない力強さで進み、カルキノスは、彼らを主導するどころか、遅れまいと必死に追いかけるような有様で、必死に竪琴を爪弾き続けた。


(違う。じゃないんだ……)


 と、思い続けながら。

 永遠かとも思える時間の後、とうとう『メネラオス奮戦す』のくだりは終わり、男たちは、詩の最後の一声を、腹の底から声をしぼり出すようにして歌い切った。


「いやあ、良かった、良かった!」


 誰かが満足しきったようにそう叫び、周囲の男たちも、いっせいに歓声をあげて手を叩いた。


「まったくだ。実に良かった!」


「カルキノスの歌声に、つい、戦場に誘われた気分になったぞ」


「ここまで皆の気持ちがひとつにそろったのは、久々だな!」


「竪琴の音色もなかなか良かった」


「うむ、見事だ!」


(えっ)


 ほとんど呆然自失していたカルキノスは、何度も乱暴に――どうやら彼らの基準ではそれが「普通」らしかったが――肩を叩かれて、ようやく我に返った。


? 今のが? ……そうじゃない。だって、今のは)


 俺の力が、何ひとつ、発揮できていないじゃないか。


「では、次はぜひ、武装行進歌エノプリアを!」


「いや、ヒュアキントス讃歌だ!」


アポロン讃歌パイアーン!」


(まずい)


 元に戻ってしまった。

イリオンの歌イーリアス』をやって、あれほど盛りあがった直後である。

 ここで「できない」などと言ったら、場の空気が、一気にしらけてしまう――

 そのときだ。


「……ん?」


 カルキノスを囲む男たちの目つきが、一瞬にして変わった。

 森で猟師の気配を察した野生動物のように、一同の表情がこわばる。

 同時、ほんのかすかな物音が聴こえた。

 ものすごい速さの、足音だ。


だ!」


「気をつけろッ」


「おい、そっち――!」


 驚愕の声と、警告とが交錯し、


「ホォウッ!」


 どこかで聞いたことのある叫び声とともに、ぱぁんと地面を蹴って跳びかかったが、男たちの輪の外周に突っ立っていた黒髪の戦士の体を勢いよく突き倒した。


「あーにきィ! ただいまあ!」


 どこからともなく現れた彼女は、先ほどとまったく同じように、倒れた兄の上に馬乗りになり、その胸板になつっこく頬をこすりつけた。


斧女アクシネだ!」


「まずい、目を合わせるなッ」


「絡まれるぞ!」


 まるで妖女三姉妹ゴルゴーンのひとりでも出たかのように、男たちはいっせいに視線を逸らし、いかなる敵も恐れぬはずのスパルタの戦士にしては妙にすばやい動きで距離をとった。

 絶対に関わりあいになりたくない、という空気が、清々しいまでにはっきりと出ている。


「おお! そういえば」


 一人の男が、ぽんと手を叩き、わざとらしい大声で言った。


「俺たちは、レスリングの途中だったな!」


「そうだ! 俺は、徒競走の途中だった」


「審判の途中だった!」


「槍、投げてくる」


 男たちは、各自が途中だったらしいを急に思い出して、さっさとその場を立ち去っていった。

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