第4話 スパルタの男たち
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エウロタス川をのぞみ、タユゲトス山脈をあおぐところに、ラケダイモンと呼ばれる土地がある。
その中心となる、いにしえの王妃の名を冠された
住人たちは、みずからを「ラケダイモン人」または「スパルタ人」と名乗った。
「遅い!」
スパルタ人たちは今、忙しい。
生活を支える中心産業である農業が、ではない。
麦の刈り入れは、日の出の直前に
あらゆるものが炎暑に焼かれてひびわれる真夏は、畑をどうこうできる季節ではないし、スパルタの男たちは、そもそも農作業に従事することなどなかった。
それは
忙しいのは、戦争が、である。
「あれから、もう十日だ! 使者たちは、何をのろのろしている!?」
「アテナイでの人選に、手間取っているのではないか?」
「あんな軟弱な
今年になって、西のメッセニア地方が、スパルタから離反した。
祖父たちの代からスパルタに服属してきたメッセニアが、だ。
「さっさと選び、連れて来ればすむ話ではないか! 行きに三日、人選に一日、帰りに三日! 七日で足りるはずだッ!」
「我らの脚ならば、な」
メッセニア人たちが、ついに蜂起したと知ったとき、スパルタ人たちはむろん激怒し、戦い、叩きつぶそうとした。
だが、デライの地で激突した結果は、なんと引き分けに終わった。
メッセニアに、おどろくべき勇将があらわれたのである。
「アテナイには、我らほどの健脚はおらぬのだろう。そいつが途中でへばっているせいで、遅れているのかもしれぬ」
「そんな男が来ても、あのアリストメネスを倒すには、何の役にも立たんだろうがッ!」
メッセニアのアリストメネス将軍。
デライの戦いを経て、その男の名は、メッセニア人のあいだにも、スパルタ人のあいだにも、高く鳴り響くこととなった。
戦場において、アリストメネスはとても一人の人間のしわざとは思えぬほどの働きを見せ、大勢のスパルタ人を殺した。
その戦いぶりは、古代の英雄たちのごとく、まさに神々自身が彼を先導し、あるいは背後に立って激励しているとしか思えぬほどのものだった。
スパルタ人たちは、
「だが……」
しきりにやりとりを繰り広げていた二人のうちのひとりが、わざと、ゆっくりとした調子で言った。
「他ならぬ、
『
「くそっ! なぜだ!」
先ほどからずっと憤慨している若い男は、地面を踏みつけて叫んだ。
「我らスパルタの男だけでは、この戦に勝てぬというのか!?」
大きな困難に直面したとき、この時代の男たちが必ず行うことがある。
自分たちがとるべき道について、神々の意向をうかがうのである。
当時、各地に大きな「神託所」が存在し、巫女や神官たちが、神々の声を人々に伝えた。
無数に存在する神託所の中でも、特に隆盛を誇ったのが、デルフォイの神託所だ。
そこにおわすのは、
スパルタの男たちは、デルフォイに使者を送り、ねんごろに供儀を捧げ、対メッセニア戦争に勝利するための方法をアポロン神にたずねた。
その結果、下されたのが、先ほどの神託である。
『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』
(何故!?)
使者たちは、愕然とした。
『軟弱で、へらへらした、おしゃべり野郎どもの
スパルタ人たちがアテナイ人に対して抱いている意識は、おおむねそんなものだった。
そんな
アポロン神は、
だが、こればかりは、他に解釈のしようがなかった。
『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』
スパルタの男たちは、非常に納得のいかぬ思いながらも、神託に従うことにした。
あの誇り高きアポロン神に神託を伺っておいて、その結果を故意に無視するなど、いきなり強力な疫病を送り込まれて住民全員抹殺されても文句を言えないほどの不敬にあたる。
そのようなわけで、使者たちがアテナイに送り出されてから、はや十日。
彼らの将軍は、まだ、やってこない。
「その男が来たら、まず、俺が勝負を挑んで、実力を試してやる!」
「そう、いきり立つな、グラウコス」
「これが怒らずにいられるかッ!」
先ほどからずっと憤慨している若い男――グラウコスは叫び、どんどんと地面を踏みつけた。
彼は大きく手を振り、周囲の様子を示した。
屋外の
そこには、彼らだけではなく、大勢のスパルタの男たちが集っていた。
皆、全裸である。
運動競技は、全裸で行うものだ。
たゆまぬ訓練を通して、自分自身を強く美しく鍛え上げ、神々に
それは
居並ぶ男たちは、どの一人をとってみても、見事な肉体を持った戦士である。
腕や脇腹、顔にいくつもの傷跡を持つ者もいたが、それは美を傷つけるものではなく、むしろ勇敢さの証であるととらえられていた。
敵と正面から向き合い、敵の武器の届く位置にまで踏み込んだ証だ。
反対に、多くの後ろ傷を持つ者はいなかった。
少なくとも、今この場にはいなかった。
背中の傷は、敵に背を向けた証拠である。
後ろ傷しか持たぬような男は「臆病者」と呼ばれた。
それは、スパルタにおいては最も恥ずべき呼び名であり、人々から露骨に笑いものにされ、爪はじきにされ、誰からもまともな人間とは認めてもらえなかった。
「誇り高きスパルタの戦士が、アテナイから来た軟弱野郎の命令に従うなど、恥辱の極みだ! そんな野郎は、即刻、叩きのめして、エウロタス川にぶちこんでやる!」
「落ち着けというのに。そう、かっかしていては、肝心のそいつがやって来るより先に、疲れ果ててしまう――」
「うおおおおおォーいっ!」
急に、とんでもない大声が
その表情は、一様に引きつっていた。
誰もが、その声に聴き覚えがあったのである。
間違いない。あいつだ――
「……いたぞ! あそこだっ!」
「な!? あんなところにッ」
男たちは口々に叫び、怪物でも出たような調子で指をさした。
その屋根の上に、ひとりの女が、すっくと立っている。
いったいどうやって、あんな高いところに登ったのか――
「
「おーう!」
非難と嫌悪、そして隠しがたい驚きをにじませた男たちの叫びに、手斧を腰にぶら下げたアクシネは、元気よく両手を振ってみせ、
「きたきた、きたぞ! す・く・い・ぬ・し・が! きたぞーっ!」
それだけ叫ぶやいなや、身をひるがえし、建物の向こう側へ飛び降りた。
下手をすれば地面に激突し、全身骨折しかねない勢いだ。
だが、男たちがあわててその場に駆けつけたときには、すでに、アクシネの姿は影もかたちもなかった。
今のしらせを伝えるため、次の場所へ走っていったに違いない。
「化け物か……!?」
「まったく、とんでもない女だ!」
「いや、待て、それどころではないぞ!」
「そうだ。あの女、何と言っていた?」
『救い主が来たぞ』
一瞬、しんとした。
「使者たちが、戻ったのだ!」
男たちは、体から汗と砂をかき落とすことも忘れ、自分の赤い
先頭は、むろん、例のグラウコスである。
彼らの目指す先はただひとつ。
使者たちが帰ってくる、スパルタ市の門――
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