第4首 王子レオンは、首を見てしまう
処刑祭の翌朝、城はよく晴れていた。
窓の外で鳥が鳴いている。
庭師が剪定ばさみを動かす音が、規則正しく響いている。
どこかの兵士が、訓練用の号令をかけている。
すべてが「いつもの朝」の顔をしていた。
(嘘だ)
レオンは鏡に映った自分の顔をじっと見つめた。
金色の髪はきちんと梳かれている。
襟元には皺ひとつないシャツ。
王子として恥ずかしくない姿。
それでも鏡の奥の少年は、どうしようもなくひどい顔をしていた。
青白い頬。
充血した目。
唇を噛みしめすぎて、薄く血がにじんでいる。
昨夜、ほとんど眠れなかった。
目を閉じれば処刑台が浮かぶ。
姉の白い首。
振り下ろされる斧。
空へ飛び散る赤。
――彼は、目をそらせなかった。
レオンは姉の首が落ちるところを、最後まで見てしまったのだ。
◇
「殿下、お支度はお済みですか」
扉の向こうから侍従の声がした。
「……今行く」
返事をしても声が少し掠れている。
深呼吸をひとつし、レオンはマントを羽織った。
今日の予定は朝からぎっしり詰まっている。
処刑祭の報告会。
教会の代表者との面談。
貴族たちとの昼餐会。
どれも「王太子候補」として立場を固めるために必要な行事だ。
そして何より――午前中、彼にはひとつ大事な役目が待っている。
白百合姫の「遺体確認」。
王族として、姉であり反逆者でもある姫の終わりを正式に認める儀式だ。
(どうして、こうなる)
レオンは手袋をはめながら、何度も同じ問いを頭の中で繰り返した。
あの夜のことが、脳裏から離れない。
暗い回廊。
閉ざされた扉。
震える自分の声。
『父上に話せば、きっとわかってくれるはずだ。姉上。
処刑祭なんて、本当はもう……』
言いかけた言葉を、姉の静かな眼差しが遮った。
『レオン。あなたは、まだこちら側に来てはいけないわ』
あのとき、どうして止められてしまったのか。
どうして自分は、それ以上何も言えなかったのか。
答えは出ないまま、時だけが進んだ。
◇
地下へ続く階段はひんやりと湿っていた。
この少し前にも、ひとりの侍女が、別の想いを抱いてこの石段を降りていた。
――レオンは、そのことを知らない。
案内役の兵士が、少し緊張した声で言った。
「この先が、王女殿下の……」
「わかっている」
レオンは短く答えた。
扉の前には教会の神官がひとり立っていた。
昨夜の“祝宴”に同席していた神官のひとりだ。
「レオン殿下。大変お辛い役目かと存じますが……」
言葉だけは優しい。
だが、その目は、どこか仕事じみている。
「形式は教えとして必要ですので」
(形式のために、姉上を殺したのか)
思わず出かかった言葉を、レオンは喉で飲み込んだ。
今ここで怒鳴ったところで、何も変わらない。
むしろ「感情的な子ども」として王の耳に入るだけだ。
「……始めよう」
神官が頷き、扉を開ける。
中は小さな礼拝室だった。
石の床。
壁には首に輪をかけられた“聖人”たちの絵。
中央に据えられた台座の上に、白い布。
その布の下に、リリエラがいる。
レオンの胸が、ぎゅっと縮まった。
「レオン殿下」
神官が段取りを言葉にする。
「布をお上げになり、王女殿下の御尊顔をご確認ください。
その後、血を拭い、王家の印を押した布でお包みいただきます」
「……わかっている」
レオンは台座へと歩み寄った。
一歩ごとに膝が軋むような感覚がする。
(ここで逃げたら、
今度こそ本当に“裏切り者”になる)
だから彼は逃げなかった。
震える手を伸ばし、布の端を掴む。
そっと、めくる。
――そこにあったのは、よく知っている顔だった。
陽光を受けて銀色に輝くはずの髪は、今は血で固まり、ところどころ束になっている。
それでも輪郭は変わらない。
長い睫毛。
すこし尖った顎。
笑うとえくぼの出る頬。
目は閉じられていた。
処刑台で見たときと、そこだけが違う。
(姉上)
レオンは息を詰めた。
首の切断面には布が巻かれている。
しかし、その下にあるものを、彼は想像してしまう。
肉。
骨。
飛び散った血。
昨日から何度も繰り返してしまった想像。
胸の奥がきしむ。
「レオン殿下、御印を」
神官が銀のスタンプを差し出した。
王家の紋章が刻まれた印章。
これを布に押すことで、「王女の死」は正式なものとなる。
レオンは一度目を閉じ、深く息を吸った。
(全部、終わる。
いや、もう終わっているのに、
俺が印を押すことで“終わったことにする”んだ)
震えを押さえ、布の端に印章を押しつける。
赤いインクが、布に滲んだ。
「確認は以上です」
神官は淡々と告げる。
「まもなく、遺体は教会にて“聖なる加工”を施されます。
首は護符として、王の食卓を護る――」
「やめろ」
レオンの声は、自分でも驚くほど低かった。
神官が言葉を止める。
「……殿下?」
「姉上の首を、護符などにするな」
「しかし、それは古来よりの――」
「古来など知るか!」
怒鳴り声が礼拝室に響く。
「姉上は獣じゃない。
食卓を飾る料理でもない。
首を飾って笑うために処刑されたわけじゃない!」
昨日の広場。
酒と血の匂い。
笑い声。
あの中に彼も立っていた。
王の隣で、「王家の一員」として。
何もできなかった。
ただ、見ていた。
姉が首を落とされるのを。
「……殿下」
神官は困ったように眉をひそめた。
「お気持ちはお察ししますが、これは王と教会の間で取り決められた――」
「じゃあ父上に言う。
“それだけはやめてくれ”って。
俺は、王になる者として、それを望まない」
レオンはぎゅっと印章を握りしめた。
王子として教え込まれた言葉が、頭の内側で反響する。
王は民の上に立つ者。
王は血と恐怖で支配する者であってはならない。
――それが、かつて姉が教えた「理想の王」の姿だった。
「姫様は処刑祭をやめたいとおっしゃっていた」
レオンはぽつりと漏らした。
「俺は、その言葉を止められなかった。
だったらせめて、姉上の首だけは……
これ以上、見世物にさせない」
神官はしばらく黙っていた。
やがてため息をひとつつく。
「……わかりました。
王に伺いを立てるまでは、首は移さず、この礼拝室で保管いたしましょう」
「絶対に、勝手な真似をするな」
「約束しましょう、殿下」
それが本心かどうか、レオンにはわからない。
だが今は、それしか道がない。
◇
礼拝室を出たあとも、レオンの足は重かった。
廊下を歩きながらも、
あの布の下の顔が脳裏に焼きついて離れない。
(姉上。
本当は、何をしようとしていたんだ)
処刑祭をやめたいと言っていた姉。
貧民街から子どもたちを城に引き上げていた姉。
王や貴族たちと何度も衝突していた姉。
レオンはいつもその背中を、少し離れた場所から見つめてきた。
羨望と、恐怖と、憧れと。
(俺は、姉上の味方になれたはずだった。
少なくとも、敵じゃないはずだった)
なのに彼は、沈黙することで王の側に立ってしまった。
心臓の奥が、じくじくと痛んだ。
「王子殿下」
ふいに別の声がかかった。
振り向くと、そこにはひとりの男が立っていた。
黒いマント。
広い肩。
鋭い目。
王都一の処刑人、《斬首のガルド》だった。
「……ガルドさん」
「顔色が悪いな、殿下」
ガルドは、じっとレオンを見下ろした。
「昨日の処刑台でも思ったが、
あの光景を真正面から見ていたのは、
あんたと、あの小僧くらいのもんだ」
「あの小僧……処刑人見習いの子?」
「ああ、カイだ」
ガルドは鼻を鳴らした。
「いい腕をしてる。
首を一撃で落とすってのは、なかなかできねえ」
「……そうだね」
レオンはあの少年の顔を思い出した。
震えながら、それでも逃げず、斧を振り下ろした目。
姉は最後に、その顔を選んだ。
「ガルドさん。
姉上の首は、しばらくあの礼拝室に置かれることになった」
「ああ、聞いてる。
王の命令が変わったら、俺が運ぶことになるだろう」
ガルドは肩をすくめる。
「だが殿下。ひとつ言っておく」
「……何を」
「死んだ首は、そう長くきれいなままじゃいられねえ。
王家の血だろうが罪人だろうが関係ない。
腐って、崩れて、ただの肉になる」
あまりに率直な言葉に、レオンは胸の奥を刺された。
「“姫”っていう物語の終わりは、もう来たんだ。
あとは、残った首どもがどう生きるかだけだ」
ガルドはそれだけ言うと踵を返した。
レオンは、その背中を見送る。
(残った首、か)
姫の首は落ちた。
今も台座の上で、静かに横たわっている。
じゃあ自分は。
自分の首は、いまどこを向いている。
考え始めた途端――
――カチリ。
耳の奥で、小さな音が鳴った。
歯車が噛み合うような、高くて乾いた音。
レオンは思わず立ち止まる。
(……今のは)
振り返っても誰もいない。
廊下には自分の靴音しか響いていない。
心臓が嫌なリズムで跳ねる。
「……気のせい、だろうか」
呟いたそのときだった。
首筋に、ひやりとした感触が走った。
冷たい何かが皮膚の底をなぞるような、
薄い刃物の気配。
レオンは思わず手を伸ばし、自分の首筋を触った。
指先に、かすかな痛み。
見ると、白い指先に赤い点がついている。
「……え?」
慌てて近くの飾り鏡をのぞき込む。
首筋のあたりに、
細い赤い線が一本、横に走っていた。
血が流れるほど深くはない。
だが明らかに「線」とわかる印。
(いつ……?)
どこかでぶつけた覚えも、転んだ覚えもない。
なのに、その線は、
まるで首輪のように彼の首に刻まれていた。
ぞくり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
その瞬間、
耳の奥で、誰かの声がした。
『レオン』
聞き慣れた、静かな声。
姉の声。
『首が、どんな気持ちか知りたいって言ってたでしょう?』
レオンは廊下の真ん中で固まった。
周囲には誰もいない。
けれど確かに耳元で囁かれた気がした。
『“首を斬る側”に立った人間も、
いつか自分の首を試されるのよ』
声は柔らかく、残酷だった。
『だから、ちゃんと見ていて。
この国が自分の首をどう使っているのか。
あなたの首が、どこを向いているのか』
――カチリ。
今度の音は、はっきりと。
世界のどこかで歯車がひとつ、
確かに回り始めたような音。
レオンは首筋を押さえたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……姉上。
それでも、俺は――」
言葉の先を、彼はまだ知らない。
このときの彼には、
自分の首の赤い線がこれから少しずつ濃くなっていくことも。
首だけの姫と処刑人の少年が、
王国の首を一つずつ落としていくあいだずっと、
自分もまた「試される首」の一つになっていくことも。
まだ、何ひとつ知らなかった。
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