全てはエーテルに満ちた世界のために!
思不見 昂
第1話 雨に降られて
降りしきる雨の中、手にした鞄で顔を庇いながら小走りで駆ける男の姿があった。
「クソっ、何が降水確率一〇%だ。土砂降りじゃないか」
雨音に遮られているとはいえ大声を出すのも憚られ、小声で毒づきながらも懸命に足を動かし、目の前で道路の信号が赤になったのを見て「畜生」と漏らしながら、普段は入ることのない小路へ入り帰路のショートカットを企む。
運動不足が祟り、ぜいぜいと呼気が荒くなっていくにつれて、天気のことから今日の業務、更には雨が降らないうちにさっさと帰っていった上司へと移り変わっていた文句は鳴りを潜めていく。終には足がもつれて転びそうになったところで、目の前に頼りない光を放つ喫茶店の看板が目についた。
「ハァ……ハッ、もう、限界……」
もつれそうになる足をなんとか動かし、男は喫茶店の軒先に転がり込んだ。膝に手をついて息を整えること数分、ようやく顔を上げたが雨は一向に止む気配がない。彼はこのまま雨宿りをするか、もう一度走り出すかを決めあぐねていたが、喉の渇きに耐えきれずに喫茶店のドアに手をかけた。
「いらっしゃいませ。よろしければ、そちらのハンガーに上着をかけていただいて、カウンターへどうぞ」
ドアベルの音と共に店内に入ると、耳に心地よいクラシックの音色と共に、エプロン姿の柔和な老紳士が出迎えた。男が案内に従って席につくと、音もなく冷水の入ったコップが差し出される。
「んぐっんぐ、ぷはぁっ。あー生き返った」
「それは良うございました。そろそろ店仕舞いの予定でしたが、これも何かの縁。軽食でもお出ししましょうか?」
男は断ろうと口を開きかけるが、盛大な腹の虫の音に遮られる。照れ隠しで彷徨わせた視線の先、メニュースタンドにクラブハウスサンドの文字を見つけて、空腹の我慢をやめることにした。
「じゃあ、クラブハウスサンドと、おすすめブレンドで……」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
ふわりと漂い始めたコーヒーの香りに釣られて店内を見回すと、よく使い込まれた什器に囲まれた空間の一角に、異質なものが鎮座していた。ゲームセンター用の大型ゲーム筐体である。それも、昔に流行ったシューティングゲーム用のテーブル型筐体ではなく、格闘ゲームと言われるジャンルでよく使われていたレバーとボタンで操作するタイプのものだった。
(あれは……うわ、アンリミテッド・コンバットじゃん。懐かしいけど、あんなもの置いてんのか)
「知人が置き場所に困って押し付けていったものです。あれをやるために来てくれるのはいいのですが、メンテナンスと電気代を考えると悩ましいもので。遊んでみても構いませんよ」
老紳士は苦笑しながら、湯気の立つカップとクラブハウスサンドの載った皿を男の目の前に置いた。
男は、カップから立ち上る香りに後ろ髪を引かれつつも、辛抱できずにクラブハウスサンドにかぶりついた。カリッと香ばしいトーストの内には、丁寧にローストされたチキンのほぐし身とトマトにきゅうり、ソースが塗られていない代わりにコールスローサラダが挟まっていた。
(カリカリに焼かれているけど少し分厚いから中身のふわふわ感も楽しめるトーストに、柔らかいチキンとシャキッとしたコールスロー。後は、ベーコンチップか。味付け以上に食感で美味しさを引き出してる)
思っていた以上に早く食べ終えてしまい、もっと味わうべきだったと勿体なさを覚えながら食後のコーヒーを口にして、男は驚いたようにカップの中身に目を向ける。
(へぇ。香りの強さからして、苦みか酸味も強いものだろうと思ったけど、全然角が立っている感じがしない。バランスがいいというか、すごく飲みやすいな)
おかわりが欲しくなったが、給料日前で財布の中身が心もとないのを思い出し、男は未練を断ち切るために立ち上がって料金を支払う。
「すごく、おいしかったです。あと、あれをやらせてもらってもいいですか?」
店の奥に鎮座した筐体を指しながら問いかければ、老紳士は鷹揚に頷いた。
「ええ、構いませんよ。店仕舞いもあるので、熱中しすぎるようでしたら口を挟ませてもらいますが」
「ははは、気をつけます」
男は筐体の前の簡素な椅子に座り、百円玉を投入口に入れる。画面がデモンストレーションプレイから切り替わり、派手なファンファーレと共にキャラクター選択画面が映し出される。レバーをぐるりと回して感触を楽しんだ後、彼は昔よく使用していたキャラクターを選んだ。
店内に拍手が鳴る。はっとしてエンディング画面から目を外せば、男の後ろにエプロンを外した老紳士が立っていた。思いの外熱中していたことに気恥ずかしさを覚えている男に対して、拍手を止めた老紳士は鋭い視線を放ちながら口を開いた。
「こちらへどうぞ」
老紳士の差し出した手の先、バックヤードへと続くであろう扉が独りでに開かれる。
「いや、その、十分楽しかったしもう夜だし、帰りたいんですけど……?」
「こちらへどうぞ」
「は、はい」
老紳士の有無を言わさぬ態度に怯え、男はつい従ってしまった。扉の先はたしかにバックヤードで、備品が置かれた棚や業務用冷蔵庫に事務用の机、段ボール箱が積み上がっているくらいだったが、二人が入ると店内に繋がる扉が閉まり、奥の棚がスライドしてエレベーターが露わになった。
男は老紳士とエレベーターを交互に見るが、老紳士は何も言わずに首肯を返すのみだった。仕方なくエレベーターに乗ると、老紳士は本来階層を選択するボタンがあるはずの場所に手を置く。すると、エレベーターの扉が閉まり、音もなく下降していった。
四、五階層程度では収まらない時間の下降を続けたエレベーターは、止まる時に特有の重圧と共に停止し、無機質な電子音を鳴らしながら扉が開く。そして、老紳士に先導されて数分程度歩いた先には、重厚な両開きの扉があった。
男がごくりと唾を飲み込んでいるうちに、老紳士が扉をノックする。
「入れ」
奥から響いた応えに音もなく扉が開く。それに釣られて、男はそのまま部屋へと入る。後ろで扉が閉まった気配で我に返るものの、扉は老紳士に遮られてしまっていた。
「よくぞ我が結社への入門試験を突破したな。妾はアイリーン・エインズワース! 秘密結社ニュートラライズ・エーテル・ソサエティの首領である! 貴様の名を聞こうか!」
振り返りながら男に声をかけた者は、軍服のようなものを身にまとい、ロングコートを肩にかけた、昏い赤髪が特徴の幼い女の子であった。
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